誰も起きてはならぬ

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漆黒の闇と月

夜しか知らなければ、夜とはなんなのかを理解することはないだろう。

明るい昼と比べられないのだから。

自分しかいないのであれば、自分とはなんなのかを理解することはないだろう。

だから今、私がなぜこんなことになったのか、私には知る由もない。

 

夢のなかで1年を過ごしたにせよ、それは実際には数時間の間のこと、あるいは数分の間のできごとだということは珍しくない。

だから私も、あれがいつのできごとだったのか、もはや思い出すことはできない。ただあのときの私たちは、私は、女王に仕えていた。素晴らしいひとだった。世界のすべての苦しみを、自分のこととして捉えることができるひとだった。誰の眼から見ても、素晴らしいひとだった。けれど当時の私たちは、私は、それほどのひとの全力を以ってしても、世のなかの苦しみは晴らしきれるものではなかったということ、そしてその事実を日々突きつけられる女王がいかに素晴らしいとしても、だからこそその心に昏い影が差すということを、ほとんどなにも理解してはいなかったのだった。

 

私たちはこの世界に在って、いったいどれだけの善を成しているのでしょうか?私たちはこうして動き回った結果、どれだけの果実を実らせているのでしょうか?いまや私たちがどうあがいてみても、実のところそれは自然への叛逆、調和への暴虐以外のなにものでもないのではないでしょうか?それならいっそ私たちは、静かに歩みを止めるべきだと、私は思ったのです。朝目覚めることが、これ以上の苦痛へと成り変わってしまう前に、すべての苦痛と哀しみが、これ以上醜いものに変わってしまう前に、すべての窓を閉めるべきだと、私は思ったのです。だから私は、私たちは、これからともに眠りに就きましょう。誰とも争うことのない世界へ。誰も比べ合うことのない、すべてが自分自身のなかだけで巡り続ける世界へ。怖いことはありません。私も一緒に眠ります。そして誰も、誰ひとり、起きてはなりません。もし眠りを破ったときは、あなたのいのちはなくなるものと思いなさい。ともに眠りなさい。そして二度と、起きてはいけません。これが私の、最後の命令です

女王がこのように宣言したとき、私たちは最後の闘いに身を投じる覚悟を決めていたところだった。相手は強大で、勝算はなかった。それでも、最期まで闘い抜こうと決めていた。ところがその朝、女王は私たちに対して、このように言ってきたのだった。

私たちのすべてを眠らせる?それは今私たちを手にかけようとしている、あの相手も含めてなのだろうか?いやそれどころか、女王はこの世界のすべての人間を、眠りに落とそうとしているのだろうか?だとしたらそんなことが、本当に可能だと言うのだろうか?それにもし眠りを破ったときは、そのいのちがなくなると言う。すべての人間が眠りに就くと言うなら、目覚めた人間を殺すのは、いったい誰が行うというのだろう?

 

私には、わからないことだらけだった。けれど今までも女王は、無理難題を成し遂げてきた。誰がなんと言おうと、自分の信念を貫いてきた。そんな女王が、最後と覚悟を決めて取り組んだことならば、きっと本当に成功したのだろうと、私は思った。それに、私は既に死を覚悟していた。これからなにが起きるにせよ、抗う選択肢などない。なにより女王がその言葉の裏で、今にも泣き出しそうに唇を噛みじっと耐えているのを見て、私はそれ以上のことを問う気にはなれなかった。そしてそれは、その場にいたすべての者が、共有している想いだった。ただ私たちは、私は、女王がそんな顔をしていることを、女王にそんな顔をさせてしまったことを、心から申し訳なく思った。だからもし、これから起こることがなんであるにせよ、それがなにかの罰のように思えるものであったにせよ、それはすべて、このうえなく、私にふさわしいものなのだろう。

私の決断を受け入れてくれて、ありがとう。私は失敗ばかりの人生のなかでも、あなたたちに出会えたことだけは、これ以上なく誇りに思っています。どうか、ゆっくりおやすみなさい。そしてどうか、よい夢を

