2018年3月2日に、あなたへ送る手紙

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光を浴びた古い手紙

もう3月だね。早い早い。あっという間に、手紙も3通めだね。やっぱり手書きじゃないぶん、たくさん書けるのはいいことだと思う。ほんとに手書きだったら、この10倍くらい時間がかかっちゃうもん。でもそのぶん、文字に気持ちを込めにくいのは残念だけど、やっぱり総合的にはいいところのほうが多いから、この感じで続けていこうと思ってるよ。

 

あのね、思ったんだけど、今の僕のしてることって、『寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。』っていう作品の主人公の「クスノキ」に似てるなぁって思ったんだ。あの作品の「ミヤギ」がそうであるように、僕が今手紙を書いている相手の「あなた」が、本当に現実に存在するのかどうかは、僕とあなたにしかわかんない。だってもしかしたら、僕がただ独りで自分の考えを、つらつら書いてるだけかもしれないもんね。でも、どんなふうに解釈されてもいいんだ。ただ、あなたにさえ伝わってくれれば。

ほんとは、あの作品も一緒に読み合いたかったんだけど、時間が足りなかったなぁ。あれもほんとに、好きなんだよね。あなたとわかち合いたいものは、まだまだたくさんあるよ。

 

「痛み」っていうのはなんなのかなぁってことを考えてるんだ。よくさ、

一緒なら、喜びは倍に、痛みは半分になる

とかって言うでしょう?僕も基本的にはそう思っていたし、今でもそう思ってる部分はあるよ。でも最近、

それってほんとは、すごく難しいことなんじゃない?

って、今までよりさらに、切実に思うようになったんだ。

前半はいいんだ。いっしょに味わえば、喜びやしあわせは倍以上になる。これは間違いない。でもさ、後半の、

一緒なら、痛みは半分になる

っていうのって、ほんとにはどういうことだと思う?

 

このときのポイントが

「共感する・理解する」

っていうところにあるのは、たぶん間違いないと思うんだよ。だから問題はそのあとだ。

相手の痛みに共感するっていうのは、どういうことなんだろう?

たとえばね、あなたが100の痛みを感じてるときに、僕が60の痛みを感じてたら、僕は

「自分もあなたと同じように、『痛み』を感じてる」

っていうことを以って、

あなたの痛みはわかるよ。共感できるよ

って、言ってもいいと思う?

違うよね。あなたが100の痛みを感じてるときに、僕が60の痛みを感じてるとして、仮にその「種類」がまったく同じだとしても、そこには40の開きがある。だから、僕はあなたの「痛み」を、ちゃんと理解できてない。だからほんとの意味では、共感できてないんだ。

それにさ、現実には僕とあなたの「痛みの種類」がまったく同じなんてことはない。だからあなたの「100」と僕の「60」は、単純に差し引きできるようなものでもない。

しかもそれだけじゃなく、僕とあなたではそもそも

「痛みに対する許容量」

が違うし、

「痛みに対する感受性」(繊細さ)

も違う。だからなおさら、単純計算できるものじゃない。ゲームキャラクターで言うところの、

「体力」

「防御力」

みたいなものを考えてもわかる。

 

だからたとえばさ、

「愛するひとと死別した哀しみ」

っていうのを共有してるはずのひとでもさ、

あなたも大切なひとを亡くされたんですね。お気持ちお察しします

なんて言うのに対して、

あなたの場合は病死じゃないですか!私の場合は自殺ですよ!

あなたの場合は相手がおばあさんなんだから、心の準備はあったでしょう?でも私は、夫を亡くしたんですよ!しかもこどももいるんですよ!軽々しくそんなことを言わないでください!

なんて言い争うことが、たくさんあるでしょう?ほんと実際、山のようにね。

だからね、こういうことをひとつひとつ考えていくと

「相手の痛みに共感する・相手の痛みを理解する」

っていうハードルって、とんでもなく高いんじゃないかと思うんだよ。

もう究極的にはさ、

「自分とまったく同じ体験をして、自分とまったく同じように打ちひしがれてるひとにしか、『共感された』と思えないんじゃないか」

ってくらいに。

だとしたら、

一緒なら、痛みは半分になる

なんてのは、かなり誤解を招く表現だということになる。ましてや、

あなたの痛みを、半分引き受けます

なんてことを、言えるはずもない。っていうかこれには、

「重要な見落とし」

があるんだと思う。それは、

痛みっていうのは絶対に、「半分に割れる」ようなものじゃない!

