僕を医学的に評価したときにいちばん大きな要素は、「脳性麻痺」で間違いないと思う。でもこの脳性麻痺というのは、大なり小なりアスペルガー症候群と親近性があると感じているんだ。だって両方とも
「脳のはたらきかたが、生まれつき普通(多数派・一般的)ではない」
っていう、共通点があるんだからね。そして少なくとも僕自身は、かなりアスペルガー的なところがあると自覚してる。だからそのことを、前にも

っていう文章に書いたこともある。
そんな僕が、ネットで話題になっていた、この文章を読んだ。

これはタイトルの過激さや内容の重さも相まって、いろんな意見を呼び起こしているようで、たとえばこれに対する感想として書かれた

なんかも、連鎖的にいろいろなひとに読まれてるみたいだ。
こういうのを受けて、僕も改めていろんなことを考えた。だから僕もここに、僕なりの視点から、感想や想いを書いてみようと思う。
アスペルガーのひとは一般的(多数派)のひとと比べて、感情表現(言葉遣い)が独特なんだと思う
まず、僕が強く感じたことのひとつは、
彼はこれでも、彼女を愛していないわけじゃない。それに、なにも感じてないわけでも、どうでもいいと思ってるわけでもない
ということだった。アスペルガーのひとというのは、たいていの場合、一般的な眼から見て、
空気を読めてない
もの言いが率直過ぎる
なんていうふうに言われることが多い。ただこれはもちろん個人差もあるし、必ずしも、
まったく空気を読む気がない
ということじゃないんだけど、少なくとも一般的な平均から見れば、そのように言われてしまう。でもこれは、言い換えれば
言葉にされたものには、変な裏がない
という意味だとも言える。実際、彼自身も
人にどう思われようと関係ないじゃん。事実を言ったことの何が悪いの?嘘をついて褒めれば良いわけ?
と言っている。
だから彼女が
私のことが大事じゃないの?
と訊いたとき、彼が、
俺は君が大事だし、優しくしているつもり。毎日一緒にいるし、いろんなところに連れて行ってるよね?
と言ったのなら、それはそのまま受け止めていいものだと思う。だから僕は、彼が彼女を愛していることは、ほとんど疑いの余地がないと思っている。ただ、僕は一方で、こうも思う。おそらく一般的な感性のひとたちには、
毎日一緒にいるし、いろんなところに連れて行ってる
ということが、どうして愛や優しさの表現なのかが、それほど伝わらないんだろうって。でも僕としては、自分を振り返ってみても、
誰かとずっと一緒にいるとか、自分の行くところ行くところ(自分が最高潮にハマっている釣りの現場でさえ)に誰かを連れて行くっていうのは、本来彼にとっては、とても大きな負担なんだろうな
と思う。だからそんなふうに
「本来は負担に思うはずのことを、喜びとして選べる」
ということ自体が、まず大きな、愛の証なんだ。でもこれはきっと、すんなりとは伝わらない。だけど彼には、
「この事実によってさえ、たいして伝わらない」
っていうことが、おそらくあまりわかってない。だからここがひとつの、大きなすれ違いを生んだんだろうと、僕は感じたんだ。
だからこの先を考えるにも、まずここでいったん確認しておきたいことは、
アスペルガーのひとが気持ちに寄り添ってくれないように見えても、それは「寄り添う気がない」ことを意味してない。アスペルガーのひとの気持ちがまったく見えてこなくても、それは「なにも感じてない・思ってない・無視している冷酷な存在だ」ということを意味しているわけじゃない。ただ、「想いはあっても、それを表現するのが下手すぎる」ということ、そして「想いを表現する方法が、一般的な・多数派のひととは違うことが多い」ということを、考えてみてほしい
ということなんだ。
これを踏まえたうえで、これは僕自身にとってもとても切実で重大な要素、「謝る」ということについて、考えてみたいと思う。
彼にとって、あるいは僕にとって、「謝る」ということは、なにを意味しているのか?