女王はそう言って微笑み、窓のほうへと歩いていった。そして窓を開け放つと、しみじみとこう言った。

人間がどんなに醜い姿を晒していても、空はこれほどに美しい。あなたも一緒に見てくださいな。この美しさが、心に焼き付くように

 

けれど私は、見に行きたいと思わなかった。私が心に留めておきたいのは、魂に焼き付かせておきたいのは、そんな空の青さではない。私の人生に色を与えてくれたもの。私の人生に、目的と展望を与えてくれたもの。そんなあなたの姿以外に、見るべきものなどなにもない。どこにも、なかったのだから。

するとにわかに、雨が降ってきた。世界中が一斉に泣き出したような雨だった。しかしそれ以上のことを考える間もなく、私の意識は遠くなり、完全に途絶えてしまった。

 

これが、私に残る最後の記憶だ。にもかかわらず、私は今こうして、自らの意識を取り戻している。これはいったいどういうことなのか、私には見当もつかない。しかし周囲からは、なんの音もしない。なんの香りもしない。そして不思議なことに、餓えも渇きも感じなかった。そんななかで私は、目を開けようとは思わなかった。動きたいとも思わなかった。ただ、起きながら眠っていた。眠り続けようとした。誰も起きてはならない。決して起きてはいけない。これが女王の、彼女の、最後の命令だったのだ。

 

眠りは知らぬ間に訪れ、知らぬ間に去っていく。だから私も自分でも気がつかないうちに、眠ってしまっていたのかもしれない。ただいずれにしても、私は今また起きている。起きてしまっている。これはあまりに大きな問題だった。そしてそんな私に残された唯一の目的は、再び眠りに就くこと、それだけだった。

 

ねぇこんにちは!こんにちは!起きているんでしょう?ねぇ無視しないでよ!寝たふりしないで!起きてよ!起きてるんだから、目を開けて!

ふいに、強烈な音がした。それで私の意識は、またしても完全に起きてしまった。そして私は、この大きな「音」が、ひとの声、それも少女の声であることに気がついた。私は、眠っている間の夢を憶えていない。それに最後に起きていたのがいつのことなのか、今からどのくらい前のことだったのかも、まったくわからない。だからそれは本当に、久しぶりのことだった。

しかし私は、返事をする気はなかった。私は、眠っているのだ。眠らなければいけないのだ。それが、私の最優先事項であり、今の私にできる唯一のことだ。だから私は、黙り続けることにした。どうか、静かに眠らせてくれ。

ダメだよダメ!絶対ダメ!ようやく出会えたんだもん、寝ちゃうなんて言わないで!それにお兄さん、私が来る前からずっと起きてたんでしょう?だったらもうきっとそんなに寝れないと思うよ!ねぇねぇ、早く起きて起きて!

驚いた。この少女は、私の心を読んでいるのか?

あ、今お兄さん驚いた?「どうして俺の考えてることがわかるんだ〜」って、びっくりした?これはね〜、私の努力の成果なんだよ!だってどこに行ってもみ〜んな眠っちゃってて、誰ともお話しできないんだもん。だからね、「もしちょっとでも、このひとが考えてることがわかったらな〜」って、ずっとず〜っと思ってたの!そしたら、聴こえるようになったんだ!っていっても、まだまだぼんやりう〜っすらで、ぜんぜんはっきりしないんだけどね!

心の声を聴く少女?そんなことがあり得るだろうか?というより、そんなことは努力で成し遂げられるものなのだろうか?いや、すべての人間を眠らせることさえできるというなら、なにができても不思議ではない。なにより私たちは、私は、ほとんどなにも知らなかったのだ。そしてそれは、今でもなにも変わっていない。

あ、でもね、やっぱりみんな寝てるときは夢見てるみたいで、聴こえてくるのはそういうのばっかり。「おいしいケーキがいっぱいだぁ!」とか、「お城みたいなきれいなおうち!」とかね。それにみんなそっちに夢中で、ぜんぜんお話しできないの。それに揺り動かしても叫んでみても、ぜんぜん起きてくれないんだ。ほっぺたつねってもダメだったんだから!あ、でもお兄さんなら、つねったら飛び起きるんじゃない?やってみようかな〜?

