「発達障碍者の結婚」の話題を鑑に、自分自身を振り返ってみる

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砂漠のサボテンと天の川

こんな文章を読んだ。

発達障害は先天的なもの(=生まれつきの脳みその特性)である。 加えて、親から子へ受け継がれていく「遺伝性のものである」という説がある。 確率の問題であり、必ず遺伝するとは限らない。 その話を聞いて、妊娠・出産のみならず、結婚も躊躇う当事者が少なからずいるらしい。私も第二子を産むかどうかについて、どうするべきか悩んだ時期...
前回の記事で、発達障害の特性を持った女性が、婚活していることを理由に、誹謗中傷を受けたという話について書かせていただきました。 詳しいことは前回の記事を御覧いただくとして、簡単に説明しますと(あくまで私個人の予想ではありますが)、誹謗中傷の内容から、「発達障害が遺伝する可能性があるのなら、子どもを産んではいけない」し、...

これはご自身を

ADHDエッセイスト?

って呼ぶ望月志乃さんが書いたものなんだけど、僕にとってもまたいろんなことを考えさせてくれる文章だった。

「脳性麻痺」と「発達障碍」っていうのは、実際とても近しいものだ

ここでは何度も書いてきたことだけど、僕のからだが今のようになった原因は、医学的には「脳性麻痺」にある。そしてそれは、公的には「身体障碍」に分類される。

でもその「一般的な区分け」がどうであれ、僕としては実感的にも、「脳性麻痺」と「発達障碍」っていうのは、実際とても近しいものだと感じている。そしてそれはたとえば、最初に挙げた文章にも

発達障害は先天的なもの(=生まれつきの脳みその特性)である。

って書かれていることからも伺えると思う。

どの「直接の理由」がどうであれ、脳の状態が大多数のひとたちと違うっていう意味では、大きく共通しているんだ。

それに、それは医学的にも指摘されていることだ。

脳性麻痺児が ASD(自閉症含む PDD)を合併する比率は 10~15% と高く,また脳障害が重度であるほど合併する比率が高くなる傾向も示されている。自閉症の治療教育プログラム(療育)については,国内では,“treatment and educational of autism and related communication handicapped children(TEACCH)“の考え方が広く取り入れられており,それに基づいた評価や治療の試みも報告されている。ただ,自閉症児の療育は個別性に基づいた生活ベースの長期的な支援が必要であり,その効果について医療的視点からエビデンスを示すことは非常に困難な領域である。

っていうふうに。そしてよくある

「アスペルガー症候群セルフチェック」

なんかをやってみても、だいたい僕はアスペルガー症候群の傾向がとても高いと言われる。だから今の社会で一般的に考えられている以上に、僕にとって「発達障碍」っていうのは特に切実な関心のあるテーマでもあるんだ。

「結婚」っていうのは「他者との関係性の究極形のひとつ」なんだから、そこにはたくさんの示唆や課題が、凝縮されている

そして、冒頭の文章は結局「発達障碍者の結婚」っていうテーマに収斂されていくんだけど、これは「結婚」そのものがどうこうっていうこと以上の深みがあると思う。

だって、「結婚」っていうのは「他者との関係性の究極形のひとつ」なんだから、そこで示唆されていることや課題は、その濃度の違いこそあれ、他の人間関係にも少なからず当てはまるからだ。

それを噛みしめたうえで見てみると、いろいろ考えさせられる文章のなかでも特に僕にとって切実なもののひとつは、やっぱり「カサンドラ症候群」の話だ。それはここにも引用されているとおりで、

アスペルガー症候群(AS)の夫または妻(あるいはパートナー)と情緒的な相互関係が築けないために配偶者やパートナーに生じる、身体的・精神的症状を表す言葉である。アスペルガー症候群の伴侶を持った配偶者は、コミュニケーションがうまくいかず、わかってもらえないことから自信を失ってしまう。また、世間的には問題なく見えるアスペルガーの伴侶への不満を口にしても、人々から信じてもらえない。その葛藤から精神的、身体的苦痛が生じるという仮説である。

っていうものなんだけど、これは僕の実体験として、切実に存在を認識できる。ただ、僕の場合はむしろ

世間的には問題なく見えるアスペルガー

っていうところが当てはまらなくて、

「ある程度僕に近しいひとはみんながその『問題』を認識している」

というのが、逆に救いだと思う。だけど一方で、

自分にはまったくそのつもりがないのに、ひとを傷つけてしまう……

というのは、やっぱり哀しいことだった。

そんな状態で、今の僕が見出している現状の対応策

ただ、そんな状態でも長い間生きていればそれなりの「対応策」が見つからないこともない。そのひとつが僕の場合は、

「適度に距離を保つ」

っていうものだった。たとえば、直接会って話すと相手がなにか言ってきたことに対して、

「その場で、すぐに」

答えないといけないことが多い。そうしないと、こっちにそのつもりがなくても

無視してるのか?

