「自己肯定感が高いか低いか」より、もっと大切なことがあると気づいた

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今までここでも何度か、「自己肯定感」について書いてきた。

こないだ、こんな文章を書いた。 ここで僕が言いたかったことをすごくざっくりとまとめちゃうと、 わざと激しい表現で煽るのは短期的な注目...

でも今日突然、ひらめきのように浮かんできた考えがあった。そしてこれは、少なくとも僕にとっては、

「すごく大きな発見」

だった。だからそのことを、ここに書いてみて、あなたとも共有したいと思う。

「自己肯定感が大切だ」っていうのは、扱いを間違うと、むしろ「強迫観念」になる

自己肯定感。この言葉はもっと単純に

「自分を愛すること・認めること」

なんていうふうに言い換えてもいいと思う。

そして

自己肯定感が低いままだとしあわせを感じられないよ!

自分を愛することができないうちは、ほんとは誰のことも愛せないんだよ!

なんていう言葉は、僕自身も何度となく言われてきたことだ。そして今でも、僕はこの意見自体は、確かに「相当正しい」んだと思ってる。だけど、これが「相当正しい」からこそ、この「正しさ」が、ときとして危険なんだ。特に、今現在自己肯定感が低い・自分をうまく愛せてないひとにとっては。そしてそのひとりが、僕なんだ。

僕は、この意見が相当正しいことを知ってる。そりゃあ自己肯定感が低いままじゃ、しあわせを感じられないだろう。自分をうまく愛せないひとが、誰かをうまく愛するのは難しいだろう。だけど、だからこそ、

自己肯定感を高めよう!自分を愛そう!

なんて考えすぎても、うまくいかないんだ。正確には、うまく行くひともいると思う。でも僕は、ダメだった。まして

どんな自分でもまるまる肯定しよう!自分のどんな部分も愛してあげよう!

なんていうふうに「究極形」を目指そうとすれば、もっとダメだった。

だってこんなふうになると、それはもはや「強迫観念」だもん。

考えてみれば当たり前だけど、「強迫観念」に晒されたら、「自己肯定感」は下がる。そして自己肯定感が下がれば、もっと強迫観念が強まる。こうやって、無限に負の連鎖にはまってく。これじゃ、逆効果そのものだ。

だから僕は、冒頭に挙げた文章を書いたとき、

「自分の全体」(まるまるすべて)を肯定するなんてことは無理でも、まずは自分の「動機」を肯定できれば、そんな動機を持てれば、それでいいんじゃない?

っていうのを暫定的な結論にした。

だけど、今回の「発見」は、このさらに上を、斜め上を行くものだったんだ。

自己肯定感はできれば高いほうがいいと思う。でもそんなのは、「もっと大切なこと」に比べたら、まだちっぽけだ

このあたりで1回結論を言ってしまおう。それは

自己肯定感は確かに大切だと思う。でもほんとは、それよりもっと大切なものがあって、それに比べたら、自己肯定感が低いことなんて、ある意味「どうでもいい」んだ!

っていうものだった。じゃあその自己肯定感(自分を愛すること)よりももっと大切なものっていうのがなにかっていうと、

それは、自暴自棄にならないことだ。

自分を肯定できなくても、自分を愛せなくても、自暴自棄にさえならなければ、それでいい

こんなことは、もしかしたら、あなたにとっては、

そんなの、改まって言うようなことか?

って思うかもしれない。でもこれは、僕にとっては、

「すさまじく大きな発見」

だったんだ。

何度も言うけど、自己肯定感は、自分を愛せる・認められる感覚は、ないよりはあったほうがいい。それに僕が言う

「自暴自棄にならない」

っていうのにしたって、自己肯定感が低いひとより高いひとのほうが、自分を愛せないひとよりは愛せるひとのほうが、ずっと達成しやすいだろう。そんなことはわかってる。

だけど僕は、そういうのをいったんぜんぶ認めたうえで、それでもこう言える。

自分を肯定できなくてもいい。自分を愛せなくてもいい。ただ自暴自棄にさえならなければ、それでいいんだ!

