あなたが死ぬときどうおくりたいかということと、自分が死ぬときどうおくられたいかということ

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僕たちは、いつか自分が死ぬということを知ってる。でも普段はどうしたって「生きること」に集中しなきゃいけない時間が多いから、死ぬことを考えることは少ない。だけど、「誰かの死」に直面したときは、やっぱり誰でも少なからず、死について考えることになる。

彼女は、家族にすら自分の状態を伝えないまま、静かに死んでいった

こないだ、あるひとの死が伝えられた。それは、アナウンサーの有賀さつきさんだった。僕は、このひとのことをなにも知らなかった。だけど、日本の多くのひとたちと同じように、その死には、特にいろんなことを、考えさせられた。このことに関する報道や言及はたくさんあるけど、たとえばこんなふうにも伝えられている。

元フジテレビアナウンサーの有賀さつきさんが1月30日、52才で亡くなった。有賀さんの父の洋さんが、最期の様子を語る。

「1月中旬、私が付き添って都内のA病院の6階に入院しました。それまで娘は体調不良を私に相談したこともなく、その病院にかかったこともありません。食が細くなって痩せてはいましたが、元気に仕事をしていたので、突然の入院に驚きました。私に入院の身元引受人になってほしいという娘からの急な連絡でした。

1週間ほどして見舞いに行ったとき、点滴はしていましたが、見たところ元気になっていてすぐ退院だろうと安心しました。その数日後、30日の朝8時過ぎ、病院から娘が息を引き取ったと連絡がありました。急死でした。突然のことで、何が起きたのかわからないというのが本当のところです」

(中略)

この1、2年はテレビでも見る姿はかなり痩せていて、髪にはウイッグを使っていた。周囲が体調を心配すると、ダイエットに成功したの、カツラはラクなのよと、朗らかな笑顔で話していた。「親の介護で仕事を休む」というのも、周囲を心配させたくないという、有賀さんらしい優しい嘘だったのだろう。

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この有賀さんの死が多くのひとにいろんな感情を喚び起こすのは、平均寿命から見たこのひとの死の早さだけじゃない。なにより特徴的なのは、有賀さんが自分の死を、親しいひとや家族にさえ、直前まで隠し通していたっていう点にある。

「亡くなった後に看護師に聞いたところ、入院した時にはかなり衰弱していて、苦しい時には痛み止めを使っていたようです。それでも、最期まで前向きでした。病室では漢字検定の1級をとりたいと勉強もしていました。意識がなくなる直前には、孫のことを気遣っていたそうです。

病気を患っていたことも、病名も、本人の強い意志で家族にも知らせたくないということでした。私自身も聞いていません。もちろん周りのかたにもお伝えしていません。

娘は、“他人に迷惑をかけたくない”、その一心だったのでしょう。自分の意志ですべてをやってきた強さ。独立独行してきた人生だったと思います。私にはつらいとも、苦しいとも、一言も言いません。孫と暮らしていても、つらい様子はほとんど見せなかったようです。娘は強い信念を持って生きた。しかし、(その信念が)あるいは、災いしたのかもしれません」

1月31日に通夜、2月1日に告別式が親族だけの密葬で行われた。列席したのは、洋さんと娘の2人だけだった。

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ここから伺えるように、有賀さん本人は、自分の死期がそう遠くないことはわかっていたと思う。それは別の報道で、

周囲に病気を告げなかった有賀さんだが、病状の重さは悟っていた。仕事は昨年末までにすべて整理し、年明けのオファーなどは、家族の介護などを理由に断っていたという。関係者によると、銀行口座をはじめ、本人でないと解約できない各種口座などを整理していたといい、残された人間に迷惑がかからないようにしていた。ただ、残される長女のことは最後まで気にかけていたという。

 元フジテレビのフリーアナウンサー有賀さつきさんが、先月30日に、都内の病院で死去していたことが5日、分かった。52歳だった。本人の遺志で死因は明らかにされず… - 日刊スポーツ新聞社のニュースサイト、ニッカンスポーツ・コム(nikkansports.com)

