金の斧、銀の斧

広告
木製の手斧

木こりが、湖のほとりで木を切っていた。

しかし不意に手が滑り、斧を湖に落としてしまった。

 

木こりはしばらく物思いに耽っていたが、やがて意を決した。

しかし木こりがそこを立ち去る前に、不意に湖から、女神が現れてこう言った。

あなた、先ほど落としものをしましたね?それはこの金の斧ですか?

木こりは特に驚いた素振りも見せず、静かにこう答えた。

違うよ。そんな立派な斧は俺のじゃない

すると女神は、続けてこう言った。

そうですか、ではこの銀の斧ですか?

木こりは、ほんの少しだけ笑いながらこう言った。

ここじゃあ斧の落としものがずいぶん多いんだなぁ?でもそれも、俺のじゃないよ

すると女神は、またこう言った。

なるほど、それでは、この木の斧ですか?

木こりは今度は少し注意深く見て、こう言った。

うん、たぶんそれじゃないかと思うよ。でも念のため、あんたの持ってる斧は、それで全部かい?もし他に似たような斧があるなら、それも見せてくれよ。誰かのと取り違えちゃいけないからさ

すると女神は、ほんの少し笑ってこう言った。

ええ、私が持っているのは、この3つだけです。ですからきっと、これがあなたの斧なのではないですか?

木こりは静かに納得して、こう言った。

うん、じゃあそれが俺の落とした斧だろうね。きっと間違いない

だが木こりは、続けて女神にこう言った。

でもそれよかったら、あんたにあげるよ。俺はもう、要らないんだ

 

これには女神も驚いた。

なぜそんなことを言うのです?これはあなたの斧でしょう?

木こりの調子は静かなままだ。

うん、たぶんそうだろうね。でもよかったら、もらってくれよ

ただこう言い終わってから、少し笑ってこう付け足した。

でもな、これは別にあれだぞ、要らないものをわざと落としたわけじゃない。手が滑ったから落ちたんだ。だからへんな勘ぐりはしないでくれな

けれど女神は納得しない。

ですが要らないから落としたわけではないというなら、あなたにこれがないと困るのではないですか?あなたがなにを考えてるのか、よくわからないのです

木こりが誰かと話すのは、実に久しぶりだった。だから彼もだんだん楽しいような気分になって、話に付き合うことにした。別に、急いでするべきなにかはない。

要らないから落としたわけじゃないけど、もう要らないと言えば要らないんだ。それにほんとに「ないと困るもの」は、もっと前に落としちゃってね

彼が含みのある言いかたをするのは、からかっているわけではない。ただ彼は、

「誰かが自分に興味を持つこと」

に慣れていないので、自分からなにかを話すのも、うまくできないのだった。

しかし女神は、この木こりに興味を持っていた。だから当然、ここで退くはずもない。

それはいったい、なんなのですか?ほんとに「ないと困るもの」とは?

彼の答えは早かった。

「目的」だよ。昔の俺にはそれがあった。だけどな今はそれがない。だからこの際木こりだろうが、そうじゃなくても関係ない。斧を落としたのが今日だと言うなら、ここらが潮時なんだろう。あんたも「神」ならほんとは知ってるんじゃないのか?これを「運命」っていうんだろう?

だが女神は少し寂しそうな顔をして、こう言った。

確かに私は神ではあります。けれどもそれは「湖の女神」。この湖とあなたのように、そこになにかを落としたひとの心を、見つめるだけのこと。だから私はこの湖の外の世界のことは、なにも知らないのです。それに「世界」を司る力など、私などにありはしません

木こりは女神につられて哀しくなった。けれどだからこそ、笑ってこう言った。

なるほどな、じゃあ簡単に言うならさ、俺もあんたも「暇人」ってわけだ。だから俺なんかの人生に、やたらと興味を持つってわけか。けど別に俺も暇だから、あんたにその気がある限り、話くらいは付き合ってやるぜ?

