あなたじゃなくても書ける文章より、あなたの想いが詰まった言葉を聴きたい

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暗闇からの脱出

「読まれる文章」っていうのは、どんな文章だろう?

こう考えると、いわゆる「文章力」っていうものが重要だってことはきっと間違いない。だけど、それと同じくらい、あるいはそれ以上に重要なことがあるとも思う。

それは、どれだけのひとが、そこに興味を持ってるか?ってことだ。

「みんなの関心」に寄せるか、「自分の想い」に寄せるか?

これは前にも紹介したものだけど、僕がこれから書くことに大きな影響を与えた文章がある。それがこれだ。

結局、母数のでかい話題が読まれるわけですよ。

(中略)

最大限効率よく「読まれる」ためには、扱っている話題が「だれもが知っていること」であるのが望ましい。あるいは「俺しか知らないこと」が「だれにでも関係ある」という方向性。とにかくなんらかのかたちで「みんな」にフックしないと一定以上は伸びません。

ところが「書く」ということの動機は、むしろ「みんな」とは関係ないところからやってきます。

俺には昔から「書かれた言葉は、だれにも共有されなかった言葉だ」という持論があります。言葉は、それが発せられた瞬間から共有を望むものだと思っています。そして、共有された言葉は、解脱というか頓悟というか、とにかく共有された瞬間に成仏するのです。そのタイムラグは短ければ短いほどいい。そう考えると「書く」なんてのは実に迂遠な行為です。共有されなかったことへの恨みそのものだといってもいい。

そうして「書く」という行為は、いつだって私的なものです。

まあここではあえて「書く」という言葉の意味を狭義でとらえています。「俺にとっては」くらいの狭義ですね。実際には単に「文章を書く」っつっても無限の広さがあるわけで、この「書く」は「表現する」とかに言い換えたほうがいいかもしれません。

ただ、個人のブログっていう形式で「書き続ける」っていうことなら、やっぱりその動機は「共有されなかった言葉を成仏させてやる」みたいな部分ってあるんじゃないかと思うのです。

こちら読んだ。 言及のしかたが雑なことで定評があるMK2ですおはようございます。今日は家に帰ったらうさぎが勝手に小屋から外出しており、えらいことになっていました。なぜうさぎに限らず、動物というものは脱走してるのを見つかった瞬間「しまった見つかっちゃったヨ」みたいなテヘペロ顔をするのか俺は聞いてみたくてたまりません。ち...

ここで書かれていることに、僕はほとんど一切の反論がない。そしてここで提起されている問題は結局、

「みんなの関心」に寄せるか、「自分の想い」に寄せるか?

っていう、二択に行き着くんだと思ってるんだ。

「みんなの関心」に寄り添うなら、そんなに「自分」は必要ない。っていうかむしろ、邪魔にすらなる

ここでみんなの関心に寄り添うっていう道を選ぶと、そんなに「自分」は必要ない。それよりももっと重要なのは時流(トレンド)に乗って、あふれてるいろんな情報を、器用にまとめることだ。

もちろん、まったく自分が要らないかというとそうじゃないと思う。でもそれは、

今ご紹介したカメラのうち、僕も実際にこれを買ってみたんですが、こんなところが予想を超えてよかったところで、逆にここは少し予想外に残念でした。参考にしてくださいね

くらいなものではあっても、それ以上だと読者の選択の邪魔になる。っていうか、それ以上の「理由」があるんだったら、最初から選択肢を省いてあげたほうが親切だ。

だからここでの書き手の立ち位置は、情報編集者(演出家・ディレクター)みたいな感じなんだと思う。彼らはいわば執事、あるいは黒子みたいなものだと言っていいのかもしれない。でもそうやって自分が「従者」になることで、読者を「主人」として、満足させることができるんだ。そしてそれも、確かな「技術」ではある。

だけど「自分」を出していくってことは、自分が「主人」になるってことだ

でもこの一方で、「自分の関心」に寄せていくってことは、自分が「主人」になるってことだ。これは言ってしまえば、「相手に寄り添うことで、相手の欲求を満足させてあげること」をしないってことだ。

だからみんなが好きなものでも、自分が嫌いなら嫌いだと言う。逆にみんなが嫌ってるものでも、自分が好きなら好きだと言う。これは、数になびかないってことだ。それなら必然的に、母数は小さくなっていく。

もちろん、これをこそ「文章力」で補うことはできるだろう。でも大前提として、

自分のやりかたは不器用で、非効率的だ

っていう認識くらいは持っていたほうがいい。だってそれが、揺るぎない真実だからだ。

さらに、

あくまでも、主人は自分だよ!