なんてあることからも、明らかだ。だけど彼女はそのことを誰にも、伝えなかった。しかも自分が死んだ後にすら、病名ひとつ家族に伝えないっていうんだから、それは徹底的に一貫した態度だった。そうして有賀さんは、静かに死んでいった。

有賀さんの訃報に、僕はすぐ金子哲雄さんのことを思い浮かべた

有賀さんの訃報を聴いたとき、僕が真っ先に思い浮かべたのが、金子哲雄さんのことだった。

金子哲雄(かねこてつお)さんと言えば、2008年「国際値切リスト」という肩書で現れ、数々のテレビ番組に出演。愛嬌のある喋りと独自の視点で解説する家電量販店やスーパーの激安情報が人気に。多い時にはレギュラー番組を8本も抱えていました。

 

しかし2012年10月2日、41歳で亡くなりました。晩年、その病から13キロ激やせ。最後まで病気を隠しテレビに出演し続けました。

TBSテレビの「爆報!THEフライデー(ばくほうザフライデー)」あのスターの残された家族は今…で金子哲雄さんの…

そして金子さんの場合、ここにも

金子哲雄さんは妻のために終活を始めました。金子哲雄さんは法律で認められる正式な遺言書、公正証書遺言書を作成。そこに書かれていたのはお金のこと。お金のトラブルにならないよう遺産の使い方をこと細かに決めていたのです。

また、金子哲雄さんは葬儀会社を呼び寄せ、遺影や棺、食事プランなど全て自分で決め葬儀をセルフプロデュース。流通ジャーナリストとして自分の葬式でさえ無駄な出費を抑えることを徹底しました。

そして最もこだわったのがお墓の場所。子供のいない2人は東京タワーの真下にある集合墓を選択。稚子さんの分と共に購入しました。これにより、通常300万円以上かかるところが10分の1程度に。

さらに、残された妻がどれを捨てるのか迷わないように生前に遺品整理を指示。金子哲雄さんが遺品として残したのは、2台のハードディスクだけでした。

こうして出来る限りの終活が終わった金子哲雄さんは、不思議なことに元気が戻ってきました。そして、メディアの仕事を精力的に続けました。13キロも痩せたものの、ダイエットと言い張り全てを笑いに変えました。

って書かれているように、自分の最大限の力を活かして、「終活」を行ったっていうのも大きな話題になった。

「自分の死期を悟って、事前にできるだけの準備をして、多くのひとには語らず、静かに去る」っていう点では、有賀さんと金子さんは、確かに共通点があると思う。だけどそれでも、金子さんと有賀さんの死には、明確な違いがある。それは金子さんと違って、有賀さんは親友や家族にすら、自分の状態を知らせてなかったってことだ。

もし僕が有賀さんの家族なら、親友なら、どう思うだろう?

金子さんは確かに、ほとんどのひとには自分の状態を隠していた。でも

病気のことを伝えたのは家族や親しい友人のみ。

っていうのは逆に言えば、

「家族や親しい友人にだけは、自分の状況を伝えていた」

ってことだ。だけど有賀さんは、それもなかった。

だからその点で、さっきも言ったとおり、僕は有賀さんのやりかたは、

「首尾一貫して徹底的だった」

って言ってもいいと思う。そしてそれが「強い信念」に基づくものであるなら、誰にもそれを軽んじることはできないとも思う。

でも一方で、僕はやっぱりこうも思ってしまうんだ。

もし僕が有賀さんの家族なら、親友なら、どう思うだろう?

