2018年ももうだいぶ過ぎてしまいましたが、改めてあなたへ心からごあいさつさせてください

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レモンを掴み取る手

気づけばあっという間に2018年も1月が終わろうとしています。あなたは最近、どんな調子でしたか?

僕のほうはと言えば、去年、というかもっと正確に言えばおととし2016年の後半くらいから、ほんとにまぁいろんなことがありました。っていうか、そもそもこの『四つ這いおとな』に

ようこそ。はじめまして、四つ這いおとなです。 一般的には、「四つ這い」っていうのは何歳で卒業するものなのだろう?今少し調べてみるとだいたい...

を公開したのが2016年の3月なんだから、ここは僕自身の当初の予想よりもずっと

「濃い時間の痕跡」

を残す場所になったなぁと、しみじみ思っています。

今改めて振り返ると、ここに書いていることは基本的にずっと、

「僕の日記」

です。ただ、その僕の日記を単純に書き留めておくんじゃなくて、そこから生まれた「心の動き」に注目することによって、もしかしたら「僕個人の枠」を飛び越えて、少しでもあなたの力になれたり、安らぎになれたりできたらいいなぁという想いは、一貫してずっとあります。それでも、僕の「心の動き」というのは、何時何分に起きて何時何分に歯を磨いて……とかそういう記録よりも少しは共有する意味があるかもしれませんが、それでもやっぱり、僕の個人的なものです。だからどうしたって、ここは誰よりも

「僕自身のため」

にある場所だというのは、揺るぎなく変わらないなぁと思っています。

自分で自分を支えられなくても、あなたの力になりたい

ただ、これはおんなじところをぐるぐる回ってるような話なのですが、僕はやっぱり、

誰かの力になりたい!

という想いを、ずっと持ってるんだろうなぁと思います。だからこれを、もう少し掘り下げて言い換えると、僕は

僕が「自分のために」やっていることが、少しでも「あなたのためにも」なる可能性、もしくは逆に僕が「あなたのために」やっていることが、少しでも「自分のためにも」なる可能性があることを信じたい!そして、その道を探したい!

っていうことで、これをさらにひと言でざっくり言っちゃうなら、

「自分」と「あなた」の間の距離や垣根を、できるだけなくしたい!

ということになるんだと思います。これは、僕自身が「障碍者」として生きてきたことと、無関係ではないでしょう。だけどそのことも認めるからこそ、この想いは、やっぱりどうしたって消えないんだろうと思います。

去年も終わりに近づいてきた頃、僕はあるひとから

自分の生活も自分だけで支えられないお前が、誰かの支えになろうなんて思ってる場合じゃないだろう!

と言われました。これは、やっぱりすごく痛いです。でもこれが痛い大きな理由は、

「それが核心を突いているから」(自分自身がそこにある「一理」を認めているから)

なんだと思います。そうでなければ、そんなに心が揺れることはないでしょう。そしてこのテーマは、僕が今までもこれからも、人生を通じてずっと向き合うべきものなんだと思っています。

体調を崩したから、なおさら思ったこと

そして、こないだ新年を迎えて早々、かなりひどく体調を壊しました。僕はこどもの頃からずっと弱いからでしたが、昔のように毎月高熱を出すようなこともなく、さすがに20年を過ぎたら少しずつは抵抗力がつくだろうと思っていたし、実際にそうでした。でも今回のは、数年ぶりくらいの、なかなかなものでした。

前にも書いたことがあると思うけど、僕にとって

「からだがうまく動かせない」

っていうのは、確かに圧倒的に不便ではあるけど、もはやそれは「日常」であって、「普通」です。

だからその意味で、僕にとって

「ひどい風邪をひいた」

っていうのは、

「歩けない」

というより深刻なことだとも言えます。それで、実際かなり気が弱りました。

そこに加えて、さっき言ったようにこの1年半くらい、のなかでもこの半年っていうのは、ほんとにいろんなことがあったので、精神的にも肉体的にも、なんか「集大成」みたいな感じの、濃い1月でした。