これはほんとに、大きなことなんだ。僕のなかでどれだけ鮮烈な転回が起きたのかを、言葉で言い尽くすのは難しすぎる。そのくらい、嬉しいことだった。だってこれは、もはや「自己肯定感」とか「自分を愛する」なんていう枠にすら留まらないんだもん。

たとえば自分のことを「恵まれない境遇」だと思っているなら、それでもいいんだ。「運が悪い」と思ってるなら、それでもいいんだ。「何年経っても代わり映えのない人生なんだろうなぁ……」って思ってるなら、それでもいいんだ。「自分が世界でいちばん不幸だ」と思ってるなら、それでもいいんだ。ただ、その状態で、そんなことを思っているとしても、あなたが自暴自棄にさえなっていないなら、それで、いいんだ。

「自暴自棄にならない」っていうのは、「『それでも、生きる』って決めることだ」って言ってもいい

そもそも

「自分を肯定できない」

っていうのは、

ほんとはもっとできるはずだ!

自分がなりたいのは、ほんとは「こんな自分」じゃない!

って思ってることの、裏返しだったりする。

つまりそれは、ほんとは、「理想の高さ」でもあるんだ。理想が高いから、そこと今のギャップに苦しむ。だけどその理想は、どうしても棄てたくない。だから、「今の自分」をどうしても、そのままでは認められない。そういうことでもあるんじゃないかと思う。もちろんそれですべてじゃないとは思うけど、僕の場合はそう言える。

たとえば僕はこないだ

こんな文章を読んだ。 これはご自身を ADHDエッセイスト? って呼ぶ望月志乃さんが書いたものなんだけど、僕にとってもまたいろ...

って書いた。僕は、もっとちゃんと想いを伝えられるようになりたいし、もっとあなたとわかり合いたいと思う。たくさんのひとを(自分の意図に反してても)傷つけてしまったことも知っているからこそ、このままずっと傷つけ続けたいとは思ってない。だからこそ、

今の自分を肯定するわけにはいかないよ!

っていう気持ちが、沸々と湧いてくるんだ。

それにたとえ今がそんな状態でも、そもそも今までだって、努力してこなかったわけじゃないんだ。今までだって、できる限り精いっぱいやってきたんだ。だから、これからも努力を続けるけど、だからこそ、

「劇的に急激に変わる」

なんてことは、できないかもしれないと思ってしまう。それでまた、自己肯定感が下がるんだ。

でも、それでもいいんだ。自己肯定感がなくたって、生きてもいい。自分を愛せなくたって、生きてもいい。未来に希望がなくたって、生きてもいい。たとえ自分が、理想が高いから自分を愛せてないくせに、自分の理想へ向かう最短距離を行けてなくたって、生きてもいいんだ。つまりさ、「自暴自棄にならない」っていうのは、言い換えれば「『それでも、生きる』って決めること」なんだ。それにね、僕も未だにずっと信じてるんだけどさ、そうやってグダグダでもめちゃくちゃでもなんとかかんとかやっていたら、いずれは、少しずつ少しずつは、変わっていけるかもしれないんだもん。

ところで、この「自己肯定感がなくたって、生きてもいい」っていうのはさ……

ってことで、ここまで僕のように今までも今でも自己肯定感が低いままで、自分のこともうまく愛せてないようなひとに、

そもそもさ、自己肯定感がなくたって、生きてていいんじゃないか!

っていう僕にとっては「大発見」だったことを、共有してみた。

でもね、ほんとは話はまだ続くんだ。だってね、今まで言ってきたことは、ざくっとまとめれば、

自己肯定感が低いとか、自分を愛せないとか、そんなこともう気にしなくていいよ!

っていうようなことだとも言えるでしょう?