とても短くはまとめられなかったのだろう大変な紆余曲折を経て、彼女が彼への理解を深めていく文章の後段に、こんな印象的な場面がある。
「どうして分からないの?って言って、ごめんね」
私は彼に、謝った。ここから先は、私が彼に理解を示さなければならない。
「やっぱり俺は、謝る必要なんてなかったんだね」そう言って笑う彼に、ため息をつく。
「共感できない」彼に共感して生きていくこと、
それが、私達が二人で生きていく、唯一の方法だった。
きっと彼女は、彼が言った
やっぱり俺は、謝る必要なんてなかったんだね
という言葉に、改めて大きな隔たりを感じて、ため息をついたんだろう。そして、
やっぱり彼は私に共感してはくれない・共感できはしないんだ……
と、思ってしまって哀しかったのかもしれない。でも僕は、僕自身の経験も振り返ったうえで、彼の言葉に、もう少し立ち止まってみたいと思うんだ。それは、彼にとって、「謝る」ということが、どういう意味を持っているのかを、僕なりに改めて、考えてみるってことだ。
「悪意がない」ということ、そして、「繰り返さない自信がない」ということ
今の日本では、発達障碍についての研究もだんだんと進んできて、現時点では、こういったものについて、
「先天的な、脳のはたらきの差によって生じる」
というふうに理解されているんだと思う。だからそれは、彼がちいさいときから、幾度となくあったことだろう。実際それは、こういうふうに示唆されてもいる。
だけどよく考えてみれば、彼は誰かの下で働いたり、集団行動の中に溶け込んだことがなかった。(学生時代も殆ど一匹狼だったという)
空気の読めない瞬間は、友人との会話や、私とのコミュニケーションの中にも見られた。
ちょっとした日常会話が、スムーズにすすまない。
「そうなんだ」ですみそうな世間話も、自分と意見が食い違えば、納得できる形に訂正するまで、執拗にまくし立てる。
「なんでそう思うの?根拠は?ソースは?それってただの主観じゃないの?」
あまりにも突然スイッチが入るので、空気が凍りつくことも多かった。
ここで大切なことは、彼には一貫して、
「悪意がない」
っていうことだ。そしてこれはなにを意味しているのかと言うと、
「自分の言動・行動が、周囲に不快・驚き、衝撃・戦慄を与えることについて、うまく予測できていない」
ということでもあるんだ。だけどこれが、幼い頃からあったと前提するなら、おそらく彼は小さい頃、保護者にはこのことについて、何度も怒られたはずだと思う。
なんで、あんなことを言うの!
みたいにね。でも彼には、どうしてああいうことになったのかが、そもそもわからない。それになにより、彼はあんな状況を、作り出したかったわけじゃない。だから、それを素直に言うなら、
でも僕には、悪気はなかったんだ……
ということになる。でもここで、こういう場合の彼にとって、そして僕にとっても、
「最大の脅威となる価値観」
が登場する。それが
悪意がないのが、いちばんの悪意だ
というものだ。だからこれを直接言葉にすれば、
あんたに悪気があろうがなかろうが、相手を傷つけたらそれだけでダメなんだよ!だから、反省して、ちゃんと謝りなさい!
というふうになる。だからこう言われたら彼も、ちいさいときならなおさら、
ごめんなさい……
って言えたと思う。だけど、そうすると、謝ることに付随するもうひとつの意味が、必ずと言っていいほど登場する。それが、
だから、もうしないようにね!