ともあれ、まず体調のほうは、だいぶ快方に向かっています。そして精神的なことを言えば、

あ、自分はやっぱり、思ったより心が弱いんだなぁ……

ということを再認識したなぁと思います。でも、本当に弱いひとは、こんなふうに

「自分の弱さについて誰かに語る余裕もない」

んだと思うので、その意味では、僕も強いほうなのかなぁと思ったりしてます。

結婚式より、お葬式のとき一緒にいてほしい

ところで、こんなふうに心が弱いとか強いとかっていうのは、

「強いからいい/弱いからダメだ」

っていうことではなくて、単なる「性質」なんだろうと思います。ですがそれでも、今のような社会ではなおさら、

「弱いほうが生きづらい」(傷つきやすい・苦しみやすい)

っていうのは、間違いないだろうと思います。そして誰でも、いろんなことが重なったり積み重なったりすれば、それぞれの「限界」に近づいていくんだろうと、そう思っています。それに対する明確な「答え」は、僕にはまだ全然わかりません。

ただ、そういうことをぜんぶひっくるめたうえで、その哀しみとか痛みとか苦しみを、なんとか受け止め合えるようになれないかなぁというのは、去年よりも、1か月前よりも、今のほうがさらに切実に思っています。

ひとはどんなものにでも多かれ少なかれ「影響」を受けるものだと思っています。だから、痛みを感じているひとを見たら自分の心も痛むし、苦しんでるひとを見たら苦しくなるし、泣いているひとを見たら泣きたくなります。だから、

「哀しみとか痛みとか苦しみを、なんとか受け止め合う」

なんていうのは、まったく「きれいごと」ではないでしょう。それに実際、僕はただ自分の感じたことを自分のできる範囲で表現しているだけのつもりなのに、

お前の文章にはネガティブオーラが満ちてて、読んでてつらくなる!

なんてことを言われることもあります。だから、ほんとに難しいことだなぁとは思っています。

ずっと思ってきたことなのですが、結婚式ならまったく知らないひとのに出てもそれなりに楽しそうだけど、まったく知らないひとのお葬式に出るというのは気が進まないというのが、一般的な感覚だと思うし、僕にだってそういう想いもあります。それに、まったく知らないひとのお葬式に出るなんて、

なんのつもりなんだ!

不謹慎だと思わないのか?

とか言われてもしかたがないよなぁなんて、自分でも思います。

でもそれでも、自分だったら、まったく知らないひとに結婚式にいられるよりは、まったく知らないひとに大切なひとの葬式に出てもらったほうがずっといいなぁと思うんです。だって、結婚式なら究極、自分と相手がいればそれだけでしあわせです。もちろん、出席者が少なかったり、まったくいなかったりしたらそれはそれで哀しいとは思いますが、それでも、相手の眼を見てしあわせを感じられればいいし、なんなら結婚式自体がなくたっていい。でも大切なひとが死んでしまったときに、誰も慰めてくれなかったら、その哀しみはそうそう、癒えないままでしょう。だから、本当に「誰か」が必要なのは、うれしいときよりむしろ、「哀しいとき」だと思うんです。

もちろんこれは、僕の個人的な感覚です。だけど、僕はずっと、そう思っています。そしてそのうえで、誰かの哀しみを受け止めることは、誰かの喜びを受け止めることより、ずっとずっと難しいです。もっともっと上手になりたいとずっと思っているんですが、なかなかうまくできない。それはすごく、哀しいです。

最もすっぱいレモンで、なんとかレモネードを作る

ですがそんななかで、2016年にアメリカで制作された連続テレビドラマ『THIS IS US』を観ました。ネタバレを避けるために前後の状況説明は省きますが、そのシーズン1第1話に、こんなセリフがあります。

できれば君もいつか年老いた時に、自分の経験を若者に語ってくれるといいなと思うよ。人生が君という人間に与えた最もすっぱいレモンで、なんとかレモネードを作った経験を。

これはもともと英語のことわざに

When life gives you lemons, make lemonade.

(人生からレモンを与えられたときは、レモネードを作りなさい)

というのがあることから派生したセリフだということですが、僕がこれに、心からじ〜んとしました。僕はうまくレモネードを作れるわけではありません。でも、なんとかレモネードを作ろうと思ってはいます。そして、僕に与えられるレモンとあなたに与えられるレモンは色もかたちも違うので、同じレシピでうまくできる保証はまったくありません。だけどそれでも、この

なんとかレモネードを作りたい!