っていうことだ。そしてそれすらも認めたうえで、それでも「痛みを半分にする」方法があるんだとしたら、それは

「自分と同じ痛みだと思えるものを抱えているひとを見つけて、互いの痛みをよく見せ合ってそのうえで、『僕とあなたの痛みは同じものだ。だから僕とあなたは、同じ痛みを半分にわかち合っていたんだ』っていうことに気づく」

っていうことでしか、ないんじゃないかと思えてくる。

 

でも仮にこれが成立したとしたら、今度は次の問題が浮かび上がってくる。それは

もしお互いが同じ痛みを同じように抱えたら、同じように苦しくなる。じゃあそのふたりは、どうやって助かったらいいの?

っていう問題だ。誰かを助けられるのは、

「そのひとよりほんの少し、(その面における)ゆとりがあるひと」

だ。お互いが「自分の痛み」に心を占められているとき、相手を助けることはできない。でも相手にゆとりがあれば、それはそのぶんだけ「痛みが少ない」っていうことだから、より痛がってるほうは、自分が理解されてると思えない。だから、心を(完全には)開けない。

僕とあなたが同じからだを持っていたら、どっちも買いものも料理もできなくて、たとえお金を持っていても餓死する。だけどヘルパーさんや看護師さんには理解されてると思えないなら、どうすればいいんだろう?

 

そもそも僕自身を見つめてみたって、僕はあなたに僕と同じからだになってほしいとは思わないし、僕と同じ苦しみを味わってほしいとは思わない。あなたの苦しみは、少なければ少ないほどいいに決まってる。それに僕は、僕と同じ苦しみを味わうひとを、少しでも減らしたいと思っている。だからこそ、こうやって生きている。だけど、世界の苦しみが減れば減るほど、もし僕のどこかが

「孤立感・疎外感」

を感じるんだという可能性に気づいてしまったら、僕のやっているこの「矛盾」は、どうやって解消したらいいんだろう?

 

そしてね、どうせだからさらに掘り下げたうえでぶっちゃけると、僕もどこかでは

自分とまったく同じ感受性を持ったうえで、同じ体験をしたら、きっとそのひとは、僕以上に痛がるでしょう?僕だから、このくらいの傷で済んだんだ。あなたなら、死んじゃうかもしれないでしょう?だからあなたを死なせたくない僕は、世界の苦しみを、なんとか減らそうと思ってるんだよ

って気持ちを、持ってるんだと思う。そしてこの

僕だから、このくらいの傷で済んだんだ。あなたなら、死んじゃうかもしれないでしょう?

っていうのを指して、

とんでもない傲慢だ!

って言うなら、僕はその評価も受け入れる。確かに、僕にはそういう「傲慢さ」があるんだと思うから。だけどね、僕がほんとに「傲慢だ」って言うなら、僕はほんとは、

「自分とまったく同じ感受性を持ったうえで、同じ体験をしたのに、それでも僕と同じように、生き延びたひと」

を探したいのかもしれない。そしてそんなひとがほんとにいるなら、僕はそんなひとを見つけるために、世界の苦しみには、このままであってほしいと思うのかもしれない。

 

でもさ、やっぱりこれも違うんだよ。だってさ

「自分とまったく同じ感受性を持ったうえで、同じ体験をしたのに、それでも僕と同じように、生き延びたひと」

がいるとしたら、それってもう、ほとんど僕自身じゃないか!じゃあ僕は、そんな僕と僕自身みたいなひととで愛し合えばいいっていうの?なんかそれも、違うんだよ。しかもさ、もしそのひとが

「自分とまったく同じ感受性を持ったうえで、同じ体験をしたのに、それでも僕よりもちょっと軽い傷で済ませて、生き延びてきたひと」

でさ、

うん、なんかお前が言うほど、大変でもなかったぞ?まぁでもだからこそ俺にはお前よりゆとりがあるからさ、助けてやるよ!こんなのほんとは、楽勝なんだぜ?

とか言われたら、それはそれでショックが大きすぎるもん。

だからね、

「『自分より条件がいいひと』に言われても、理解されてるとは思えない。でも『自分と同じ条件なはずなのに自分よりうまくやったひと』を見ると、それはそれで落ち込む。じゃあ『自分と同じ条件で同じ結果を出したひと』ならいいかというと、それならそれで、問題は一向に解決されない」

ってことになる。それでも最後のひととは、

「痛みに共感(理解)し合う」

ことはできると思うよ。でもほんとのほんとは、それが僕たちの「最終的な願い」じゃないはずだ。僕たちは、本当には、

自分の痛みに共感してもらったうえで、それを一緒に、なくしてほしい!せめて少しでも、和らげてほしい!

って、思ってるはずなんだもん。

でもだからこそ、その「最終的な願い」のほうを重視したひとは、痛みを抱えているひとに対して、

だいじょうぶ!必ず元気になれるよ!

なんて言う。でもそれが

こっちの気も知らないで、なんでそんなことを軽々しく言うの?今まで元気になれなかったのは、自分の努力が足りなかったからだってことなの?

