死にたいなら、ただ待っていればいい。でも生きていたいなら、それを選ばなきゃいけない

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葉っぱに止まるハチドリ

こないだ、ハチドリちゃんが僕にも投げかけてくれた文章を手がかりに、安楽死(尊厳死)に改めて向き合って、想いを書いてみた。

僕は今までここで何度も、「自殺」についての考えを巡らせてきた。そしてその折に触れて、それを文章にして率直に伝えてきた。すべて挙げていくと...

そしたらさらに投げ返してくれたから、また投げ返したい

そしたらハチドリちゃんは、それにさらに想いを投げ返してくれた。

死の現場を見て、死について語ることはなかなかありません。実際、がん治療を受けた「若者」の私にも、現場を目の前で見たことはありません。 見たことがあったとしても、多くの場合トラウマとなり、思考停止につながってしまいます。 死について考えることは、これからの日本、生きることはなにかを考えていくことに繋がります。 勇気を持っ...

それで僕もまた1歩深く、自分の想いと向き合うことができた。だからそれを踏まえて、もういちど投げ返したいと思う。

僕たちは今生きている。でもいのちのデフォルト(初期設定・当たり前)は、「死んでいくこと」にある

こうやってみんなの助けも借りながら自分の想いの奥に潜っていくと、僕のなかにあるひとつの「核心」(確信)にたどり着く。それは、

いのちのデフォルト(初期設定・当たり前)は、「死んでいくこと」にあるんだよね

っていうものだ。

僕は確かに、今生きている。そしておそらくは僕だけじゃなく多くのひとが、「今」の状態を基準(デフォルト)として未来を考える傾向にあるんだと思う。

だから、今が心身ともに活発で、不安もないひとは、それを基準にして考える。だから、その健康や精神的安らぎが失くなったあとのことを想像するのは、なかなか難しい。じゃあ逆に、今がつらくてどうしようもなく苦しかったら?それを基準に人生の終わりまでの未来を想像する。その結果、自殺したいと考えたり、実際に自殺してしまったりするのかもしれない。だけどこの両者は、どちらも、「今、自分は生きている」という基準から出発していることだけは共通していると言える。

だけど、僕の場合はそうじゃない。たとえいつもいつも意識の表層に出てきているわけじゃないとしても、自分の内面に深く潜り込んで見てみると、そこには常に、死が意識されている。それは前に

昨日、僕が『ブラックジャックによろしく』を読んで感じたことを書いた。ただそこで紹介したあの作品の第3巻が出たのは今から10年以上も前...

とかでも書いたように、僕が生まれた瞬間から死にかけていて、医者からは

この子は99.9%助からないと思っていてください。もちろん全力は尽くしますが、あとはこの子の生命力次第です

って言われていたこと、それにある日

今夜が峠です

って言われて、それを乗り越えたらまた次の日にも

今夜が山です

みたいなことを何度も何度も言われていたことを聴いているから、なおさらだと思う。それにこれはもちろん記憶のない頃の話だけど、物心がついてからでも、僕はちいさい頃は今よりもっと病弱で、1か月に1回くらいの頻度で風邪を引いていたし、そのうち何度かは「40度以上」の熱が出たこともあった。そのときはいわゆる「熱性痙攣」っていうのが起きるんだけど、これは自分でもかなり怖い。意識も朦朧とするし、自分の涙すら熱く感じるくらいで、強烈に「死」を意識することだった。

それに僕は、手術のときに「全身麻酔」を受けたこともある。あれは一種の死だと思う。強制的に意識を失わされて、そのあとからだのあちこちをいじられる、っていうのは、たとえそれが自分自身のためになるとわかっていても、かなり怖い。しかもそれが、

もしかしたら、そのまま死んじゃうかもしれない……

っていう可能性がないとは言い切れないのならなおさら、その恐怖は根深い。それに、前に

今はいろいろなメディアがあるけど、そのなかでも大きく取り上げられるニュースっていうのはだいたい共通している。それは単純に言えば「衝撃的なでき...

のなかでも少し触れたことだけど、その手術をしたのは1999年4月、世間が「ノストラダムスの大予言」に少なからず翻弄されていた、まさにあのときだ。

だからやっぱり、僕にとって「死」っていうのは、あまりにも身近にありすぎた。そして今でも、毎日のからだの痛みや不具合が、僕にその香りを与え続けている。だからそれは、僕の心、そしてそこから生じる死生観からは切り離せない。

だけどそれは、僕が特別だからなんだろうか?そんなことはない。ほんとはみんな、死んでいくことが当たり前なんだ。それは、「生きられる状況でも死ぬことはできるけど、死ななきゃいけないときにはどうしても死ななきゃいけない」という事実からも明らかなことだ。だから僕は、この基本的な認識を変えることはないと思う。

死は不可逆的現象だ。だからただこれだけでも、最期まで生きてみるに値すると思う

じゃあこれを踏まえたうえで、なんで僕が安楽死に反対するか?細かい理由はこないだの文章にも書いた。だけどそこにさらに付け加えるなら、「死は不可逆的現象だ」ということ、これもとても大きいと思う。つまり、生きてみてから死ぬことはできる。でも、死んでみてから生き返る(生の世界に復帰する)ことはできない。そしてこないだも言ったとおり、強烈な痛みや苦しみは、判断力を鈍らせ、ほんとの思いを曇らせるものだ。だから僕は、そんなときの自分に、まさしく一生を左右する決断を委ねたいとは、どうしても思えない。そしてそれは1度行われたら、2度と取り消せない。

だから、あまりにも苦しいからとりあえず死んでみようか!