というような言葉に代表されるもの、つまり、
謝ったなら、同じことの繰り返しを防ぐ(再発を防止する)責任がある(謝罪とは、繰り返すべきでない罪の自覚である)
というものだ。そしてほんとには、こういう思考っていうのは、アスペルガーのひとにとってこそ、馴染み深いものなんだ。
でもだからこそ、彼は悩んだと思う。彼には、この状況の原因が、そもそもよくわかっていない。だから、
「同じ失敗を二度と繰り返さない」
という、自信が持てない。だから、どう謝ったらいいのか、よくわからないんだ。これはまるで、手をうまく遣えない僕が、こどものころから今に至るまで、ご飯をこぼさずには食べられないのと、まったく同じようなものなんだ。
それに僕は最初に、
「彼には、一貫して悪意がない」
と言ったけど、まずこれ自体が、すんなりとは理解されにくいものだ。なぜなら誰でも、自分の感性・行動規範からあまりにもかけ離れているものを見ると、それが「自然(個人の意図とは無関係)に起きたもの」とは、なかなか思えないからだ。だから一般的な感性においては、彼のような行動は
「悪意・あるいは少なくとも、『周りからの否定的反応は引き起こすだろうという覚悟』なしには考えられないもの」
として受け取られる。だから僕も、ご飯をこぼしたことで何度も怒られた。
そしてここでもうひとつ重要なことは、同じことで何度も謝って、結果に変化がないと、
口先で謝るだけで誠意がない、周り(の気持ち)を軽んじているひとだ
という認識を与える可能性があるということだ。そしてこの
「口先だけで誠意がない」
と思われることほど、悔しくて苦しいことはない。特に、思考と言動と行動を一致させることを好む、アスペルガー的感性の持ち主ならなおさらだ。だから、こういう要素をすべて踏まえた結果、アスペルガーのひとは謝ることに相当の躊躇を感じるようになる。そしてだからこそ、謝るということができなくなっていく。だから彼が
やっぱり俺は、謝る必要なんてなかったんだね
って言ったのは、僕にとっては、
ほら、だから俺には、あなたへの悪意なんてなかったんだよ。それに愛してなかったわけでもない。わかってくれたでしょ?
って意味だと理解されるものだ。だからこそ彼は、笑ったんだ。それは、ほっとしたからだと、僕は思ったんだ。
謝って、許される。その積み重ねがきっと、彼にも必要なものだ
でもこの感覚すらきっと、彼女には伝わってない。だからこそ、彼女はため息をついてしまった。そしてきっと、それを知ったら彼も、ため息をつくだろう。だから僕としては、アスペルガー的コミュニケーションと一般的多数派のコミュニケーションの差について想いを馳せてもらいたいと思うし、それが凝縮されたもののひとつである「謝罪」というものについての、双方の溝を少しでも、埋めたいと思っているんだ。
彼は、そして僕も、知らず知らずのうちに、「大罪」を犯している。それは周囲のひとたちを傷つけ、振り回し、凍りつかせ、絶句させる。だけどそれは、簡単には「更生」できない。そしてだからこそ、謝っても許されない。謝って済むなら、警察は要らないと言う。そうなんだと思う。でもだからこそ、ここで考えてみてほしいことがある。
心から謝っても許してもらえないことが、どれだけ苦しいかって、少しだけ、考えてみてくれない?
もちろん、こんなことを言うから、さらにまた「自己中心的」なんだと思われてしまうのかもしれない。それに別に僕だって、誰だって、誰かを傷つけたいなんて思ってないし、傷ついたひとを放っておきたいとも思っていない。傷つけられることは、つらいことだ。
だけどもしあなたが、デートの待ち合わせに5分遅れただけで、ひどく相手を傷つけてしまったとしたら?ご飯のおかずを一品しか作れなかったというだけで、ご飯ぜんぶをまったく食べてもらえなかったら?そしてそのことについて、どんなに謝っても、許してもらえなかったら?そのときあなたは、どう思う?そしてそんな経験を積み重ねたら、それでもあなたは、なにかを謝る勇気を、持ち続けられると思う?