ってことを表明し続けるってことは、読者に強烈な「抵抗」(違和感)を感じさせる危険もある。

だってみんなほんとは、「自分が読みたいものを読みたい」んだから。

特に今のような時代には、それが強まってると思う。だから

書きたいものを書きたい!(主人は私だよ!)

読みたいものを読みたい!(いや、主人は俺だ!)

っていう対立は、簡単には解消しない。っていうか究極的には、永遠に解消しないかもしれない。

そして実際、僕も自分の書いたものに強烈な反発を食らったことも何度もある。そしてそのうち公開でもらったものについては、今でも残してある。たとえば

よくもこんな文章を書いてくれた。

みたいないものをよくも見せてくれた。

ふざけるな。

私は世界がいつからこうなったのかを知らない。それにどうしてこうなったのかなんてわからない。だってそんな何百年も前の歴史をさかのぼってる時間な...

なんかはけっこう強烈だ。あと前に書いた

神奈川の障碍者施設で起きた事件から時間が経って、いろんなひとがこのできごとに言及するようになってきている。そのなかでも特に代表的なも...

を自由ネコさんが紹介してくれたときに間接的に付いたコメント、

四つ這い大人は負のエネルギーが記事に満ちすぎていて無理。そのあとだいちゃんの記事を読んで救われた。だいちゃんはすごいライター。

なんかもスマッシュヒットだった。

だけど、「自分を出す」っていうのはこういうことだ。そしてそれに耐えきれなくなったひとは、消えていくことになる。それは哀しいことだけど、責めることはできないだろう。だって、生身になればなるほど、世間の風は、冷たすぎる。

しかも母数が少ないってことは読まれにくいってことで、それは結局サイトから得られる収益(広告収入)にも直結する。だからこう考えていくと、こういう在りかたは、ほとんど全面的に割に合わないと思えてくるし、実際そのとおりだろうとも思うんだ。

それなのに、なんで自分を出すの?

じゃあなんで、それでもなお「自分」を出そうとするんだろう?そして僕も前から

昔「24時間残念営業」ってサイトがあった。最初に読んだ文章がなんだったかは憶えてないんだけど、それからちょこちょこ読むようになった。でもその...

なんて言い切ってるけど、なんでこんなことを続けてるんだろう?

単純に

バカなの?

って訊かれたら、自覚はあるから否定できない。でもそれでもやっぱりそこには「理由」もある。それは、

自分に近いひと(話し合えるひと、支え合えるひと)を探してるから

だって言えると思う。だから僕は、この理由に最も適した(と思っている)手段を採ってるだけだ。そしてそれは今のところ、なかなかうまく行っているとも思う。それにある部分では、予想を超えているとも思う。だから僕はそのことについては、率直に嬉しいと思っている。

このサイトは「しあわせになるための情報サイト」じゃない。「しあわせを感じられないひとが生き抜くための方法を模索する場所(記録)」だ

そしてこんなことは、前にも

「感動が安くなった」なんて表現がある。それは今の時代のひとがあまりにもすぐ、感動しました!とか、一生心に残ります!な...
このサイトに最初の文章を書いたのは3月6日だと記録されている。だからもうすぐこの『四つ這いおとな』は初めてから5か月を迎えようとして...

なんかで触れてきたことだ。だけどそれを今の最新の僕の想いと照らし合わせて補足するなら、

このサイトは「しあわせになるための情報サイト」じゃない。「しあわせを感じられないひとが生き抜くための方法を模索する場所(記録)」です

って言えると思う。だからここが必ずしも

しあわせになりたい!

