「自分の性」を受け入れてもらうのは、誰にとっても切実に大切なことだ

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バラをくわえている犬

前に、こんな文章を書いた。

きっかけは、この文章を読んだことだった。 そして僕はここで初めてこの『hなhとA子の呪い』という作品を知ったんだけど、これは確かに、僕...

あれから2年くらい経とうとしている今、この社会ではたとえば「#Me too」の話題なんかもいろいろ提起されたりして、性を語るのには前よりさらに、繊細で複雑なハードルがあるような気もする。でもだからこそ、僕もちょっと、最近思ったことを、改めて書いてみたいと思うんだ。そしていつものように、出発点は、僕自身の体験と感覚に置いてみる。

そこにあったのは、徹底的なまでの「性欲の暴走阻止」の方針だった

こういうことを考えるとき、僕にとっての大きな「軸」のひとつになっているのは、やっぱりこの体験だ。

つい先日、大阪市立茨田北中学校長の朝礼での発言が、賛否両論を呼び起こした。 発言が切り取られているのが問題だ。全文を読めばそんな問題発言じ...

この発言を聴いたのは、僕が高校生の頃だから、今からもう何年も前のことだ。でも当時、僕のいたその養護学校は全寮制で、男子寮と女子寮に分かれていた。これだけなら、特に変わったところはないと思う。でもそこでは、基本的に、こんなルールが定められていた。

男女は、やみくもに近づいてはいけません!(食堂で話し合いをするときは、隣で座らずに必ず向かい合わせ以上の距離を置くこと!もちろん、食堂へは適宜見回りが来る

男女が親密な関係に発展した場合は、必ず各部屋の室担の指導員に報告すること!

すべての外出は「外出簿」によって管理されていますが、特に男女が同じ時間帯に学校から外出するときは、適宜指導員が様子を見に行きます!(場合によっては、地域の住民のひとたちにも見守ってもらいます)

これは、なかなか「変わってる」よね?だけどこれは、実際にすべて行われていたことだ。そしてたぶん、こんなルールを公開したくらいで、僕の母校が特定されることもないだろう。だって、これと似たような「規則」は、全国の養護学校にあっただろうし、今でも少なからず残っているだろうから。

ここに見えているのは、徹底的なまでの「性欲の暴走阻止」の方針だと言っていいと思う。そして僕も、「性欲の暴走」は避けるべきだという考えに、異論はない。でもここにあるのは、もはやそれ以上のもの、言うなれば「性欲の封殺」なんじゃないかと、僕には見えてしまうんだ。

障碍者はこうして、自分の「性的要素」を、ことあるごとに「漂白」される

こういうのはほんの一例だけど、障碍者はその「特別支援教育」のなかで、多くの場合そういう価値観・指導を染み込まされていく。そしてそれは、ある意味では

「性的要素の漂白」

って言ってもいいんじゃないかと思う。そこで育って、そういう価値観が「当たり前」だと思うようになればなるほど、そのひとからは性的な「色」が、脱け落ちていく。

こうなれば、確かに

「性欲の暴走」

は、防げているように見えるかもしれない。だけどこれは、ほんとはすごく、哀しいことだ。

「男の裸なんて見飽きてるから、だいじょうぶだいじょうぶ!」

たとえば僕は今でも、お風呂とトイレだけはなんとしてもヘルパーさんみたいな「第三者」の助けをもらわずにやりたいと思っている。それでもし、誰かに洗ってもらうよりはきれいに洗えないとしても、まだなんとか自分でできるうちは、ギリギリまで自分でやりきりたいと思っている。

だけどそういう僕の態度に対して、

男の裸なんて見飽きてるから、だいじょうぶだいじょうぶ!

なんて言ってくるひとが実際にいる。

ここで表現されているのは、

私はあなたの裸を見たって興奮したりしないし、そもそもあなたを性的な目線で見たりはしてないから、そんなに気にしないで!