これが、この問題の切実さと複雑さと哀しさの根底にあるものなんだと、僕は思う。そしてだからこそ、彼がもっと気軽に、みんなの言う意味でもっと「自然に・自発的に」謝れるようになるのには、どうしても必要なことがある。
謝ったからと言って、「自白した大罪人」にされるわけじゃない。謝ったからと言って、あなただけが責められるわけじゃない。謝ったからと言って、次に繰り返したら殺されるわけじゃない。謝ったからと言って、相手はあなたを嫌わない。謝ったからと言って、相手はあなたを、見棄てたりしない。謝ったうえで、その先を見守ってくれるひとも、世界にはいる。そういうことを実感できて初めて、謝れるようになるんだと思う。そしてそれは、本当は、みんな同じなんだと思う。ただその機会が得やすいひとと、得にくいひとがいるっていう、そういうことなんだと、僕は思う。だけどそれは、誰にだって、必要なことなんだ。
もっと具体的に訊いたら、きっと具体的に答えてくれる
だけどそれでも、謝ってくれないと、気持ちが通わないかもしれない。共感されてないって、思ってしまうかもしれない。だからそんなときは、もっと具体的に、訊いてみたらいいんだ。
あなたは今のまま状況が変わらなくていいと思ってる?
ここに問題があるっていう認識は、共有できてる?
私がこの状況に困っているということは、伝わってる?
あなたもこの状況に、困ってる?ストレスを感じてる?
私がこの状況に困って、ストレスを感じてることを、あなたもつらいと思ってる?解決したいと思ってくれる?
こんなふうに訊いてみたらいいと、僕は思う。これは一般的なコミュニケーションで意志疎通を図れるひとたちにとっては、あまりにもバカバカしい確認のように思えるかもしれない。でもこれが、とても大切なんだ。だって僕たちは、言語表現も、感情表現も、培った経験も、なにもかも違うんだから。だからこれは、実際には、ほとんど「言語学習」なんだ。お互いの言葉を、近づけていくこと。相手の意図と定義を、確認していくこと。すべては、そこからなんだと思う。彼が
具体的に言ってくれ。君が泣いていたらどうしたら良いんだ?抱きしめれば良いの?大丈夫?って声をかけるの?はっきり指示してくれば、今後はその通りにするよ
と言ったことを、僕なりに翻訳するならこうだ。
君が泣いているときに、僕があなたのことを大切に思っていることを伝えたければ、どうしたらいいの?君の国の言葉では、この気持ちを、どんなフレーズで表現するの?
だから彼は、彼女を愛しているんだ。だって彼は
人にどう思われようと関係ないじゃん
というひとなのに、彼女の言動と行動は、気にかけている。それは彼女が、彼にとって、特別だからなんだ。だから彼だってその想いを伝える「言語」を、探しているんだ。
この文章も相当僕の立場を反映している。だけどきっと、なにかしら参考にはなると思う
もともと題材の文章も長かったけど、この文章はそれ以上くらい長くなった。ほんとはもっと具体的なコミュニケーション例を挙げていけばもっと長くもできるんだけど、キリがないから今回のところはこのくらいにしておこうと思う。そして最初にも書いたとおり、この文章も他の文章と同じように、相当に「僕の立場」を反映している。だからこの文章は、別に客観的ではないし、もっと言えば淡々と書いたものでもない。だけどだからこそ、きっとなにかしら、参考にはなると思う。そして僕は立場上彼に自分を重ねすぎてしまって、彼の心情をあれこれと推測したけど、このすべてが正しい保証もない。でももし、僕が彼と
「答え合わせ」
をする機会を持てたら、ぜひやってみたいと思う。そしたらきっと、当たっている部分も多々あるはずだと思う。それはきっと、僕の遣う言葉と彼の遣う言葉に、共通部分があるからだ。そしてそのうえで、僕もずっとあなたの言葉を、学び続けているんだ。
それと、僕のようにこの話題になんらかの反応やコメントを書いているひとのなかには、
自分の周りのアスペルガーのひとはこんなんじゃない。だから彼は単に、「性格が悪い男」なんだ
って言うような意見のひとも多々いたと思う。だけどこれは、
「『恋人』(という距離感)として付き合うということと、適度な関係(同僚・近所のひと・顔見知り……)のなかで付き合うということの差」