なんてわけには、絶対に行かないんだ。

生まれ変わりがあるじゃないか?

って?なるほど。でもたとえそうだとしても、僕がこの「今の僕」であることができるのは、今(回の人生)だけだ。だからやっぱり、死が不可逆のものであることには変わりない。

じゃあパラレルワールドなら?

なんて、どこまでも深まっていく話は(とりあえず)割愛するよ。しかも僕は同時に、こうも思ってる。

完璧な意味でやり直しの利く人生なんて、つまらないでしょう?そんなの、ゲームと同じじゃん!

ってね。だから僕は、こうやって1日1日、大切にしながら生きていく。無駄にするのだって、いのち懸けだ。

死はなんだかんだ言って一瞬だ。でも、生はそれよりずっと長い。だったらどっちの質を優先すべきかは、わかりきってる

だから生きていくことは死んでいくこととも言える。より厳密に言えば、生はそれ自体がいつも死を孕んでいる。だけど、そのなかでもほんとの意味での最期の最期の「死」は、一瞬でしかない。でもそれに対して、生はずっとずっと長い。僕も既に20年以上は生きてきたし、確率と統計から言ってあと数十年は生きると思っておくのがいいと思っている。だったら、生と死、どちらの質を優先すべきか、答えはわかりきってる。

尊厳と安楽を与えるのは、死よりもずっと先に、生のほうであるべきだと思う。まず生の尊厳と安楽を作ってから、死のことを考えたらいい。でも生が尊厳と安楽に満ちたものになれば、安楽死なんか必要ない。だから僕は、その考えに基づいて生きてるだけなんだ。

正直に言えば、僕は今日死ぬことよりも、10年後を生きるほうがずっと不安だ

だから僕に言わせれば、あなたが今死にたいんなら、その願いは必ず叶う。ただ待っていればいいだけだ。それだけであなたは、確実に死ねる。言ってしまえば、10日間くらい飲まず食わずでいれば、それだけですぐ実現する。でももし生きていきたいんなら、それは常に「決意と選択」を必要とする。そうしないと、僕たちは確実に、死に引っ張られていくからだ。

でもさらに正直に言えば、僕は別に今日たとえば事故に遭って死ぬことはそんなに怖くない。それは死にたいからじゃない。「いつか必ず来るはずのものが、今日来ただけのこと」だからだ。だけど僕がそれよりもずっと怖いのは、10年後を生きることだ。その頃の僕は、今よりもずっと弱いかもしれない。その頃の社会は、今よりもずっと冷たいかもしれない。だけどそれでも僕が生きていたいなら、そこで生きるしかない。それは今日死ぬことより、ずっと怖いことだ。

だけどそんなの、ほんとはおかしいんだよ。それに僕は、もし生きてられるなら、できる限り生きていたい。そしてそのなかから、たくさんの喜びやしあわせを見出したい。だから僕は、これからも生きていく。そしてもし、あなたもそう思っているのなら、僕がまずなにより伝えたいことは、これだ。

あなたは決して、独りじゃない。

コメント

  1. 四つ這いおとなさん

    こんばんわ。またまた、ありがとうございます!

    しっかりと読みました。

    だけど僕がそれよりもずっと怖いのは、10年後を生きることだ。その頃の僕は、今よりもずっと弱いかもしれない。その頃の社会は、今よりもずっと冷たいかもしれない。だけどそれでも僕が生きていたいなら、そこで生きるしかない。それは今日死ぬことより、ずっと怖いことだ。

    怖いですよね。ここを読んだ後、私は涙がでました。

    障碍を抱えていない人、今まで健康に生きている人も、うっすらどこかで怖さを感じていて、

    そして、私自身も治療の大きな後遺症が、年をとった時にやってくるかもしれないと考えると、冷や汗がでます。

    未来が怖い。

    私達はどうなるんだろう。

    そして、四つ這いおとなさんの場合、私とは決定的に違うのは、生まれた瞬間から”死”が身近にありすぎる。こういう言葉が正しいとは思いませんが、「”キャリア”が、私よりある。」

    なので、生きていることがどれだけ意味があって、どれだけ勇気がいることで、どれだけエネルギーがいることかは、私より実感として強いと思います。

    今まで四つ這いおとなさんは、もうこれ以上必要ないんじゃないかと思うくらい痛い思いを心身ともにしてきた。

    だけど、生きることを選んだ。

    それは、四つ這いおとなさんの”強さ”です。

    死は不可逆的現象だ。

    そうですね。死は、取り返しがつかない。キャンセルがきかないものです。

    ※私は輪廻転生も、天国も”理性”の部分では信じていません。

    しかし、心では天国を信じています。というか、信じたい。(笑)