なんていう反応を引き起こすことにもなるから難しい。僕はこの、両方の立場を体験している。だからほんとに、ひと筋縄ではいかないと思う。

 

じゃあこういうことをぜんぶ踏まえたうえで、今の僕に言えることはなんだろう?どうしたら、僕はあなたと理解し合えるんだろう?

ここまで見てきたすべてから、この解決が簡単じゃないことははっきりしている。でもだからこそ、もうあとは

「普通じゃない道」

を模索するしかないのかもしれないと、今の僕は思っている。つまりそれは、

感受性がどうとか、今までの体験はどうとか、そんな細かい「計算」はぜんぶぶん投げて、ともかくよくわかんないけど、僕はあなたに理解されてる!

と思えるかどうかだってことだ。でももちろん、この逆はダメだ。

細かいことは気にするな!ともかく俺が理解してると言ったら、理解してるんだ!

ってやつね。仮にこれが「事実」だとしても、相手に届くことはないから。

だからここで大切なことは、

「自分が相手を理解できてると思えてるかはどうでもよくて、ほんとの問題は、『自分が相手から理解されてると思えるかどうか』に尽きる」

っていうことだ。

これは簡単な例を挙げればわかる。お互いに

「自分はこのひとのことを理解できてる」

と思ってるふたりがしあわせだとは限らないけど、もしお互いが

「このひとは自分を理解できてる」

と思ってるなら、そのひとたちは確実にしあわせだ。それにたとえそれが、「思い込み」であったって、いいんだ。そのくらい、

「理解されている」

ということを確信できるということは、すさまじい力を持ってるんだから。

 

じゃあここまで話を絞りに絞って、すべての問題を、たったひとつに「凝縮」してみた。それは

どうしたら、僕はあなたに理解されてると思えるんだろう?

っていう問題だ。でもこれは、もう少し「変形」してもいいはずだ。

もしあなたが本当に僕のことを理解してくれたとしたら、そのとき僕はあなたに、なんて言われたい・なにをしてほしいんだろう?

っていうふうに。

 

痛みに共感してほしい!痛みを理解してほしい!

っていう想いは、誰であっても強烈なものだと思う。でもそれは、「最終的なゴール」じゃないんだ。だったら、その「最終的なゴール」さえ到達できるんだったら、ほんとにはその「過程」に過ぎないものは、「理解」とか「共感」なんていうものそのものは、究極的には、どうだっていいんだ。だから、僕は最初の問題を変形した。そして

もしあなたが本当に僕のことを理解してくれたとしたら、そのとき僕はあなたに、なんて言われたい・なにをしてほしいんだろう?

って、自問してみる。そしたらね、少なくとも僕の場合は、答えはすごく、シンプルだったんだ。僕がどうして、理解されたい・共感されたいって思うのかは、結局は、

私はあなたのすべてを見てきたけれど、それでもあなたのことが好きだよ。それに私は、あなたがどう変わっても、変わらなくても、ずっと一緒にいるよ。だから、なにも心配しなくていいよ。私があなたを嫌いになることは、絶対にない

って、言われたいからなんだ。だから、そのことを「確信」させてくれさえすれば、それ以外のことはほんとには、どうでもいいんだ。

 

でもだからこそ、これを確信するのがどれだけ難しいかは、よくわかってる。だけどね、僕がなかなかできないように、あなたがそうできないのもしかたがないと思うよ。でもそれでも、僕はあなたに対しては、こう言えるよ。

僕はあなたのすべてを見てきたけれど、それでもあなたのことが好きだよ。それに僕は、あなたがどう変わっても、変わらなくても、ずっと一緒にいるよ。だから、なにも心配しなくていいよ。僕があなたを嫌いになることは、絶対にない

 

だから僕は、このことをもっと、あなたに伝えたいと思うよ。もっともっと、上手に伝えられるようになりたいと思うよ。だから今もこうして、手紙を書いてるんだよ。だけどまだ、あなたには

「反論したい気持ち」

があると思う。それにあなたは別に、ほんとには

「理解されてると思い込みたい」

わけじゃないこともわかってるよ。それは僕だって、同じ気持ちだよ。

だから僕はこれからも、あなたのことを理解したいと思ってる。それに、理解されたいとも思ってる。その理解は前よりは進んでいると思うけど、いつまで経っても「完璧」じゃないことは知ってるよ。だからこそ、

僕はあなたのすべてを理解してるよ

なんて、言ったことはないはずだ。ただ、僕はあなたのすべてを理解したいと、今でも思ってるんだよ。だからそうできるまでは、諦めないよ。できるまで諦めないから、いつかはできるんだよ。これは、ほんとには、こっちのセリフなんだ。

 

さて今日はね、『天然記念物シリーズ 第3集』からクモイリンドウの切手をどうぞ。またしても季節外れなことには、目をつぶっておいてよね。

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