こっちの話題に興味がないのか?

みたいな感じに誤解されることも多いからだ。だけどそうやって「その場で、すぐに」発した言葉が、今度は

「不用意な発言」

になってしまって、やっぱり相手を傷つけてしまうこともよくある。だからそれならむしろ「メール」とか「文章」とかの形式に則ったほうが、

「いったんゆっくり考えて、できるだけ言葉を選んで伝えられる」

っていう、利点がある。その意味で、インターネットっていうのも、やっぱり僕にとって、とても大きな存在だ。

それでも残る課題は、なんとかして「時間」を味方につける

だけど一方で、今度は「メール」や「文字」の弱点が出てくることもある。

それが、文の抑揚とかニュアンス、表情が伝わりにくいっていう問題だ。

だから、それによって却ってお互いの真意が伝わりにくくなることも多い。それに、これも僕の自覚的な傾向なんだけど、僕は「絵文字」とか「顔文字」それに「マーク」みたいなものを遣うのが、極端に苦手だ。だからここでもそうだけど、文章を書くときに遣うマークは基本的に「!」と「?」だけだ。あとの「マーク」っていうのは、たとえば「♪」とか「♡」(これは僕が男だから遣う場面がもともとないけど)っていうもののことだけど、これは「受け取る」のが精いっぱいで、「自分から遣う」となるとハードルが高すぎてムズムズする。ほんとによくある

「よろしくお願いしますm(__)m」

みたいなのでもダメだ。この例文ですら消したいくらいだ。この感覚はいったいなんなんだろうと自問自答しても、なかなかうまく言葉では表せないんだけど、おそらく

このマークが自分の感情を正しく伝えてくれるのかなぁ……

っていうのに、まったく自信が持てないんじゃないかと思う。この説明でも、自分自身まだ納得はできてないんだけどね。

だから、

「直接会っても混乱して(混乱させて)しまうし、かといって文字だと「乾きすぎた印象」になってしまう」

っていう両挟みがあるんだけど、それでも「一定の距離」があれば、その問題は小さくなる。

出会ったばかりのひとに「深い話」をすることはそんなにないし、あっても「こっちの言葉の影響力」はさほどない(からめちゃくちゃは傷つかない)し、卒業論文を書くのに、絵文字は必要ない。

っていうわけで、僕は基本的には

「適度に距離を置く」

ことによって「僕の被害を受けるカサンドラさん」たちを極力生み出さないように努力している。

だけど、それだけじゃ寂しいよね。実際、とても寂しい。

でも、とてもありがたいことに、僕にも「友達」と言えるひとはいる。そういうひとたちは、さっきも言ったように、僕の「問題点」に大概気づいている。そしてそのうえで、

そういうふうに言われたらこういうふうに受け取るんだけど、それで合ってる?

みたいなふうに言ってくれたりする。でも僕の場合はむしろ

「意識的にも無意識的にも、思ってることを言わなさ(感情表現が下手)すぎる」

っていうほうが多いから、

ねぇ、今どう思った?どんな感想?これおもしろい?おもしろくない?

みたいなことを「根気よく聴き出そう」としてくれるひともいる。普通はそこまで

「手間のかかるコミュニケーション」

をしてくれるひとはいないんだけど、ほんとに数少なく、そういうひとがいる。それは、ほんとにありがたく思ってる。それに「発達障碍」と言ってもいろんな違いや個性があることを重々承知したうえで言うと、僕の場合はなんか、

「同じように発達障碍(アスペルガー)的傾向が強いひと同士」

だと、わりとうまくコミュニケーションが取れることも多い。おもしろいことだよね。

もちろん、こんなことは誰とでもできることじゃない。だけどそれを噛みしめたうえで、この関係性が確かにある原因を探るなら、それはつまり

時間を味方につけることができた

っていうことに、尽きるんじゃないかとも思う。自分以外にも、たくさんのひとたちがいるなかで、自分に時間を割いてくれるっていうのは、ほんとに、ありがたいことだ。そして時間をかければ、最初はまったくそうは見えなくても、なにかの花はいずれ咲くんだと、僕は希望を込めて、信じている。

自力ではふれあうこともできないのになんで、付き合ってるんですか?