残念だが、私はつねられようが殴られようが声を上げることはない。たとえ拷問にかけられても彼女を想えば心は折れない。ましてやこどもにできることなど、いくらやっても無駄なことだ。

なんかお兄さんすごく自信あるのかな〜?でも痛いのには強くても、くすぐられたら起きちゃうんじゃない?ねぇ、どうかな〜?

またしても邪道が王道を超えるというのか?確かに相手を侮ることは破滅の入口かもしれない。だが今度こそは、そう負けてはいられない。来るなら来るがいい。全力で相手になってやろう!

……でも、やっぱやめとこっか。せっかくお話しできるひとに出会えたのに、嫌われたくないもん。私お兄さんとは、仲良くしたいんだ

それは私も同じだ。誰とでも仲良くできるなら、傷つけ合わずに済むなら、それに越したことはない。

あ、わかってくれた?よかったぁ!それともこれも、ぜんぶ私の思い込みかなぁ?でもさ、みんなだって夢を見てるんだったら、おんなじことだよね?だからもしこれがほんとに私のひとりごとだったとしても、それならそれでもいいんだ!私はお兄さんは起きてると思ってるし、私はこうしてお兄さんに向かって話してるの、すごく楽しいもん!

 

不思議な少女だ。話を聴く限り、やはり彼女以外の全員は眠っているらしい。にもかかわらず、この子は諦めず、その結果私を見つけ、私からろくな返事もないのに、私に話しかけ続けている。こんなことは、そうそうできるものではない。

 

いや、そもそもなぜこの子は起きているのか?彼女以外のすべてのひとが眠っているというのに、なぜ彼女は起きている?それに、もしこれがすべて女王のしたことの結果だとするなら、なぜこの子は生きている?「誰も起きてはならない。もし起きたら、そのいのちは失われる」。女王はそう言っていたのに、なぜこの子はこうして生きているのか?

私には、なにもわからなかった。いやそもそも最初から、私になにかが理解できたことなど、なかったのかもしれない。

ねぇ、お兄さんなんか困ってる?だいじょうぶだいじょうぶ。私はこうしていられるだけで充分だし、なにも無理しなくていいから。でももしお兄さんが起きて協力してくれるなら、私はお兄さんと一緒に、他にも起きてるひとを探しに行こうと思ってるんだ!

他にも起きているひとがいる?私と同じように、実は意識を取り戻しているひとが?確かに、その可能性はある。私がこうしていて、この子がこうしていること自体が、充分にその可能性を示唆している。

ただもしそうだとして、だからなんだと言うのか?起きているひとが2人だろうと、100人1000人10000人だろうと、それがなんだと言うのか?そもそもかつてたくさんのひとびとが生きていたときに、世界はどんな姿をしていた?それがあまりにも苦しいから、女王は決断した。唇を噛み、涙を堪えながら、やむにやまれず決断したのだ!私は、それを尊重したい。今度こそは、せめてそれくらいは、尊重して差し上げたいのだ!

 

私は、詳しいことはわかんない。それに私が起きたときには、もうみんな寝ちゃってたし。みんながどうして寝ちゃったのかも知らないし、私は寝る前のことも憶えてないんだ。だからたぶん、私はみんなが寝始めたときに、初めて起きたんじゃないかって思ってるの。でもね、みんながなんで寝てるんだとしても、それですごくしあわせな夢を見てるんだとしても、それでも私は起きていたいんだもん!そしてみんなで、いっぱい遊びたいんだもん!それに私は初めて起きてから、すごくきれいな空を見たの!それだけで、私は起きててよかったって思えたんだよ!だってもし私がどれだけ眠ってみても、私が見たことがない空は、あんなにきれいなものは、夢にだって出てこないと思うから!

