G線上のありふれた対義語

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走る地下鉄

車いすに乗っているということで不便なことはたくさんあるけれど、便利なことだって確かにある。そのひとつが、

「席がないということが起こり得ない」

ということだ。休みたくなったからと言って、座席を探す必要はない。座る場所なら、いつもここにある。休みたければ、止まればいいだけだ。

けれど、

「席がある」

ということは、別に

「居場所がある」

ことを保証してくれるわけじゃない。

とはいえ、今はそんなことは関係ない。ここにいるのはあくまでも移動のためなんだから、居場所を求める必要はない。それは、着いた先で探せばいいものだから。

 

駅に着くたびに、乗り降りがある。今はさほど混んでいる時間じゃないとは思うけれど、それでもだいたいどの駅からでも乗り込んでくるひとがいて、どの駅にも降りていくひとがいる。いつ見てもどこかにひとがいる。これってすごいことだよなぁと思いつつ、僕はそんなひとたちを見ている。

 

すると、席に座った女性が、泣き出してしまった。こんな場所は、泣くのにいい場所ではないだろう。それなのに、泣き出してしまった。いや、むしろ今この場所こそが、泣くのにはちょうどいい場所なのかもしれない。みんなは、ただ移動しているだけだ。みんな、どこかの駅で降りる。ほんの少しの間だけ空間を共有して、またすぐお互いの人生に戻る。深入りされることもない。お互いをなにも知らないんだから。そして、そんな場所で、席を確保して、駅までするべきこともない。そしたら、泣いたって別にいいのかもしれない。

彼女の周りの席のひとたちはと言えば、僕と同じように驚いてはいるようだけど、そうこうしているうちにあまり気にしないようになった。あるいは、気にしていることを表に出さなくなったのかもしれない。いずれにしても、彼女が泣いていることは、空間に許容された。少なくとも、黙認はされた。

これが赤ちゃんだったら、きっともっと大声で泣くんだろう。そしてそうなったら、もしかしたら、近くの保護者が注意されたりするかもしれない。けれど、それだって本当はしかたがないことだ。大きな音で注意をかき乱されたりするのは確かだけど、赤ちゃんには泣く以外にない。だからそうなったら、保護者があやそうとしたり、周りのひとたちもなにか動きを見せるかもしれない。

でも今回、彼女はもう充分におとなだ。そして彼女に「保護者」はいない。それになにより、彼女の泣きかたには「節度」があって、声も最初の数秒を除いては、ほとんど押し殺されている。だから、彼女は周りにたいした「迷惑」をかけているとは言えない。だから、取り立てて目立った騒ぎも動きも起きなかった。そして彼女は、涙を押し殺しつつ、許容された空間のなかで、泣き続けた。

 

いくら泣き声を抑えているとは言っても、そんなに泣いていたら、そのうち化粧が落ちてしまうんじゃないかな。彼女は今からどこかに行こうとしているんだろうか?だとしたら、それほど時間に余裕があるとは思えないなかで、駅を降りてからメイクをし直して、そしてなにより、こんなに泣いたあとの気分を立て直して、このひとは当初の予定に間に合うだろうか?

僕はせめて、彼女が今からどこかに向かうのではなく、これから家に帰る途中であることを願った。そしたら、メイクを直す必要もない。もう気を張る必要もないから、そのまま休めばいい。せめてそうであってほしいと思った。そもそも、そういう状況だから、このひとも泣くことができたんじゃないか?

でももし、彼女が今から帰ろうとしているなら、家に着いてから泣けばいいはずだ。そしたら涙をこらえる必要もない。そこでこそ、緊張の糸を緩めたらいいんだ。そして、そこにいる大切なひとに、慰めてもらえばいい。それができるなら、そのほうが、ずっといい。

それなのに、このひとは今、ここで泣いている。僕はさっきこのひとがせめて帰り道であることを心から願ったけれど、もしかしたら、このひとが帰り道であったときのほうが、ずっとひどい状況なのかもしれない。家に、安らぎがないのなら。そこで泣いても慰めてくれるひとがいないのなら。「自分が泣いている」ということさえも、誰にも伝わらないのなら。伝えたいことを伝えられないというのは、どうしようなく苦しいことなのに。

声をかけたらいいんだろうか?たった今ここで、ほんの少しの間空間と時間を共有しているだけの僕が、声をかけてもいいんだろうか?