すると女神はすぐさま質問した。

あなたはいったいいつどこで、その「目的」を落としたんです?

俺は木の家に住みたかった。だから木こりになったのさ。誰かの家を買う金もないし、そもそも自分で建てたほうがさ、いろいろ自由にできるしな。けどそれは俺独りで住みたいからじゃなかった。でも一緒に住むはずだったひとは病気で死んだ。だから俺は目的を失くした。あとはまぁ、惰性だな。最期まで生き抜かないと、あいつに怒られるし。けどもう斧もなくなったから、木こりもやめる潮時だ

 

女神はしばらく黙ってしまった。けれどもやがて、静かにこう言った。

ですがもし私があなたに斧を返したら、あなたはまた木こりに戻りますか?

木こりは強く首を振った。

いや、もういいよ。それにさっき、あんたは俺の運命を決めてないと言った。だったら俺が斧を失くすことが俺の運命じゃないって、あんたにはわかりようがないってことだ。だったら、自然に任せるべきだ

そして、こうも付け加えた。

しかも、あんたは外の世界を知らないんだろう?今じゃ木こりなんて生きかたは、時代遅れなんだ。しかも、「母なる自然をむやみに破壊してる!」なんて、後ろ指まで指されるくらいさ。ただ俺は、「持ってるものは大切にしろ」と教わった。だから斧も大切にしてきた。でもそれももうなくなった。そもそももう目的もなかった。だから、もういいんだ

気づけば木こりは、ずいぶんと饒舌になっていた。しかしそれは、女神も同じだった。女神は未だかつて、こんなにも人間と話し合ったことは、いちどもなかった。しかしそれでも、女神はまだ、木こりと話し続けたかった。

確かに私は、無知な存在です。老いも死もない私では、あなたの痛みを共有することも、癒やすこともできない。ですがそれでも、私は私の力と権限により、あなたにあなたの斧だけでなくこの金の斧と銀の斧も差し上げることができます。これは実は、私が相手の心を測るための道具だったのです。ですが、あなたの心はよくわかりました。だから、これももらってください。あなたが木こりをやめるとしても、これを売るなりなんなりすれば、生活の保証は充分でしょう?

しかし木こりは、これを聴いて瞬間的に、爆発的に、激怒した。

お前な、今自分がいったいなにを言ったか、よくよく考えてみろ!「あなたの心はわかりました。生活の足しに金銀の斧を差し上げましょう」だと?俺のなにを聴いて、俺の心のなにをわかったって言うんだ!俺に必要なのは金の斧でも銀の斧でもない!金銀でも家でもないさ!それが欲しかったのは昔だ!金が欲しかったのは薬のためだ!今じゃ飲ませる相手がいない!金銀だろうがなんだろが、あいつの代わりになるものはない!そうだよ、俺は斧を落とすのが遅かったのさ!昔の俺なら斧をもらって、銀と銀のは薬に換えて、あんたに頭を下げただろうさ!だけどな今の俺の頭はな、沸き立って爆発しそうだぜ!そうだそうでなきゃ、俺は斧を落とすのが早すぎたのさ!死ぬまで木こりを続けて最期、手から斧をこぼれ落として、それで死んで終わるべきだった!役に立たない俺の手に、役に立たない斧があって、役に立たない女神がそこで、役に立たない質問をする!それで丸く収まるってわけだ!どうだ笑って、拍手してみろ!