 

私の意識は、もはや完全に目覚めてしまった。目を開けずにいるのが精いっぱいだった。私は、おそらくは私の半分も生きてはいないであろう少女に強く心を動かされていた。そのとおりだ。女王がどれだけの哀しみを背負っていたとしても、その結果どれだけの葛藤を経て決断したことだとしても、それはこの子には関係のないことだ。それに女王も本当には、世界のしあわせを願っていたのだ!眠らせることが目的ではなく、すべてのひとが安らかにいられることを願っただけだったのだ!それなら、それが私の最も大切なひとの想いだというなら、今の私にできることは、今の私が為すべきことは、こんなことではないのではないのか?

 

しかしそれでも、私はまだ目を開けられずにいた。私がこの世界でもういちど起きたとして、どれだけの善を為せるというのだろうか?私があれこれ動き回ったとして、なにを実らせられるというのだろうか?それならば、私はこうしてこの子の声を聴き続けているだけのほうが、よほどいいのではないのか?

私にはわかる。この少女は女王に似通っている。そしてだからこそわかる。私はこの子ほど清らかではない。この子の全幅の信頼に応えられるほどの器を保っていない。その結果は、もう既に経験したことだ。私はこれ以上、彼女を傷つけたくない。身の丈に合わないことをすれば、自分だけではなく、相手をも破滅させてしまうのだから。

なんかお兄さんっていろいろ考え込んじゃうほう?おとなってみんなそうなのかなぁ?でもいいんだよ。私は別にお兄さんに無理をさせたいわけじゃないんだから。それに、他に起きてるひとがいてもいなくてもどっちでもいいんだよ。だって、お兄さんにはもう出会えたんだからね。それに、お兄さんは自分のことを好きじゃないのかもしれないし、自信がないのかもしれないけど、私だって、そんなにすごくなんかないよ。ほんとは、ひとりで泣いたりもしてたんだよ。でもひとりで泣いてもよけい寂しくなっちゃうから、泣かないでいただけ。だけどお兄さんが起きてくれたら、泣いちゃうと思うなぁ。それくらい嬉しいってことだよ?それに私自分の顔鏡で見たんだけど、泣いたらすごくヘンな顔になるんだぁ。だからきっと、お兄さんも笑っちゃうと思うよ。ほんとに、おもしろい顔なんだよ。ねぇねぇ、見てみたいと思わない?

 

こんなことで起きてみようと思うのは、バカげているかもしれない。ただ私は確かに、起きてみたいと思っていた。それに本当はずっと、そう思っていたのかもしれない。ただそのきっかけが、明確な目的が、欲しかったのだ。私は、この子の顔を、泣いている顔を、笑っている顔を、見てみたいと思った。本当はずっと、それだけだったのだ。

ただ私は、まだ不安があった。私はもう長いこと、目を開けていない。今周りは、どんなことになっているのだろうか?今の世界は、どんなことになってしまっているのだろうか?私には、わからないことが多すぎる。それにもし、周りが光に満ちていたら、私の目はその光に耐えかねて、潰れてしまうのではないだろうか?

あ、お兄さんなんか心配してる?目のこと心配してる?だいじょうぶだいじょうぶ!それにそんなに心配なら、私が開いてあげる。ゆっくりやるから、だいじょうぶだよ。それにくすぐるわけじゃないんだから、嫌がらないでね?

そんな心配は要らない。自分の目くらい、自分で開けよう。これでも私のほうが、おとななのだからな

くだらない意地を張ってしまったかもしれない。だがここまでしてもらったら、最初の一歩くらいは自分で踏み出さなければいけないと思った。それに、そうはいってもいきなり目が開いたのでは、この子も驚いてしまうだろうから。とはいえ、いきなり声を出されたのも、それ以上に驚くことだったかもしれないが。だがともかく、これで私の声がまだ出せることも確かめられた。本当はこれにも不安があったのだが、なんの問題もなかった。これからきっと、目もすぐ開けられるだろう。念のためゆっくり開ければ、まずだいじょうぶだ。私が本当に起きたら、この子は最初に、どんな顔をするのだろう?今私はそれを心から、楽しみに思えていた。

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