「大多数の意見」は、既に提示されている。声をかけるべきではない。このひとが泣いていることは、僕以外にもたくさんのひとが知っている。それなのに、誰も声をかけない。それは、ここにいる全員が僕よりも薄情だからか?そうじゃない。ただ、声をかけるべきじゃないからだ。みんなの判断は、そうだ。だから、たとえここで彼女以外の全員と会議をすることができたとしても、結論は同じだ。声は、かけるべきじゃない。

だいじょうぶですか?

答えがわかりきったことを訊いても意味はない。だいじょうぶだったら、こんな場所で、こんなふうに泣いたりしない。

なにをしてほしいですか?

こんなことを訊いたとしても、相手は

放っておいてください

って言うくらいだろう。っていうかそもそも、驚いてそんな言葉すらも、出ないかもしれない。そしたら、放っておいてほしいひとに、そんな気苦労を追加しただけ、よけいに悪いことをしたことになる。だけどもし、

なにをしてほしいですか?

と訊いた僕に対して、相手が本当にしてほしいことを、僕に言ってきたとしよう。

実は今の職場でいじめられてるんです。実は借金があるんです。実は末期がんだったんです。実は家族に暴力を振るわれているんです……助けてください

こんなことを言われたら、僕にこのひとを助ける力はあるんだろうか?

ない。少なくとも、そんな問題をすぐに解決することなんて、できるはずがない。だったら、自分が助けることもできないひとに、助け舟を出そうとすることほど、残酷なことはあるだろうか?

それに、もしそうやって声をかけることができたとしても、彼女はもう次の駅で降りてしまうかもしれない。そしたら、なにをする時間もない。じゃあ、一緒に降りて話を聴いたらいいのか?無理だ。そんなことをしたって、それこそ中途半端だ。「移動中にたまたま一緒だったひと」にできることなんて、あまりにも限られている。これが吐血して倒れた場合なら、救命を要請すればいい。たぶん次の駅ですぐ降りたりして、なんとか対応できる。でももっと大きくて根が深くて長期的な問題は、人生の課題には、もっと大きくて根が深くて長期的で、人生を伴にできるひとにしか、一緒に向き合えない。彼女にとってのそれは、僕ではない。だから、声をかけるべきじゃない。僕の結論は、みんなの意見と同じところに到達した。

 

でも、ほんとは、こんなのはぜんぶ、後付けの理由なんだろう。彼女は放っておいてほしいかもしれないから?彼女は次の駅で降りるかもしれないから?自分には助ける力がないから?そんなのは、ほんとは、どうでもいいことのはずだ。ただ僕がほんとに恐れてるのは、彼女に声をかけようと、面と向かったとき、彼女を慰めようと、彼女に触れようとしたとき、そこに見えていなかった1枚の鏡があることなんだ。やっとの思いで声をかけようとした、やっとの思いで触れようとした、そのひととの間に、もし鏡があったとしたら。そのことに気づいてしまったら、僕はそこからどうやって這い上がったらいいのか、見当もつかない。だから、声をかけられないんだ。それが、本当の理由なんだ。

 

あなたは、存在自体が悪趣味なのよ

と言われた日のことを思い出す。だけど僕にとって衝撃的だったのは、その言葉と同じくらい、その言葉をかけられた場所だった。あれが、どちらかの家のなかでのことだったら。あるいはまだ、ふたりでご飯を食べに行っていたときの、テーブル越しの言葉だったら。なのになんで、あなたはあの言葉を、レンタルDVD店を一歩出たところで、僕に言ったんだろう?そしてあなたはそう言ったきり、2度と戻ってこなかった。だから、なにも言い返せなかった。あなたの勝ち逃げだった。っていうか、誰の勝ちにもならない逃げだった。哀しかった。少なくとも、あなたと同じくらいには。

 

そんなことに意識を取られてしまっているうちに、彼女はいなくなっていた。わざわざ車両を移動したとも思えないから、きっともう降りたんだろう。あっけない幕切れだった。おそらくもう2度と、会うことはないだろう。

 

そう言えば、今はどのあたりまで来ているんだろう?なにをするでもなくただ揺られているだけの間は、なおさら時間感覚が狂う。もちろん、空間の感覚も狂っている。さっき僕はどのくらいの間、過去に意識を取られていたんだろう?そもそも僕は、もう乗り過ごしてしまったんじゃないだろうか?