そして僕は、僕が彼女の家族なら、親友なら、有賀さんのことを心から大切に想っていて、それを本人もほんとはわかってくれてる間柄なはずなら、やっぱり少しくらいは、ひと言でもいいから、なにか教えてくれたらよかったのにって、思ってしまうんだ。そしたら、もっといろいろ話せたと思う。一緒に病室で果物でも食べられたかもしれない。あるいは、入院になる前の段階で、旅行にでも行けたかもしれない。そこまでじゃなくても、部屋で一緒に過ごせたかもしれない……やっぱりそんなことを、考えてしまうんだ。

ただ、僕は有賀さんのお父さんの洋さんも言うように、それが彼女の「信念」によるなら、それはそれとして尊重したいとも思う。そしてこれは僕の憶測だけど、有賀さんは報道の現場にいた経験も豊富だからこそ、

できるだけ「話題のタネ」になる部分を減らして、できるだけ静かに逝きたい

と思ったんじゃないかという気もするんだ。

それにもし、病名を明かしていたら、今度はその病気の罹患率がどうとか、患者数がどうとか、予防・早期発見策はあるのかとかで、話題が引き伸ばされるかもしれない。もし家族にだけ病名を明かしてたりしたら、それをなんとかして聴き出そうとするひとたちが、つきまとってくるかもしれない。彼女はそういう「喧騒」や「迷惑」から大切なひとを護るために、ここまで徹底的にやったのかもしれないとも、僕は思うんだ。

でもそれでも、僕が有賀さんの親しいひとなら、やっぱりもう少し、教えてほしかったと思う。それが「迷惑」だと思うなら、それでもいいから、その「迷惑」をもう少しくらいはかけてほしかった。頼ってほしかったなぁって、思ってしまうんだ。

じゃあ僕が「逆の立場」なら、死ぬほうの番が来たら、僕ならどうする?どうされたい?

でも、こういうことを考えるってことは、当然鏡映しのように、

「自分の死にかた」

を、考えることにもなる。

じゃあ僕が「逆の立場」なら、死ぬほうの番が来たら、僕ならどうする?どうされたい?

っていう問いは、僕もちゃんと向き合うべきものだし、向き合いたいと思ってるんだ。

僕はもともと、

「自分が普通に生きられる」

っていう感覚を、持ったことはない。それはもちろん、今もだ。これは僕の人生の「質」について以上に、「長さ」について顕著な感覚だ。

僕は前に、

二次障碍っていう概念がある。これは主に医学的な意味合いで遣われることが多い言葉なんだけど、僕の今の理解でざっくり言うと、 ある障碍をずっと...

っていうのも書いたことがあるけど、僕のこういう

「ある程度の根拠もある直感」

っていうのは、ずっとあるものだ。そしてこういうふうに死について考える機会が多いからこそ、

もし自分が重い病気に罹ったらどうする?

っていうようなことも、よく考えているんだ。

その結果ひとつの結論として、

もし僕の「余命」がはっきりしたら、それはできるだけ早く周りに伝えて、あとはそのときの気持ちを大切に、できるだけのことをして死のう

と思ってる。

だけど、正直に言うと少なくとも僕にとっては、こういうふうに

「ある程度の心の準備ができる病死」

は、まだかなりいいほうなんじゃないかと思ってるんだ。僕にとっていちばん注意しなきゃいけない、でも自分だけではどうしても避けようのないもの、それが

「事故死・災害死」

だ。あともしかしたら、僕が

「誰かに殺される」

っていうことも、まったくないとは言えないと思ってる。だって実際に、そういうことはあるんだからね。

今日、7月26日、とても哀しい事件が起きてしまった。正直これと向き合うのは簡単じゃないし、あまりにも複雑な感情を刺激されてしまうんだけど、こ...