を、軽視しすぎだと思う。誰だって、恋人や近しいひとにはもっと甘えるし、いろんな意味で、
「他のひとには見せない顔」
を見せるし、弱さだって葛藤だって苦しみだって、自分でもどうしようもない部分だって、見せてしまうものだ。そして
それこそが、
「相手が特別な存在だ」
っていうことの、証だとも思う。だからこのことによって、彼の「人間性」にまで邪推を拡げることじゃないと思うし、逆に言えば、その「自分の周りのアスペルガーのひと」は、あなたの恋人じゃない。だから、あなたはそのひとが「恋人」に見せる顔を知らない。でもそれは、いいとか悪いとかじゃない。ただ単に、そういうものだということだ。だからこそ、誰かが家庭人として離婚したからと言って、そのひとが悪人だと言えるわけじゃないし、この彼にしたって、自分で仕事をして少なからずお金を稼ぐこともできる。だからそういった意味における「職業人」としては、もっと自分を調節できる。そしてそもそも、それが「アスペルガーの特性」なのか、「アスペルガーとは関係ない、彼自身の特性」なのかを厳密に峻別することに、たいした意味なんてほんとはない。ただ彼は、今の時点で、こういうひとだということなんだ。そして彼を理解するのに、「アスペルガーと呼ばれるひとたちに関する集合知」が役立つのであればそうすればいいという、そういうことなんだと思う。
そしてこの彼について
この彼がしていることはモラハラだよ!そしてあなたは彼と、共依存の関係にあるんだ。これは、不健全だよ!
という意見もけっこうあったけど、あらゆるハラスメントや関係性がそうであるように、それは基本的には、その当事者がいいのであれば、それでいいんだ。だから最終的には、本人たちが決めたらいいんだと思う。
そしてこんなことは、言うまでもないことだ。すべてのひとはかけがえのない、唯一の存在であって、その唯一の存在同士が創る関係性は、特にそれが親密なものならなおさら、これ以上なく唯一で、歴史上初めてのものだ。だから、それについて誰かの意見を丸呑みにしてうまく行くなんてことはあり得ない。だけどそれを踏まえたうえでも、僕たちには似通った部分があって、体験することにも類似性があり得る。だからお互いのしあわせのために、これからもお互いの体験を活かし合えたらいいなぁと、そう思っている。だから僕はあなたがくれた心の動きを、ここに書いている。誰かに少しでも役立ててもらえたら、すごくすごく、嬉しいと思う。
このあとさらにいろいろ考えたうえで、改めて

に追記しました。

コメントをどうぞ
初めてコメントします。なすびと言います。よろしくお願いします。
多数派を語る方々というのは、本当は弱い人なんだと思います。
傷つくことを覚悟で、自分の気持ちに正直になることが出来ない人たちなのだと思います。
それでは、本当の意味で、自分の人生を生きることはできないし、真の愛を見つけることだってできないと思います。
そういう意味では、そういう方々は、罰を受けているわけで、やっぱり世の中はうまくできているなぁと私は思います。
なすびさん、こんにちは。
そうですね、確かにそういう面もあるかもしれませんね。
傷つくことを覚悟で、自分の気持ちに正直になるというのは誰にとっても、もちろん僕にとっても難しいことですが、でも多数派というのは、
「代わりに言ってくれるひとがいる」
という点で、やはり間違いなく恵まれているなぁと、僕は思います。
ただもしその恵みがなくなったとき、自分の気持ちを言えなくなってしまうとしたら、あるいはさらに、
「少数派の立場に立ちたくないから、多数派の意見に合わせているだけ」
だとしたら、それはすごく不幸なことですよね。
でももしかしたら、こんなふうにみんなが自分の意見を偽っているのだとしたら、
「ほんとのほんとには、多数派に見えていたほうこそが少数派だった」
ということもあり得ますよね。
実際のところ、このままの社会でいいと思っているひとなんて、そんなにたくさんいるんでしょうか?
と、僕は思うんですけど、やはりこれも僕が「少数派」だと言うなら、なおさら僕も僕自身と向き合い続けていきたいと、そう思っています。