「この世から病気が消滅するのが理想」だとは、僕にはどうしても思えない

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それぞれの色の手を合わせ

「理想郷」とか「理想の世界」それに「天国」なんて言葉から、あなたはどんな世界を思い浮かべる?

でもこういう話は昔からずっとあって、細かいところはいろいろと違いがあるかもしれないけど、大筋ではけっこう「共通要素」が出ているものだとも思うんだ。

「すべての戦争」はなくなってほしい。「すべての飢餓」もなくなってほしい。でも「すべての病気」について訊かれたら、同じようには答えられない

たとえばあなたが

私の理想は「戦争のない世界」です!

と言うなら、僕も完全に賛成する。あるいはあなたが

僕の理想は「飢餓のない世界」です!

と言うなら、それにも僕は完全に賛成する。そしてこういう

戦争(殺し合い、いじめ……)も飢餓もない世界が、理想だよね

っていう見解は、それを実現できるとどの程度信じているかに幅はあるにせよ、多くのひとたちにとって、共感・合意しやすい「理想」なんじゃないかと思う。

そのうえでこの「戦争」や「飢餓」と並び立つように、よく語られる

「理想的な世界の要素」

が、病気だと思う。

だけど僕は、すべての戦争にもなくなってほしいし、すべての飢餓にもなくなってほしいけど、もし

すべての病気もなくなった世界が理想だよね?

って訊かれたら、さっきまでと同じようには、どうしても賛成できないんだ。

そもそも「病気」っていうのは、かなり「社会的な概念」だ

まずそもそも、「病気」っていう概念は、かなり「社会的な概念」だ。それは厳密にはすべての言葉に言えることだとしても、「病気」の線引きは「戦争」とか「飢餓」に比べても、かなり曖昧で微妙なものだ。

実際に今ネットで調べてみると、たとえばこんなふうに、「病気」が説明されている。

生物の正常な状態がそこなわれ,生命維持機能が阻害あるいは変化すること。病気のとらえ方は歴史や文化,社会によって異なるが,ここでは西洋医学に基づいて述べる。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 病気の用語解説 - 生物の正常な状態がそこなわれ,生命維持機能が阻害あるいは変化すること。病気のとらえ方は歴史や文化,社会によって異なるが,ここでは西洋医学に基づいて述べる。病気の原因はさまざまである。その1つに,外部から生物の体内へ微生物や物質...

これを読むだけでもはっきり

病気のとらえ方は歴史や文化,社会によって異なる

っていうのがわかるけど、それはまず最初に書かれている

生物の正常な状態

っていうところに、既に凝縮されている。これはもっと単純に

「健康」

とかに置き換えてもいいと思うけど、この「健康」っていう概念自体が、社会的なものだっていうのは、間違いないと思う。

だから僕が

すべての病気もなくなった世界が理想だよね?

って訊かれたら、まず僕は大前提として、こう確認するところから始めたい。

あなたにとって「病気がなくなる」っていうのは、どういう意味ですか?

「脳性麻痺の苦しみ」っていうのは、「エボラ出血熱」とか「天然痘」とかの苦しみとは、だいぶ違う部分がある

ただまずはっきり言っておきたいのは、僕は別に、

「すべての病気を、今のままで残しておくのがいちばんいい」

と思ってるわけじゃない。

たとえば、「エボラ出血熱」とか「赤痢」とかについては僕も完全に撲滅できるならそのほうがいいと思ってる。それももちろん、できるだけ早くだ。

だけどこういうのと、僕にとっていちばん身近な、「脳性麻痺」っていうのはだいぶ違う部分があるんだ。そしてそれが、僕の意見の根底に関わっている。

これは結局、

この「苦しみ」に、どこまで「社会の在りかた」が影響しているの?

っていう観点から見て、大きく見れば同じ「病気」に括られる「エボラ出血熱」(赤痢)と「脳性麻痺」には、相当な違いがあるってことなんだ。

「医学モデル」だけで見て「病気」を消滅させることは、社会の成長を遅らせることにもなる

さっき引用した「病気」の説明にも書かれていたように、病気の定義は本来いろいろあるとはいえ、やっぱり今の社会でいちばん強力なのは

「西洋医学的捉えかた」

だと思う。そしてざっくり言うと、こういうふうに

「病気の原因を、個人の内部に(だけ)見出す」

っていう態度(世界観)を

「医学モデル」

って呼ぶんだ。

そしてもし、多くのひとが、たとえ無意識にでも、この「医学モデル」にだけ則って

この世から病気をなくそう!

なんて考えたとして、実際にそれが実現したとしよう。そしたら最初は、たくさんのひとが喜ぶかもしれない。でもそこにある世界は、ほんとに

「いい(理想的な)世界」

だろうか?