だからこういうことも含めたあらゆる可能性を踏まえて、僕は日頃から「遺書」を書いている。ただ「遺書」と言っても自殺する気があるから書くものじゃない。僕は絶対に自殺はしない。それに僕には財産もなにもないから、もちろん「財産分与のための遺言書」でもない。ただいちばん純粋な意味で、

「自分が不意に死んじゃったときに、大切なひとに伝えたい言葉を書いたもの(手紙)」

だ。

そして僕は、これをからだとか心が弱ったときに、実際に書いている。これはまだ工夫の余地がいっぱいあるんだけど、今のところは

「今もし自分が死んじゃったら言いたいこと」

を書いていて、これはもっと正確に言うと、

「僕が今から、次の遺書を書くまでの間に死んじゃったら言いたいこと」

なんだ。だから僕は、思い立ったら随時遺書を「改訂」している。だって、時期も違えば僕の置かれてる状況も変わるんだから、当然言いたいことも少なからず変わるでしょう?だから、遺書を改訂することにしてるんだ。

これが、今の僕にできる、

「自分の死への向き合いかた」

なんだ。

「その命は、誰のものなのか?」

さっき話した金子哲雄さんの死を受けて、妻の稚子さんが取った行動と、そこにある想いについて、ご本人が語っている文章がある。

夫の金子哲雄が亡くなってから、もう8カ月――。味わったことのないような、痛いほどの悲しみが永遠に続くのかと感じた昨年10月のことを思い返すと、この間に私が辿った心の変遷に我ながら驚いています。

葬儀はもちろんのこと、『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』(金子哲雄著、小学館)の発行まで、金子が考え、準備していたことを何とか実行に移す日々を送りながら、これは紛れもなく、夫が私のために用意していてくれたことなのだと、深く感じるようになりました。

その本の制作があったから、葬儀が終わった後も金子を思い、悲しみに暮れているだけの時間が少なくて済みました。しかし、葬儀の間際から内容の確認や校正作業のために、何度も原稿を読む必要があり、そのたびに追体験することにもなりました。何度も号泣し、時には立ち上がることもできないほどになりましたが、そのたびに、「わかちゃん、泣いてはだめだよ」という声が聞こえ、背中をどんどん押されているような気持ちになったものです。

そうするうちに、四十九日の頃にはもう、一周忌を迎えるかのような心持ちになっていました。本ができ上がった時、普通の人が1年をかけるところを、約1カ月で済ませてしまったのだと感じたほどです。この強烈で濃密な癒しのプロセスは、いかにも金子らしいやり方であり、夫が亡くなる直前にしてくれた「死んでも僕が守る」という約束通りだと、改めてその優しさを感じて、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

上梓する直前、PHP研究所の新書出版部から、本を書かないかというお誘いを受けました。しかし、金子の最期についてはすでにまとめた直後でしたから、改めて金子への思いを書くことには抵抗がありました。それに、金子の死に方については、私が何かを言うべきではないと思っていたからです。

金子の闘病と死を通して、私たちは多くのことを語り合い、多くの考えを共有することになりました。その1つが、その人の命は、その人のものである、という思いです。

大切な人が死ぬと知った時、多くの人が冷静ではいられなくなります。自分の気持ちが前に出てしまい、「死んでほしくない」「生きていてほしい」と、死にゆく人の思いの存在を忘れてしまってそう願うでしょう。言うまでもなく、当然のことです。でも、そのギリギリのところに来た時、突きつけられている問いがあるのです。

その命は、誰のものなのか――。

私たちは、この厳しい問いを正面から受け止め、行動しました。それが『僕の死に方』を書いたことであり、その後のさまざまな準備なのです。

《PHP新書『死後のプロデュース』より》 その命は、誰のものなのか?  夫の金子哲雄が亡くなってから、もう8カ月――。味わったことのないような、痛いほどの悲しみが永遠に...

ここに書かれている

その命は、誰のものなのか――。

っていうのは、確かに「死」に直面したときに特に際立つ問いだとも思う。だけどこれは本質的には、どんなひとのどんな人生の、どんな局面にも問われていることなんだと思う。この問いっていうのはつまり

あなたはどう生きて、どう死ぬの?

っていうものだからだ。

僕も僕なりに、この問いに答え続けている。っていうか生きることそのものが、誰にとっても、この問いに答え続けることなんだ。だから僕もまだ、生きている。最期の最期まで、あなたと、生き抜こうと思ってる。

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