「差別」と「区別」はどう違う?もちろん微妙な問題だけど、僕なりに思うこと

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壁にもたれて下を向く女性

もうだいぶ前になるけど、僕はこんな文章を書いた。

現代の日本みたいな社会では、一応表向きでは 差別はしちゃいけないよ! ってことになってる。これを「区別」とどう分けるかっていう問題は...

そこに僕は、

違いを認めて「違うもの」として捉えるのが「区別」で、その差によって「優劣をつける」と「差別」になる

っていう僕なりの見解を書いていた。

最初に言っておくと、今でもこの考えは基本的には変わっていない。でも今の僕は、この説明だけじゃまだまだ足りないと思うようになった。だから前に書いたものも踏まえたうえで、今もう少し掘り下げて、書いてみようと思う。

差別はそもそも「定義不能」で、「理論的に説明」できない?

じゃあとりあえずの参考として、他のひとの説明・定義を見てみよう。そしたらたとえば

差別(さべつ)とは、特定の集団や属性に属する個人に対して特別な扱いをする行為である。それが優遇か冷遇かは立場によって異なるが、通常は冷遇、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。国際連合は、「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である。」としている

なんて説明が出てくるんだけど、このすぐあとには、

ある事柄を差別と判定する場合、告発する者の伝達能力・表現力と受け手の感性に因るところが大きく、客観的事実として差別の存在を証明するのは実際にはそれほど簡単ではない。差別に伴う不条理な事例は第三者には比較的共感を呼びやすいが、差別をする側にいる人々にそれが差別であると認めさせるには困難が伴い、差別問題が差別か正当な区別かで争われる事例も珍しくない。

差別を理論的に説明するにはまず差別の定義を行う必要があるが、平等・不平等といった価値命題は科学的に論定することができない。差別は普遍的な実体とし存在するものの、その定義付けは困難であり、定義不能とする研究者も少なくない

なんて話が出てくる。こんなふうに言われちゃうと

じゃあもうほとんどお手上げじゃないか!

っていうふうにも思えてくるんだけど、ここに書いてある

差別問題が差別か正当な区別かで争われる事例も珍しくない

っていうのをひとつの手がかりにするなら、これを

「『差別』と『区別』をどう区別するか」

っていうところから考えていくことはできるんじゃないかとは思う。じゃあそういう目線で、今度は

「区別」

のほうを同じウィキペディアで見てみると、そこにはこんなふうに書いてある。

1.複数の物の間に認められる特徴や差異を見出し分けること。

2.分けられる複数の物の間に認められる特徴や差異。

そしてここには、少なくとも現時点では、差別と対比してどこが違うかというような説明は書かれていない。

それどころか、

【差別】

〔「しゃ」は呉音〕

① 〘仏〙 平等に対して、それぞれの物が異なる独自の仕方で存在している姿。さべつ。

② 区別すること。 「人我にんがの-も分り憎くなる/風流仏 露伴」

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 差別の用語解説 - 特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす。その差別的行為の対象となる基準は自然的カテゴリー (身体的特徴) の場合もあれば,社会的カテゴリー (所属集団) の場合もあるが,いずれにせよ恣意...

なんていうふうに、差別も区別もほとんど同じものとして捉える説明もある。

こうなるといよいよ混迷した話になりそうではあるけど、これはある意味では

今のところ誰もはっきりとした説明を打ち出せてない。そして同時にこれはやっぱり、哲学的(心の内側)の問題だ

ということを示しているんじゃないかとも思う。だからいったんこれを踏まえたうえで、僕は僕なりの視点から、このことを考えてみたいと思う。

「差別される」のは困るけど、「区別されない」ことで困ることもある

じゃあ今度は逆に

差別の反対語・反対概念はなんだろう?

っていう視点から見てみたらどうなるだろう?

そしたらまず素朴な見かたとして

「差をつけて別けられる」のが差別なんだとしたら、その逆は「差をつけられない」だから、「みんな同じように扱われる」ってことなんじゃない?

っていう考えかたが出てくることはあるんじゃないかと思う。確かに

「それぞれにどんな背景や違いがあっても、同じ扱いを受けられる」

っていうのは、一見すると素晴らしいことで、異論の余地がないようにも思える。

でももしこれが徹底された先に、一切の「区別」すらない社会ができたら、それはそれで僕は困ってしまう。だって、

俺だって走れるんだから、お前だって走れよ!

って言われたら、それがたとえ

「自分と相手を区別しない」

っていうことだとしてもさ、やっぱりつらいでしょう?

