「生きる権利」は誰にでもあるけど、「それを言わないといけないひと」と、そうしなくていいひとがいる

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彼に陽は当たっていない

僕はここを開設した当初から、僕が「四つ這いおとな」で、特にからだがうまく動かせないということ、そして社会的には「障碍者」であるということを基礎においたうえで書き続けてきた。それは基本的にずっと

自分が感じたことを、書きたいことを、書きたいように書く!

という原則に従ったものだけど、それが最初の僕の想定よりはずっと多くのひとたちに読まれるようになってからはなおさら、僕に対して、

また障碍者が生きる権利ばっかり主張してる!

っていうような意見を伝えてくるひとがけっこういた。だからこのことは折に触れていろいろ考えを巡らせていたんだけど、そのなかでようやく少しだけ、見えてきたことがあった。

そもそも、僕はそんなに「生きる権利ばっかり主張してる」のかなぁ?

こういう感想が書かれたコメントやメールとかを見るたびに、まず僕が感じたことは、

そもそも、僕はそんなに「生きる権利ばっかり主張してる」のかなぁ?

っていうことだった。公開コメントでもらったもののなかでも、いくつか思い出深いものはあるけど、たとえば

『アリとキリギリス』のお話なんて、もう言うまでもないくらい有名だ。でも今日はこのお話について、少し考えてみたいと思う。 このお話のいちばん...

に「山田太郎」さんがくれたコメントなんかがそのひとつだ。このやり取りは、山田さんの

色んな人がいた方が面白い、というのは常に一方的に助けてもらう側が言う言葉じゃないと思いますけど
そして芸術と「遊んで暮らす」は全然違いますよ

いいこと言ってる記事もあるのに、結局は普通高校にねじこもうとしたり、やっぱりそういう人なのかなあと残念です
普通高校で「お世話」をする同級生の負担を考えてないで希望したことに違和感を覚えました。 「お互い様」ではないですよ?あなたは一方的に助けられて生きていく人生です。

っていうコメントから始まっているんだけど、このあとのやり取りでもほとんど埋まったように見えなかった「ズレ」も含めて、すごくいろんなことを考えさせられるものだった。

でも僕はやっぱり、自分では

「生きる権利ばっかりを主張してる」

っていう感覚はなかった。このキリギリスの文章にしても、

僕としては、こんな社会(価値観)がもっと広まっていたほうがいい

っていう気持ちはあるけど、それは

「自分の生きる権利」

っていうものを個別に主張しているというよりは、むしろ

こんな世界のほうが、誰にとっても生きやすいんじゃないかなぁ?

っていう感覚を伝えたという感じだったんだ。でも、こういうことを何度か受け止めている間に、僕のなかでだんだんと違う「観点」が、生まれてきたんだ。

「なにを言っているか」よりも「誰(どんな社会的立場のひと)が言っているか」のほうが大きく影響することがある

それは、

これってもしかして、「僕がなにを言っているか」よりも、「なんかいろいろ言っているこのひとは誰(どんな社会的立場のひと)なのか」のほうが影響してるってことなの?

ってことだった。だからあるひとが、

障碍者っていうのは、結局自分の生きる権利だけを主張するヤツらなんだ!

っていう思い込み(先入観)を持っていたとしたら、そのひとには

「このひと(僕)が障碍者だ」

という事実が、なによりも力を持つようになる。そして究極的に言えば、

「ただ僕が生きている」

というだけで、それを

またコイツも生きる権利を主張しやがって!

って思うようなひとも、出てくるということなんだ。

誰も、「生きる権利を主張したい!」ということを、思ってるわけじゃない

ここまでを踏まえたうえで、僕にはやっぱり

「自分の生きる権利だけを主張してる」

っていう感覚はない。だけど、確かに僕は

今の社会は僕にとってはぜんぜん生きやすくないから、それをなんとか少しでも、変えてみたい!

とは思っている。そして、それはどんなに

「そのときどきに感じたことを書いた」

としても、詩や物語とかのかたちで表現したとしても、その底に流れているものとしては、在り続けているとも思う。だからその意味では、「それだけ」が目的ではないし、そのことだけを全面に押し出しているわけではないとしても、僕も

「自分の生きる権利を主張している」

という面が、あるんだとは思う。

だけど、僕は別に、

自分の生きる権利を主張してやりたい!