いや、そんな心配は要らない。降りる駅に着いたら、駅員さんがそこで待っていて、スロープを出してくれるんだから。だからこそ、僕は車両も座席も移動しちゃいけないんだ。どこででも座っていられるのに、どこで座っててもいいわけじゃない。僕の席は、今は、ここだと決められている。

 

でもそう言えば、僕はいったいいつから、ここに乗ってるんだろうか?なんだかもうずいぶん長い間乗っているような気がするけど、かといって止まっているわけでもないようだし、おなかも空いてないし、トイレに行きたいわけでもない。だから、問題はない。それに、周りを見渡すと、やっぱりたくさんのひとがいる。僕は、独りじゃない。たとえそれが、

「周りとつながっていること」

を、保証してくれないとしても。誰かを見ていられれば、それだけでも充分だ。まだ降りる駅には、着かないようだし。

コメント

  1. twinhorse より:

    よっちゃん、おかえり!

    • twinhorseさん、こんにちは。

      あたたかく迎えてくださって、ありがとうございます。

      思い返せばここを創ってからも、しばらくなにも書けなくなってしまうことが何度もありましたが、それでもここを閉鎖したことはありませんし、これからもそれだけはないと思っています。

      なのでこれからも、書けるときに、ゆるゆる書いていこうと思います。

      そして最初からずっと言っているように、僕は、行けるところまでは、行ってみようと思います。

      これからもよろしくお願いします。

      • twinhorse より:

        高校を卒業した年に流行った渡辺美里のMy Revolutionと言う歌の歌詞に、「きっとホントの悲しみなんてー、自分一人で癒すもーのさー」とあって、当時ズタボロだった僕には「ホントの悲しみを味わってる最中の人に、ソレ、無理!」って反抗心があった。

        それから、30ウン年。

        ようやくそれに素直にうなづける様になってきた。けれども、それを誰かと分かち合うことはしない。

        自分以外の人、物、出来事は、自分がどうにかなってしまうきっかけや原因ではあっても、それ自体は自分では無い。

        でも、どうにかなってしまうのはその原因達の方では無く、必ず自分の方だと言う不条理が許せなかった。

        あ、そうか。この人生は俺の物だった。

        それを分からずにずっと来た。

        結局、傷が癒えることは無いのだけれど、癒さなくていいかと感じ始めている。

        俺みたいなヤツがいて、よっちゃんみたいな人がいる。

        そういう事実。

        太陽の寿命はあと約50億年くらいだけど、実際に地球に生物が生きていられるのは、あと10億年くらいだそう。(太陽の膨張による温度上昇で)

        いつか終わると分かっているなら、できるだけ悪あがきしてやる!

        • ええ、僕も自分の傷を癒やすことをうまくできない種類の人間です。

          でもだからこそ誰かが傷を癒やすことを少しでも手伝えたらと思って、でもそれもやっぱり難しいから、それならもうせめて、傷を抱えながら生きるひとたちに、いつも心からの敬意を払っていようと、そう思って生きています。

          先のことはわかりませんし、何億年も先のことならなおさらですが、もし太陽系に生命が存在できない事態が起きたとして、そのときに人類が、

          それなら太陽系の外に出てでも、生き延びてやる!

          と思えているようなら、そのときの世界は、きっとそう悪くないものなのでしょうね。

          僕も、あがき続けようと思います。

  2. さなぎ より:

    私は、ここにいるんですって

    たま~に、気づいて欲しいときが

    あります。

    でも、意思表示をする勇気は

    ありません。

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