というひとのために役立つとは言い切れない。実際、ほとんど役に立たないかもしれない。だけど、少なくとも僕には役立っている。

ってことはつまり、あなたが僕のようなひとだったら、この場所は必ず役に立つ。この「母数」はあまりにもちいさい。だけど、それでいいんだ。だってここは、「他の誰の言葉でも(完全には)救われなかったひとが、自分を助ける(生き延びさせる)ために、創った場所」なんだから。

だから、ほとんど誰も読まないような詩も書く。どんな受け取りかたをされようが自分の想いを書く。そしてたとえ相手がもうそこにいないとしても、意図してない伝わりかたをしていたらできる限り補足して、わだかまりをほぐせるように努力する。それが、僕が生き延びるために必要だからだ。そして、僕が笑っているためには、あなたが必要だからだ。

だから僕はあなたにも、あなたをもっと見せてほしい。誰にでも書けることなんか書かなくていいから、あなたの想いが詰まった言葉を聴いてみたい。でもお願いするなら、まず自分からだ。だから僕は、これからも伝え続ける。そして聴き続ける。そうやってずっと、あなたの傍にいる。

最近読んだもので特に心を動かされた文章でした。50年後くらいにもまた読みたいです。

私たちは色々な幻想に生きています。皆誰しも年を取っていく。老いていくことは、とても怖いですよね。私の祖母も例外ではありません。そんなあなたへの手紙です。

そして、これも。このひとのトリックスターぶりは、まったくすごいと思います。

あくまでも個人的な「自論」なんで。 異論はあるでしょうが、まぁ落ち着いて聞いてちょうだい。 小池栄子最強説。

コメント

  1. 小夜子 より:

    四つ這いおとなさん、こんにちは。

    私にとって「読む」という行為は、自分以外の誰かがこの世界に確かに生きていることを知る、とても大切な機会です。

    単なる情報収集ではなく、書き手という人格との(私の中で、かもしれませんが)交わりの機会でもあります。

    私自身は、いつもコメントで長文を書きなぐっていてなんですが、実は「書く」という行為はあまり得意ではありません(「話す」に至ってはとんでもなく苦手です)。

    「読む」ことによって、誰かの文章・人格に接することによって、私の中にもともとありながら形にならず自分自身気づいていなかった思いや事柄が、だんだん「言葉」を与えられ、こうして書いています。

    だから、私のコメントは、もしかしたら「ずれて」いるのかもしれないな、とも思います。それでもこうして書いてしまうのは、この「場」なら拙い私も受け入れてもらえるという安心感、飾ったり誤魔化したり嘘ついたりしないでいい場所だという安心感があるからだと思います。

    それは、書き手である貴方が、飾らず誤魔化さず、誠実に、ご自分の思いを丁寧に書いてくださっているからです。貴方が、ご自分の人生を真摯に生きようとしているからです。貴方が、分かり合いたい、尊重し合いたい、伝え合い、共有し合い、生き合いたいと思い、正直に書いてくださっているからです。まさしく

    文は人なり

    です。

    生きること、死ぬこと、人間の存在…長い時間多くの人が知恵を絞ってきたことだけど、唯一無二の絶対に正しい答えは出ていないですね。生き方にも正解があったらずっと楽かもしれないけれど、それを描いたディストピア物語を読むと空恐ろしくなります。だから…考えながら、模索しながら、傷つきながら、それでも自分自身と人生と世界を肯定し生きようとする姿勢、その歩みのプロセスを、こうして貴方の文章という「場」で触れることができるのは、大きな励ましです。

       ああ、こうして生きてる人がいる。
       
       そうだ、私も生きよう。

    言葉にすると月並みですが、私の心に強くなる思いです。

    無理してでも書けとは申しませんし、言う資格もないですし、思ってもいないです。あれを書けとかこれを書くなとか、書き方について注文つけたりもするつもりはありません(もし私のコメントがそのような要求をしているように感じられたら、私にその意図はありませんが私の書き方が悪く誤解を与えてしまったのだと思います)。ただ私は貴方がこうして書いてくださっていることに感謝したいですし、御自愛しつつこれからも書いていただきたいと思っています。

    寒さ厳しい折ですが、どうぞご自愛くださいね。

    貴方のしあわせと笑顔を祈ります。

    • 小夜子さん、こんにちは。

      僕は僕にできることをしているだけですし、これからもそれしかできませんが、僕が微力でもあなたの素晴らしさを引き出すために役立てているなら、とても嬉しいです。

      これからも一緒に生きていきましょう。

      そのことが僕のしあわせと笑顔を、確かに育んでくれるんですよ。

      そして僕もあなたのしあわせと笑顔がほんの少しでも増えることを、いつも心から願っています。

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