と思って生きているわけじゃない。っていうかそんなひとは、まずいないと思う。でもそれでも、生きる権利について考えることや、話し合いたくなるときは、確かにある。そしてそれは、

「生きる権利を主張している」

というよりもむしろ

自分にも生きる権利があるんだっていうことを「信じたい!」

っていう感覚なんだと思う。

そしてこの「信じたい」っていう感覚は、やっぱり

自分が信じないと、自分が生きられないもん

っていう感覚が、どこかにあるんだと思う。そしてそれはどこから来てるのかと言えば、実はすごく単純な、素朴な感覚なんだって、改めて気づいたんだ。

社会には「生きる権利なんて言うまでもなく認められているひと」と「周りから生きる権利を疑われている(と感じられる状況にいる)ひと」がいる

そもそも

自分にも生きる権利がある!

なんてことを考えたり伝えたりしたくなる状況っていうのはどんなときなのかって考えたら、それはやっぱり

自分の生きる権利が、生きている有り様が、周りから自然に認められて、受け入れられているって思えないとき

なんだと思う。もっと言えば、

このまま行くと、いずれ自分の生きる権利は、周りのみんなから否定されちゃうんじゃないかなぁ?

っていうことを感じたときに、

「生きる権利」

っていうのが一気に切実なものとして、立ち現れてくるんだと思う。だからもし誰かが、「自分の生きる権利」なんてことを主張することも、そもそも考えることもないでいられるとしたら、そのひとはしあわせだと思う。これはひとつのたとえだけど、

「若くて健康でお金も充分に稼いで税金もたくさん納めているようなひと」

の生きる権利は、別にわざわざ「主張」しなくても、

「当たり前にあるもの」

として社会が、認めてくれる。だからわざわざ「自分で」考えたり主張する必要はない。でももし逆で、

「老いていて病気でお金もなく、税金もほとんど納めないまま生活保護を受けて暮らしているようなひと」

だったら?そのひとの「生きる権利」は、

「みんなが当たり前のものとして疑問もなく受け入れているもの」

だろうか?僕はそこまで楽観視できない。だけどもっと大切なことは、

自分の「生きる権利」を周りが当たり前のものとは思っていないような状況でも、生きているひとはいる

っていうことだ。そして、

今はそういう状況にいなくても、いずれは誰でも、そういう「状況」に置かれる可能性がある

っていうことも、すごく重要なことだと、僕は思う。

ほんとは、「誰も『生きる権利』なんて考えなくていい社会」が、理想なんだと思う

だから、僕は確かに、自分の「生きる権利」について考えている。だからって

お前は自分の生きる権利を主張してばっかりだ!

と言われてしまうのは変わらずに心外だけど、ある意味ある見かたをすれば、そういう意見も完全に間違っているとは言えないと思う。そして

今の社会は、僕にとって自分の生きる権利を考えなきゃいけないような社会だ

っていうのも、確かな事実なんだ。

でもだからこそ、僕はほんとには、

誰も「生きる権利」なんてものを考えなくていいような社会が、理想なんだ

とも思っている。そんな社会では、みんな誰でも「当たり前」に生きて、支え合えるってことだ。そして当たり前のことは、考える必要がない。そんな日が来るようにできることをし続けたいなぁって、そんなことを考えながら、僕はここで、今日も、生きている。

コメント

  1. 青い彗星 より:

    初めまして
    自分は車椅子使用の障害者です。
    いつもは見ているだけですが、コメントさせて下さい。

    山田さんとのやりとりを見た上で思った事があります。

    四つ這いさんは理想論を、山田さんは現実論を、語ってるんだと思います。
    つまり四つ這いさんは障害者でも暮らしやすい国になる事を信じる、山田さんはいやいやそんな事を言われてもねぇって感じだと思います。