それにもっと身近な例で言ったら、たとえば僕はエレベーターがないと階の上り下りができないわけだけど、そのときにたとえば

「従業員専用通路を通った先にある、貨物用エレベーターに乗る」

なんてこともよくある。でもそんなときに

なんで従業員でもないお前が「従業員専用通路」を通れるんだよ!そんなことが許されるなら、俺だってそこを通せよ!

って言われたら、困ってしまう。でもほんとは、

「誰でも同じように扱う」

というのを文字どおり徹底するってことは、そういうことでもあるんだと思う。だけど言うまでもなく、そんなことをすると今とはまた違う意味で、社会がめちゃくちゃになってしまうと思う。

だからやっぱり、「区別」は必要なんだ。でも僕にもあなたにも誰にでも、「差別」されたと思って哀しくなったり苦しくなったりすることはあると思う。だからどこかに、その線引きはあるはずなんだ。すごく微妙で繊細な線かもしれないけど、やっぱりどこかには、あるはずなんだ。

僕は、そう思ってる。

差別と区別の差は結局「相手に対する愛情/悪意があるかないか」なんじゃないかなぁ?

じゃあ今の僕なりに思う差別と区別の線引きはどこかって言われたら、

「相手に対する愛情/悪意があるかないか」

なんてことなんじゃないかなぁと、僕は思ってる。たとえば

「差別語」

とか、そこから派生した

「放送禁止用語」

なんかも実際に決められてると思うけどさ、それだってほんとは

誰にどんなタイミングで、どんなふうに言われるかによって、同じ言葉でも傷ついたり傷つかなかったりする

なんてことは、当たり前なんじゃないかと思うんだよね。もちろんさっき言った「差別語」とか「放送禁止用語」なんていうのは、

「一般的には『悪意を持ってぶつけられた』と解釈されるので、遣わないほうがいい」

ってことなんだと思うけどさ、それだってタイミングと相手によっては

「仲間意識・連帯感・親密さを高める言葉」

として受け取れないわけでもない。

だからその意味ではやっぱり、いちばん大切なのは、

そのひとがその言葉・態度・対応にどういう気持ちを込めてるか?

ってことなんじゃないかと、僕は思うんだよね。

ただそのうえで、やっぱりコミュニケーションっていうのは発し手と受け手の双方があるものでもあるから、

「発し手が愛情のつもりで投げかけたものを、受けては『悪意』として受け取った」

なんてこともあると思うし、基本的にあらゆる

「ハラスメント」

なんていうのも、こういう行き違いが基にあるんだとも思う。

それに、

「悪意」がないからってなにを言ってもしてもいいわけじゃないし、むしろ悪意(自覚)がない悪行が、いちばんタチが悪いんだよ!

っていう意見が出るのもわかる。でも僕としては

悪意がないんだったら、理解してもらえれば直ると思うし、逆に受け手としても悪意で投げかけられてるんじゃないんだったら、余計に傷つかなくて済むからいいんじゃない?

って思ってるから、そんなには深刻に捉えてないんだ。

ただなかには

「相手が傷ついたり苦しんだりするのもわかったうえで、意図的に悪意をばらまくひと」

もいなくはないと思うから、ほんとはそれがいちばんの問題じゃないかとも思うんだけど、僕はそういうひとは、実際にはそう多くはないんじゃないかと思ってるから、いずれはどうにかできるんじゃないかなぁとも思ってるんだよね。たいていの場合は、単なる

「無知」(相手と接する機会の不足)

から来てるんじゃないかと思ってるからさ。

でもやっぱり難しい問題だ。だけど僕にとって「切実な」問題である以上、これからも僕なりに考え続けたい

でもいろいろ言ってはみたものの、やっぱりすごく難しい問題だとは思う。それにこういうことは、今後ますます増えていくんじゃないかとも思う。

だって、世界は多様だから。多様であるということに、ますますはっきりと気づいてしまったから。

それはたとえばインターネットの普及とかいろんなことが関係してるとも思うけど、とにかく世界はますます多様になっていく。逆に「ますます均一・同質になっていく」というようには思えないから。もちろん、

「似たひと同士が集まる」

ことはできると思うけど、それでも他のひとたちからの影響を断つことができない以上は、同じ世界に、地球に生きている以上は、そういう意識を持ってしまった以上は、もうこの流れが急に変わったり反転したりするなんていうのは、僕にはちょっと想像できない。

だからきっと、こういう難しい問題には、難しいとわかっていても、これからも何度も向き合わないといけないと思う。まして僕の場合はなおさらだ。だって、僕は弱いし、「一般的なひと」とは違いすぎるし、どうしたってそういうことからは逃れられないからだ。だから僕は僕なりに、僕にとって切実なこういうことと、向き合っていきたいと思う。あなたも一緒に考えてくれたら、すごく嬉しいし、ありがたいと思う。

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