っていうことなんだと思う。少なくとも、僕にはそう受け取れる。

でもここには、完全に抜け落ちてる観点がある。それは、

たとえあなた(見るひと)が気にしなくても、僕(見られるひと)は気にするんですよ!

っていうことだ。

でも本来、こんなことは当たり前のはずなんだ。だってもしこの理屈が通るんだったら、僕も同じ主張をすれば、女子トイレにも女性のお風呂にも入れることになるでしょう?でもそんなのがおかしいことは言うまでもない。だけどこれが「障碍者」の問題になった瞬間、この視点はするりと消える。これが、「性的要素が漂白されている」ということの意味だ。

僕は別に、あなたの意に反してあなたになにかをしたいと思ってるわけじゃない。でもだからと言って、僕も「男性」だということは、受け入れていてほしい

でもここで、さっき自分で言ったことを今度は逆から見てみる。それは、

もし僕から性的要素が完全に脱け落ち(たものとして社会から扱われるようになったとし)て、その結果として僕が「性別」の枠を超えて、男子トイレだろうが女子トイレだろうが、男湯だろうが女湯だろうが、どっちでも適当に入れるようになったら?

ってことを、考えてみるってことだ。そしてもしそうなったら、僕はとても哀しいと思うんだ。

まず前提として、僕はたとえ社会からどんなふうに見なされようが、女子トイレに入ろうが女湯に入ろうが、あなたの意に反してなにかをしようとか、そういうつもりはまったくない。それは「当たり前」のことだ。だからその意味で、僕は「性的に危険な存在」じゃない。
だけど一方で、僕は「性的な存在」だ。僕はひとであると同時に「男性」なんだ。

だからもしそこがそもそも「混浴のお風呂」なら、僕をわざわざ特別扱いすることはない。でもそこが「男湯」と「女湯」に分かれているなら、僕だけは「どっちに入ってもいい」なんてことにしちゃダメだ。

みんなが「性」を意識する場面では、僕の「性」も意識してほしい。僕に接するときは、まずあなたが男性に接するように、接してくれたらいい。僕は「特別な存在」じゃない。これはほんとはすごく、単純な話なんだ。

たとえ相手がいなさそうに見えようが、本人もこどもを望んでなかろうが、それでも「勝手に断種していい」ってわけじゃない

こないだ、こんな裁判のニュースがあった。

旧優生保護法(1948~96年)に基づき、知的障害を理由に不妊手術を強いられたのは憲法違反だとして、宮城県内の60代の女性が、国に損害賠償を求めて2018年1月に仙台地裁に提訴することが3日、分かった。旧法に基づく不妊手術は同意がある約8500件を含め、全国で約2万5千件確認されているが、国への提訴は初めて。

関係者によると、女性は重い知的障害があり、10代で不妊手術を受けた。事前に医師側から手術の説明はなかったという。女性は手術後、腹部に痛みを訴えて入院。悪性ののう腫が見つかり、右卵巣を摘出した。

不妊手術が原因で結婚も破談になり、女性側は「旧法は幸福追求権などを保障する憲法に違反する」と主張する見通し。

女性の代理人を務める新里宏二弁護士は「声を上げたくても、上げられない被害者は多い。訴訟を通じ、全国に問題提起したい」と述べた。

(中略)

2016年には国連の女性差別撤廃委員会が、被害者が法的救済を受けられるよう日本政府に勧告。日弁連も17年2月、国に実態調査や謝罪を求める意見書を出したが、国は「当時は適法だった」と応じていない。

 旧優生保護法(1948~96年)に基づき、知的障害を理由に不妊手術を強いられたのは憲法違反だとして、宮城県内の60代の女性が、国に損害賠償を求めて2018年1月に仙台地裁に提訴することが3日、分かっ

これも、障碍者が

「性的要素を封殺されている」

ということの、顕著な一例だと思う。

そして大切なのは、たとえ、本人がもともとこどもを産みたいと思ってないひとであったとしても、「勝手に断種していい」ということにはならないってことだ。
実際僕は、自分のこどもがほしいとは、まったく思っていない。だけどだからといって、勝手に断種されたら嫌だ。それは、将来的に僕もこどもがほしくなるかもしれない」っていう可能性を気にしてるとかじゃなくて、もっと根本的に、「僕の一部を勝手に、抹消されたくないから」だ。

そしてこれは、

障碍者がこどもなんて産んだって、しあわせなわけないだろ!