    病気でお金も無く、税金も払ってないような人でも生きる権利はあると思いますが、詰まる所、毎日寝て起きてご飯がある程度あれば生きられると考えれば生きる権利としては充分だろうと思うわけです。
    それが生きる権利なら多分最後の最後までは大丈夫だと自分も思いたいです。
    問題はその先、例えば病気でお金も無く、稼げないし、税金も納めてない人でも何か欲しいと考えるとします。
    人間ですから当然です。
    でもそこまで行くと「税金で食わせてやってんのに何贅沢言うんだ」ってなると思います。

    今は健常者も貧しくなってる時代ですし、税金もどんどん上がってくので納得出来ない使い方をされればどんな人も怒ります。

    自分の場合はまだ働けてますが、仮にお金も無く税金を納められなくなれば肩身は相当狭くなるだろうなぁと思います。これは本当にどうしたらいいか…。

    現実を見て語ってる人に理想を語っても中々理解されませんね…。

    生活保護で「最低限の文化的な生活」が保障されてますが、定義については書いてないのでみんなバラバラなんですよ。だからまとまらない訳ですね。

    • 青い彗星さん、こんにちは。

      そうですね、確かに僕は「理想」を持っているんだと思います。それは

      「『どんなに現状がひどく見えて、実際にひどいんだとしても、それは少しずつでも、よくなっていく可能性がある』ということを、信じる」

      と言い換えてもいいと思っています。

      そしてあなたが

      仮にお金も無く税金を納められなくなれば肩身は相当狭くなるだろうなぁ

      とおっしゃるのは結局のところ、

      「誰か(自分)の価値」

      「そのひとが生み出したお金の量」

      とあまりにも強く結びつきすぎていることにひとつの大きな要因があることは、おそらく間違いないと思います。

      「生活保護」というのも結局は、

      「金銭支給」

      なわけですし。

      これは本質的に「健常者/障碍者」という区切り(対立)なんかにこだわっている場合ではないもっと大きな問題だと思っているのですが、だからこそ僕も僕なりに、ずっと考えていこうと、そう思っています。

  2. twinhorse より:

    相手が何をどう解釈しようと自由で、それは自分も同じと思っています。
    四つ這いおとなさんと同じ?

    目的が相手の論破だと解釈した場合、議論はそこで強制終了しています。(相手を論破したいのは自分の方だったりする事もあります。)
    相容れない議論であっても、相手の愛情を感じる限りは、議論を続けています。もちろん、相手から強制終了される事はあります。
    議論の目的が論破で無い限り、例え時間が(場合によっては十年単位で)掛かっても、何らかの前向きな結果を得る事が多いと、経験的に感じています。

    • twinhorseさん、こんにちは。

      そうですね、自分の意見を「発信」した瞬間から、それは他者の「解釈」を受ける可能性があることは、当然受け入れなければいけないと、僕も思っています。

      ただそのうえで、僕は誤解されたいわけでも相手を誤解したいわけでもないので、時間はかかっても、そして完全にはできないことであっても、少しずつ少しずつでも相手と理解を深めていけたらと思っています。

      ですからその意味で、少なくともこちらから話し合いを「強制終了」することだけはせずに、その場とその心だけは、保ち続けていたいと思います。そして僕にとって、ここがそんな「場」になれていることは、とても嬉しいです。

      これからも、よろしくお願いします。

  3. twinhorse より:

    私は、まだまだですね。
    分かり合えない相手なら、存在自体の否定に全力を注いでいた若かりし頃と比べると、今は分かり合おうとする気持ちを感じる限りは、ぶつかり合っても関係を諦め無い様になったのは、時間は掛かり過ぎたけど、良く成長したなぁ。と自分に満足しています。
    更なる成長課題は、相手のいかんを問わず、他者との関わりの中でいかに相互成長できるか?だと捉えています。

    今後も、ブログを楽しみにしています。
    ありがとうございました。

    • ええ、思ってはいても実践するのはとても難しいですが、「相手を否定」するのでも「わかり合うことを諦める」のでもなく、お互いにいい影響を与え合いながら成長できるような関係を創り、育んでいけたらと、僕も思っています。

      僕が僕の書きたいことを書いているだけにもかかわらず、楽しみにしてくださって、本当にうれしいです。

      こちらこそ、ありがとうございます。

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