ここまでを踏まえて、簡単には答えの出しようのない問題であることをわかったうえで、それでももう少し、先に進んでみたい。だからちょっと、一緒にこれを読んでみてほしいんだ。

これも、ほんとにいろんな示唆に富んだ話だと思う。でも今は特に、ここに注目したいんだ。

(難病カップルの「ふれあい介助」について)

熊篠:去年の10月くらいに来た相談のメールが、手をつなぎたい。手を重ねたい。キスをしたい。

(お互い)筋力がほぼない状態で、指先がほんのちょこっとしか動かせない。例えばキスをしようとして体を傾けると、傾いたまんま戻れない。戻れないので、頭なり首なりをキスの状態で保ってくれないか。

(中略)

田川はカップルの許可を得て介助に同行した。

数時間の介助で身体を寄せ合った2人。

田川は介助後2人の言葉を聞いた。

 


女性:相手の存在を感じられたことで、映画や食事、もっといろんなことがしたいと思えるようになった。

 

男性:彼女の手や指の力この感覚があれば生きていける。

 


(呆然とする田川さん)

そしてこの経験を踏まえて、後日こんな話になる。

田川:「生きることに別に意味なんてない」、「生きてるってことはただ、その事実だけで解釈がたくさんあるだけだ」っておっしゃっていて、なんかわかるような気がするけど、やっぱりわかんない。

私はやっぱり生きていることに意味を見出したいって思ってしまうし。

 

(文字盤を使う岡部さん)

岡部:存在していることを最も認めたいという気持ちは、TLS(意思疎通ができない状態)の仲間を見て、認めることをどうしても必要なことだと思ったことがスタートです。
一方で、自分はどうかというとやっぱり人の役に立ちたいとか、自分なりにやれることをやりたいと思っているわけで、存在しているからそれでいいとは思えないという矛盾を抱えています。

 

田川:体が全然動かない女性と男性を介助する会があって。

自力でふれあえなくて大したことできないのになんで、付き合ってるんですかって本人たちに聞いた時に、「相手がいること、それ自体がたいしたことなんだよ」って、お互いから、どちらからもそういわれて。

この二人の中には、“存在しているだけでいい”っていうものが確かにあった気がして。“やっぱり愛なんだな”ってまとめると、またそれかよってなっちゃうんですけど、でもなんか、やっぱりその人を「ただいるだけでいい」って認めるのって、やっぱりそういうものが原動力になると思うし。

僕は、冒頭の望月さんが

っていうのもよくわかる。でも一方で、そんな「理想」を体現できる可能性も、確かに僕たちには確実にあるということを、僕も忘れずにいたいと思う。

そしてそのうえで、この「東大ゼミ」の田川さんが最初のほうで言っていた

別に障害のある人に私のテーマを押し付けなくても、世の中に運命の恋がどうのこうのって転がっていると思うけど、健常者同士の恋愛では見えにくいものが見えている気がして。

障害者同士のふれあい方みたいなものに、“愛のカタチ”が見えるんじゃないかと期待しているのかもしれません。

っていうものに、僕はひとつだけはっきり言っておきたい。

ここでは、たぶん無意識なんだと思うけど、

「健常者同士の恋愛」

「障害者同士のふれあい方」

っていうのが対比的に提示されていると言っていいと思う。でもほんとは、

「健常者と障碍者の恋愛」

っていうのが、あるんだ。そしてそれは本質的には、「恋愛対象」とか「結婚相手」だとかそうじゃないとか、そんなことは関係ないんだ。

「本来どこにでもあり得るもの」が、ある場所・ある種の関係性・ある立場のひとたちにおいて「凝縮」されているっていうだけで、それはほんとはもっと、一般的なことなんだと思う。

だから、あなたが「健常者」で、僕が「障碍者」だと区分けられるとしても、それはほんとは、「健常者と障碍者の関係」なんていうものじゃない。ただの、「人間関係」なんだ。そしてそのことを、もっと自然に、もっと深く、共有したいと思う。そしたらきっと、僕たちの関係は、もっともっと、あったかくなれる。僕はずっとずっと、その「理想」に、こだわり続けている。

(詩の要約)

サボテンを気に入ったバラだが、サボテンに合わせて砂漠に住むのは難しかった。生きていくために水がほしかったが、少しずつしおれ、やがて何も感じなくなった。サボテンの愛し方を知らず、バラに変えようと一生懸命だった。サボテンはバラのように振る舞ったが、一人のほうが心地よく、孤独に戻っていった。しおれたバラを、ほかのバラたちは仲間はずれにした。やがて、サボテンには別の愛情の示し方があると知り、サボテンは変種のバラではないと気づいた。二人が同じ植物になるより、違いを受け入れ、お互いを大切にし合おう。二人の子供は、バラの野生・繊細さ・色鮮やかさと、サボテンの頼もしさ・強さ・人を惹きつける魅力を併せ持つだろう。

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