僕には、どうしても、そう思えないんだ。

たとえば、脳性麻痺とか、その他いろんな病気が、将来的に完全に「消滅」したとして、歩けないひとたちが、ほとんどいなくなったとしよう。そしたら、もしかしたら、階段に手すりが付くことも、公共施設や駅にエレベーターが完備させることも、なくなるかもしれない。それは少なくとも、「今より必要性はずっと下がる」んだもん。だけどそれでも、たとえば「事故」とかで、歩けなくなるひとは出てくるだろう。そういうふうに、少数者が今よりもっと少数者になった世界では、そのひとたち(障碍者)の苦しみは、今よりもっと大きくなるんだって、そう思わない?

それにもしもっと「極端な想定」をしてみたとしても、それでもやっぱり、僕の結論は変わらない

でもこういうことは、ここに今まで何度も書いてきた想いでもある。たとえば、こんなふうに。

僕は医学的には「病気」だ。それには「脳性麻痺」っていう名前が付けられていて、その状態で生きるのは今の社会のなかでは確かに大変だから、僕は国か...
僕は前から出生前診断に強い関心を持っていて、ここでもそれに関する文章を書いてきた。 でも、こうやって日が経てば経つほど、僕が悪い意...
神奈川の障碍者施設、津久井やまゆり園で起きた事件について、ずっと考えている。 毎回書く度に、 これで、書ききった。区切りをつけら...

だけどこの際だから、もっと

「極端な想定」

をしてみよう。

もし病気だけじゃなく、事故も、老化も、いわゆる「医学的な『健康』を害すると見なされるすべてのもの」が、完全に消滅したとしたら?だからそこには、先天的にも後天的にも、「歩けないひと」は存在しない。もちろん、「車いす」なんてまったく要らない。そこまでの「極端な想定」をしてみたら、どうなるだろう?

でもそれでも少なくとも僕自身の意見は、やっぱり変わらないんだ。

もし僕が「普通のからだ」を持っていたら、そのときの「僕」は、どんなひとになっていただろう?

この「極端な想定」は、ほんとには、

「歩けない」

っていうことだけに限らず拡げることができる。

でも目が見える僕が

「目が見えないひとがいなくなった世界」

について語るのは、そこから「横暴さを完全に抜き去る」のは、とても難しいと自覚している。それにこれは、あくまでも僕の

「個人的な、でも率直な意見」

を話すことが目的なんだから、僕にとっていちばん身近な話から言うのがいちばんいいと思う。だから、こう考えてみるんだ。

>もし僕が「普通のからだ」を持っていたら、そのときの「僕」は、どんなひとになっていただろう?

この問題は、ほんとは、

「まったくの別人について考えること」

だ。だから、難しい問題だ。でもだからこそ、自分自身だからこそ、少なくとも僕は、確信を持ってこう言える。

そのときの「僕」は、今の僕よりいいひとだとは、しあわせだとは、言い切れない。もしかしたらすくすく優しくあったかくしあわせに育ったかもしれない。でもそうじゃない可能性も、ものすごくある

僕が僕だったから体験できたこと(感じられた想い)がある

僕がこのからだで、この社会で今まで生きてきたなかでは、確かにたくさんの痛みや、哀しみや、苦しみがあった。でもだからこそ体験できたことが、感じられた想いがある。そしてそれが、今の僕を作っているし、そのなかで、僕は成長している。そしてまだまだ、成長したいと思う。

だけどもし、「病気が完全に消滅した世界」のひとたちが、この

僕が僕だったから体験できたこと(感じられた想い)がある

っていう素直な想いを、まったく共有してくれなくなるんだったら、僕はそんな世界を、

「理想の世界」

だとは、まったく思えない。だからこれが

「僕から見える、『医学モデルの限界』」

でもあるんだ。

でももし、そっちの道じゃないほうを通ったなら、つまり

「僕が僕のからだでいても、誰がどんな状態でいても、まったく困らない」

っていう方向性の結果として、

「病気(障碍)が克服された」

なら、その世界に生きるひとたちなら、僕の

僕が僕だったから体験できたこと(感じられた想い)がある

っていう気持ちも、受け入れてくれるんじゃないかって、そう思うんだ。

それは、言い換えれば、多様である(自分が他のひととは違う)ことが、苦しみにならない世界だ。

そんな世界に、僕は生きていたいと思う。それが、僕の

「理想の世界」

だ。もしそれをあなたと共有できるんだったら、たとえ表面的には

この世から病気をなくそう!

っていう同じ「言葉」であっても、その「意味」は、また違うだろう。そんなことを、僕はいつも、希望を込めて、考えている。

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