っていう気持ちを共有することは、それがないよりは確かに、なにかの力になってくれると思います。もちろんレモネードが好きじゃないなら、別の調理法でもいいと思いますし、他のものと組み合わせて、たとえば紅茶とかに入れてもいいと思います。僕自身も、そっちのほうが好きです。

言葉や想いは、共有されなきゃ意味がない。あまりにも、寂しすぎる

あと、

そういうのは、ひとりで日記にでも書けばいいんだ!

っていうような意見に対しての答えは、最初のほうでも書きましたけど、せっかくなのでもう少し補足しておきます。確かに、もし僕がこういう心の動きを個人的な日記帳につけるなら、そこにはたとえば、

「どんなことがあって、誰がどんなふうになって、自分はどう思って……」

みたいなことを、もっともっと細かく書けるとは思います。そしてそれは

「誰がどんな観点から、どんなふうに読んで、どんなふうに言われるかわからない」

という恐れがないぶん、もっと「自由」かもしれません。自分しか読まないなら、誰に迷惑をかけることもないですし。でも僕は、自分の心を素直に見つめたら、ほんとはどんなものも、

読まれたい!

と思ってることを、どうしたって自覚します。だって

誰にも伝わらない(認識されない)言葉なんて、死んでいるのと同じじゃないか!

と思うからです。

たとえ自分の意図とは違う読まれかたをされたとしても、それでも、まったく認識されないよりはましだ。それに今は伝わらない気持ちも、いつかは、いつかは、伝わるときが来るはずだ!

っていうことを、信じているからです。そうじゃなきゃ、言葉なんて発する意味がないと思っているからです。あなたは、そう思いませんか?

というわけで、これからもこの人生からなにかを作り出してみたいと思います

新年最初からとりとめのないことをたくさん書きましたが、僕はもともとここで文章とか詩とか物語とかを、脈絡なくいっぱい書いてきましたので、これからもずっとこんな感じだと思います。ですがこんな僕に付き合ってくださるあなたには、いつも心から感謝しています。そしてあなたがこの文章を読むこともなく、ずっと僕と関わることなく生きて死ぬとしても、僕はあなたの「厚意」のおかげで、今も生きています。これは、まぎれもない事実です。ですから本当に、ありがとうございます。どうかこれからも、よろしくお願いします。美味しいレモネードができたら、少しでも一緒に、わかち合えたらと思っています。

コメント

  1. だれか より:

    お久しぶりです。
    いろいろと大変だったご様子……大丈夫ですか?

    うまく伝わるかどうかわかりませんが、わたしは四つ這いおとなさんの文章が好きですよ。
    柔らかくて温かいお人柄を感じます。
    受け取るほうはつらいですけど、アンチコメントも人気・興味のひとつですね!
    これからも思うままに綴ってください。

    • 誰かさん、こんにちは。

      あなたにそう言っていただけて、心からありがたいです。

      とりあえず今の心境としては

      まぁもうこうなったら、やれることをやるしかないよね!

      みたいな感じになっているので、むしろ前に進みやすい感じだと思います。

      選択肢を絞られたほうが、却って肚が決まるっていう感じです。

      これからも、どうぞよろしくお願いします。

  2. 小夜子 より:

    四つ這いおとなさん、おひさしぶりです。

    今日は2018年の立春、ですので、また新たな季節の始まりです。

    この一年も、よろしくお願いします。

    英語にvulnerabilityという概念がありますね。

    情報セキュリティ用語としては「脆弱性」と訳されるようですが、本来もっと広く、日本語には対応する訳語がないのですが、「傷つくことができる能力」というような意味だと私は理解しています。

    「強さ=傷つけられないこと」だけじゃなく、「弱さ=傷つくこと」も大切なことである、と、この言葉は示していると思います。

    人間は本来、そういう存在なのだろうと思います。強さばかりがもてはやされる世の中ですが、強いこと=善い事・正しいこと・優れていることではなく、強いこと=強いことであってそれ以上でもそれ以下でもない。弱いこともしかり、悪いことでも間違っていることでも劣っていることでもなくて、ただ「弱い」ということ。