そもそも障碍者と結婚したいひとが、どこにいるんだよ?

っていうような話以前の問題なんだ。

どんな「価値観」によっても、「指導」によっても、僕が「性的な存在だ」という事実は、歪められたくないし、無視されたくもないから。

「自分の性を受け入れてもらいたい」っていうのは、ほんとは誰にとっても、切実に大切なことだと思う

そしてこれは、ほんとには、「障碍者」だけに関する問題じゃないと思う。それにもっと言えば、「異性愛者」だけの問題でもない。僕が

僕が「男性」だということを、受け入れてほしい

っていうのは、僕の性的感覚(性自認)が、男性だからだってだけだ。

だからもしあなたがいわゆる「LGBT」だとしたら、たとえあなたの「からだ(見た目)の性別」がどうであれ、「あなたの心(ほんと)の性」を、受け入れられたいと思うのも理解できる。だってそこにある「想いの核心」は、同じだからだ。

それに僕はあくまでも僕自身の感覚に基づいて、

僕だって「性的な存在」だっていうこと、無視しないでね!

って言ってるだけで、もしあなたが「Aセクシャル」(無性愛者)なら、

私はあなたが思っているような「性的な存在」なんかじゃないから!

って言うことを否定してるんじゃない。むしろ、どんどん言ったらいいと思う。

僕の言う

「自分の性(的感覚)を受け入れてほしい」

っていうのは、そういう意味でも、誰とも対立していない、そしてごくほんとはごく自然なことだと思うんだ。

性欲っていうもののなかには、もっと「キラキラしたもの」が、たくさんあるはずだ

ただここまでを踏まえて、最後にもう少し付け加えておきたいことがある。それは、こういう話をするとすぐ

弱い立場のくせに「セックスの権利」だけは主張するのか!

そんなに性的なことばっかり考えてるなら、ずっとそうしてればいいんだ!

みたいな受け取られかたをされる可能性があるってことだ。

でも僕は、「性欲」っていう言葉を安易に「セックス」とか「オナニー」みたいな、そういう「極端なもの」にだけ結びつけること自体が、そもそも間違ってると思うんだ。

確かに、性欲のなかには、セックスも含まれる。オナニーだってそうだ。でもなんていうか、そういうひとつの「極点」だけに注目して、性欲を過剰に「ギラギラとした感情」としてだけ見るのは、偏ってると思う。

性欲っていうものをどっかそういうふうに、得体の知れない、ほうっておくとすぐ暴走する、低俗で野蛮なものだとしてだけ見るのは、おかしいはずだ。だって僕たちは、「性欲」から生まれたんだから。性欲っていうのは、愛のかたちであるはずだ。そしてそれは、実際にいのちを生み出すくらい、素晴らしいものだ。だったらそれは、ほんとには、愛おしいものなはずなんだ。

そしてそれは、特に今の文脈で言えば、

性欲=自分の性を受け入れてほしい・そしてあなたの性を受け入れたいという欲求

だと言えると思う。そしてそう考えるとやっぱり、それはとてもとても、素晴らしいものだと思う。

確かに、生身のからだには、それ相応の「生々しさ」がある。だからそれは、ひと筋縄では行かないし、きれいごとだけで済むわけでもないだろう。でもだからこそ、そこには間違いなく、「キラキラしたもの」があるはずだ。だから僕も「性的な存在」として、これからもそれを、見つけ出していけたらいいなぁと、そう思ってるんだ。

ひとつの資料として、こんなものも載せておきます。

性はグラデーション

っていう言葉(捉えかた)は、僕もすごく好きです。

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