でも、それをもう一歩、よくよく考えてみたらさ、

この「自己肯定感がなくたって、生きてもいい」っていうのは、「究極の自己肯定感」なんじゃない?「自分を愛せないままでも、生きていい」っていうのは、「究極的に自分を愛せてる」ってことなんじゃないの?

って思うんだ。

だからついにここで、すべてがつながったんだ!

しかもこの道のいいところは、ここにほとんど「強迫観念」がないことだ。

自己肯定感を持たなきゃいけない!

っていう想いで、自己肯定感に至ったんじゃない。

自己肯定感なんか持たなくてもいいんだ!

って思うことで、自己肯定感に近づいたんだ。

自分のことを愛せないんじゃ不完全だ!

っていう想いから、自分を愛せるようになったんじゃない。

自分のことを愛せなくたっていいんだ!

って思うことで、自分を愛することに近づけたんだ。

だから、この道は、少なくとも僕にとっては、今までに比べれば、すさまじくラクな道なんだ。

「自暴自棄にならない=それでも、生きる」っていう最後の一線だけは、護り抜く

でもこれでも、

「自暴自棄にならない」っていうのだって、ある意味「強迫観念」じゃないか!

っていうひともいるかもしれない。そう言われたら確かにそうなんだ。でもさ、もともとは

自己肯定感が低いままだとしあわせを感じられないよ!

自分を愛することができないうちは、ほんとは誰のことも愛せないんだよ!

っていうところにいたのが、

自暴自棄になることさえなければ、それでいいんだ!

っていうところまで絞りに絞って、「最後の一線」をはっきりさせたんだから、今までに比べたら、「相当な成果」だと思う。

それにこれは、最初からずっと言ってるとおり、自己肯定感を持つこと(自分を愛せること)そのものを、否定してるわけじゃない。僕は今までも今もこれからも、自分を肯定できるひとを、自分を愛せるひとを、心から尊敬してるんだ。でもだからといって、どうしてもそのひとたちを同じように真似することはできなかったから、違う道を探したら、こんな道を「発見」したっていう、そういう話なんだ。今までは、こんなことをこんなふうに教えてくれるひとは、僕の周りには、いなかったからね。

でもなんでもそうだけど、こんなことは、

「できるひとには当たり前すぎて響かない」

ことなんだと思うけど、もしあなたにも少しでも役立ててもらえたら、すごく嬉しい。っていうかほんとは、僕自身がいちばん、喜んでるんだけどね。この発見ができたから、僕もまたほんの少しくらいは、自分が好きになれた気がするくらい。そんな、報告でした。

コメント

  1. 小夜子 より:

    四つ這いおとなさん、分かち合いありがとう。

    貴方が新たな「道」を発見された驚き、素直な喜び、新鮮な希望、そこから広がる明るい世界…そういったものが伝わってきました。

    読んだ私まで、じんわり嬉しく、温かく、明るく、しあわせな気持ちになりました。

    貴方が見いだされたこの道、そして這い歩まれる貴方の人生に、ますますの祝福がありますように。

    自己肯定感や最後の一線については、私も自分なりに思うことや見いだしたことがあり、それは貴方の発見とも相通じるところがあるように感じているのですが、それはまた今度ゆっくりお話しできればと思います。

    今回はとりあえず、貴方の発見と喜びを共有させていただいて、私にも喜びが広がりました、ありがとうございます、ということだけ、お伝えしたくてコメントしました。

    • 小夜子さん、こんにちは。

      そんなふうに僕の「発見」があなたのお役に立てて、とても嬉しいです。

      発見して嬉しくなったことを書いたら小夜子さんに嬉しくなってもらえて、それでまた僕も嬉しくなる……っていう、すごく嬉しいことですね。

      「共有する」

      っていうのはお互いの意志が響き合ってはじめてできることだと思っているので、いつもそうやって僕の言葉を受け止めてくださる小夜子さんの存在には、僕もいつも励まされ、支えられています。こちらこそ、いつも本当に、ありがとうございます。

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