    そして、人間は強さと弱さを併せ持っている存在で、それでよいのだということ。

    貴方の文章を読んでいると、ヴァルネラビリティの貴重さに、気づかされます。

    鉄とガラスなら、鉄の方が強くてガラスは弱い。だから丈夫で強い鉄には鉄のよさがあり得意分野があり、脆いけど美しいガラスも同様。

    強化繊維と絹のどちらが優れているかなんてナンセンス。

    ただ、脆くて弱いものが素晴らしさを発揮できるのは、戦場では無理です。ガラスや絹は戦場では役に立たない。そして…人のいのちも、戦場では弱くて脆い。どんなに強くて偉くてお金持ちの人だって、直接戦場で銃弾を浴びたら死にます。

    世の中は、戦場であるべきではない、と私は信じます。

    強い人も弱い人も、それぞれのよさを発揮しつつ、その人として生きられるような、そんな人間社会であってほしいと、私は願います。

    そしてこれは私だけの願いではないと確信しています。

    だけど…「強くあれ!」と迫り弱さを否定する風潮の世の中で暮らしていると、そんな言葉にばかり触れていると、いつしか私の中にも「強いことはよいことだ。弱いことは悪いことだ」という思いが芽生えてきます。世の中を戦場と認識し、強いものが生き残り弱いものが傷つき滅びるのは当然、という感覚が芽生えてきます。

    ふとした時に、弱い人に対して冷淡になっている自分に気づき、ぞっとします。

    自分自身弱さを抱えた人間として、そのようなことはいつか自分自身を否定することにつながるでしょう。

    きっと誰しもが、弱さを抱え傷つきながら生きているはずです。その傷を必死で隠し、なかったことにして、強くあろうと頑張っている、痛々しい姿がそこら中にあります。そうして痛みを無視しているうちに、あるいは痛みが大きすぎて、いつしか痛みに鈍感になってしまうのかもしれません。

    痛みは、人間にとってとても大切な感覚です。痛みを感じなくなってしまった人間は危険です。体の痛みはもちろん、心の痛みもそう。痛みをきちんと感じることはとても重要です。そして、その痛みを表現できることも、大切な能力なのだと思います。

    痛みを表現するって、難しいです。よく言われるように痛みは主観的なもので客観的な基準なんてないから、痛みを分かちあうことも、とても難しいです。

    痛みを無視し、痛みを否定することのほうが、ずっと簡単だと思います。

    でも、やっぱり人間は、痛みを覚える存在です。生きているんだから。生命は、弱くはかなく傷つきやすいもの。うつろい、いつかはあとかたもなくなくなってしまう。限られた時間の中で、愛し合い憎み合い、傷つけあい助け合う、むなしくも神秘的なもの。

    貴方の文章を読んでいると、柔らかく温かい人間のいのちを感じます。

    vulnerableなご自分と向き合ってこられた貴方は、自然、人の傷つきやすさを大切にすることができるのだろうと思います。

    貴方の文章には、弱さだけが持つ力強さと美しさがあります。

    そんな貴方ご自身を、どうぞお大切に。

    時節柄、どうかご自愛くださいね。

    • 小夜子さん、こんにちは。

      あなたには度々、何度となく申し上げてきましたが、僕の拙い文章に時折小夜子さんがくれるコメントは、「コメント」というよりもはや

      「独立した文章」

      として発表したほうがいいのではないかと、いつも思っています。

      でもあなたのなかにある想いが、そうやって外に表現されるのに、僕の文章が「触媒」として少しでも役立っているのなら、それは計り知れない喜びです。

      本当に、ありがとうございます。

      「インターネット上の、匿名の、数あるサイトのひとつ」

      という、決して強固とは言えない場所でつながっている「だけ」のはずの関係性から、僕自身想像できもしなかったほどのしなやかで芳醇なものが確かに生まれているということ、そこに僕にとって、確かな「希望」があります。

      いつものことながら簡単には言えませんが、小夜子さんもどうか、少しでも和やかにあれますように。

      どうぞ今年もこれからも、よろしくお願いします。

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