 

女神は言葉を失った。

木こりは怒りに震えたまま、踵を返して帰ろうとした。もう2度とここに来ることはない。もはや男は、木こりではない。

 

しかし女神はその瞬間とっさに、本人も想像さえしていなかったことをした。湖を飛び出し、男を追いかけて、こう叫んだ。

行かないでください!そしてどうか無知な私を許してください!私はあなたをなにも知らない!ひとのことも世界のことも!しかし私は、知りたいのです!ここではない世界のことを!私ではないあなたのことを!どうか……どうか……

女神の声は張り裂けんばかりだったが、終わり頃にはか細くなっていた。それは泣いているせいだけではなかった。女神は実際に、息も絶え絶えだったのだ。

 

彼女は、神である。だが自身が男に言ったように、あくまでも「この湖の女神」である。だから彼女は湖を出れば生命力を失う。それは彼女の死に直結する。老いも知らない女神は、あくまで「湖のなかだけの存在」だったのだ。

そしてこれは、彼女が数々のひと(そのほとんどは木こりだった)の心を測ってきた理由でもあった。不遜な木こりが活動を続ければ、やがて森は消え、湖も枯れ果てることになるだろう。だからそんな木こりには、斧を返すわけにはいかなかったのだ。しかし正直で優しい木こりには、それ以上にいいものを与えよう。彼らがずっと、自然と人間との関わりの、模範を示し続けてくれますように。

これは確かに、女神の自衛行動でもあった。だがそれと同じくらい、周囲への、慈しみでもあった。彼女はやはり、この湖の、女神だったのである。

しかしそんな彼女は、もはや死の淵に瀕していた。だが彼女は、独りではなかった。次に目を覚ましたとき、彼女はまた湖のなかに戻っていた。

 

男がいた。怒っていた。全身が震えていた。そして先ほどの女神の声に負けないくらいの大声で、叫んだ。

てめぇなにしてんだ!さっきから俺の話をなんだと思ってるんだ!俺の目的がいつなくなったか、それはあいつが死んだときだって、聴いてなかったのかよ!目の前で、死んでいったんだ!その日から俺は、目的を見失ったんだ!なのにお前は、そんな俺の話を聴いて、「心はよくわかった」とかほざいて、それでまた、死に様を看取らせる寸前だったんだぞ!てめぇはいったい、俺をなんだと思ってるんだ!

女神は、振り絞るような声で、ぽつりと言った。

本当に、ごめんなさい……

 

男はしばらく肩で息をしていたが、やがて落ち着きを取り戻し、こう言った。

斧をよこせ。金も銀も木のも、3本ともだ

女神は、せめてもの償いの気持ちを込め、迷いなくそれを渡した。

しかし男は、それを受け取るや否や、今度はこう言ったのだ。

これで、この斧はぜんぶ俺のになった。でも俺には、斧3本は多すぎる。こんなの持ってても、盗まれそうで怖いったらない。だからこれからはこの金と銀の斧を、お前が責任持って預かれ。そしてこれは俺たちの、「約束の証」だ。お互い暇人の俺とお前だ。もしもお前がその気なら、いつだって話し相手になってやる。俺の知る世界のことも、俺のことも、たくさん教えてやるよ。だからお前は、俺が呼んだら、いつだって上がってこい。いいか?

女神は、顔いっぱいに笑みを浮かべた。そしてふたりは、友達になった。

 

木の斧を持った男は、もういちど木こりになった。以前よりもっと自然を愛する木こりになった。それに彼には、「目的」ができた。

彼はもう、湖に斧は落とさない。友達を呼ぶのに、そんな小細工は要らない。そして木こりは女神に、いろんなことを報告する。でも彼のいちばんのお気に入りは、いつだってこの話だ。

その日、俺はすごく嫌なことがあった。だからすごくイライラしながら、外に出たんだ。そしたらそこで出逢ったのが……

この話を聴くのは、もう何度めだろう。しかし女神も、この話が大好きだった。だんだん森じゅうの生きものたちが、この話を聴くようにもなった。その話をしているときの彼の顔は、これ以上ない愛に満ちていた。

 

最近、彼はまた家を建て始めたという。それは最初に計画していたものよりこじんまりとしていたが、それで充分だった。彼は最期まで、木こりとして生き抜くだろう。そして彼の生き様が受け継がれていき、この森と湖は、きっと護られるだろう。だから彼が怒られる心配はもうない。彼は森と生きる、木こりになった。彼の目的は、もうなくならない。

トップへ戻る