    私達には、人を殺せる権利がないのと同じくらい、

    人を殺させない権利は私達にはないとおもうのです。だからこそ、安楽死という権利を支持します。

    そして、安楽死という選択ができるからこそ、生きるという選択をすることで、心に強さを感じることは出来ると思います。

    「パラリンピックが終わったら安楽死を考えている」金メダリストの方に通じるものがあります。

    この方は、安楽死があったからこそ、生を選ぶことが出来たと、語っています。

    権利は誰にもないけれど、生きろって説得は出来る。

    そして、四つ這いおとなさんは、これからも、生きろ!って叫び続けるし、

    私も、”説得”し続ける。

    安楽死に対する考え方は、違うけれど、

    私と、四つ這いおとなさんの、”その行動”は変わらないと思う。

    質問です:

    まず生の尊厳と安楽を作ってから、死のことを考えたらいい。でも生が尊厳と安楽に満ちたものになれば、安楽死なんか必要ない。

    →そうなのです!その通りなのですが、

    例えば・・・がん末期はとても安楽といえるものではないと思えます。これについてどう思われますか?

    いつも、意見を聞かせてくれてありがとうございます!

    • ハチドリちゃん、こんにちは。

      僕は「安楽死」には反対の立場を採っていますが、緩和ケア(ターミナルケア)には賛成の立場です。

      そして、「延命措置をしない」という意見にも、共感しています。ただそれが、いくら痛みや苦しみがあるとはいえ、「死を人為的に早める」ことにはどうしても賛成できないということです。

      だから、たとえばがんの末期のような苦しみに対しては、いわゆる「ホスピス」なども含めた緩和ケアの推進によって対応できるようになったらいいと思っているのが、今の僕の立場です。

  2. 四つ這いおとなさん、こんにちわ!

    今回もフリートークでお願いいたします。

    ご回答ありがとうございます。

    ここで、やはりお話ししたいのが、痛みの緩和ケアではなくて、

    死期が迫っている人に対するターミナルケアについてです。

    死期が迫っていると判断されている人には、沢山の医療麻薬が投入されます。

    それは、”医療用麻薬で亡くなることがないように計算され”痛みを取り除くこと 

    とされているようです。

    人の命というものは本当に分からないものですから

    そのような処置をした結果、その時期を早めてしまったのではと悩む

    医療関係者の方もいらっしゃるようです。

    ここで私が言いたいのは、「痛みだけを取り除ける」という”綺麗な処置”は、難しいのでは

    という点です。

    私も、痛みさえ取り除くことできたら、安楽死なんて必要ないと思っています。

    でも、できない人もいる。出来ても意識がなくなる人が多いようです。

    勿論、痛みがしっかり取り除けて、意識も直前まではハッキリしている人も中にはいるかもしれませんが、

    繰り返しにはなりますが、やはり人の命は大変むずかしいということで

    ここからは、安楽死、ここまではターミナルケアとするのは、なかなか現場では難しいのでは?

    と勝手に考えています。

    安楽死反対者の方の多くは、医療関係者ということも聞いたことがあります。

    やはり、彼らは「命を助ける」ことを使命としているので、その使命に反することとなってしまう安楽死を支持できないという点にあるということです。

    私は、死に対してはどこまでも謙虚でいたいと思っています。

    人生様々・人の死も様々。

    死を感じたのは確かですが、それでもやっぱり分からないものです。

    分かっている人は、”この世”にいませんものね。

    ぜひご意見お聞かせください。

    • ええ、確かにその区分けは細かく見れば見るほど難しく感じられるものだと思いますが、今の僕のざっくりとした立場は、

      明らかに相手が死ぬことがわかっていて行う措置(安楽死)には反対だけど、あくまでも「安らかに死を迎えさせてあげたい」という意志に基づく行為(ターミナルケア・緩和ケア)には賛成

      というものです。

      それは端的に「ケア」という言葉に現れているとも思うのですが、根底に相手を「ケアする」(活かす)という精神があった行われるものなら、結果的に不測の事態によって相手が死んでしまったとしても、それは(遺族感情を考慮したとしても、少なくとも過度には)責められるものではないと思っています。

      一般論にするとややこしくなるので話を僕自身に引きつけますが、僕は僕自身を治そう(活かそう)という趣旨に基づく手術の結果死んだとしても、医療者を恨むことはないでしょう(強制的でないという前提で。それにもちろん、多少は哀しいと思いますが、恨みはしないということです)。

      けれどこれがもし、

      生きてるのはつらいよねぇ……。でもこちら(社会)としてはこれ以上どうしようもないから、あとはせめて安楽死するっていう道はあるんだけど、どうかな?けっこうみんなやってるみたいだけど……

      なんて言われても、断固拒否します。

      つまり結局は、「行為者の意志と理解のありかた」が問われるのではないかと、そう思っているわけです。

  3. こんにちわ!!

    いつもありがとうございます。

    それは、そんな事を言われてたら私だって

    断固拒否というか、、腹たちますね。

    勧められることもなく、でも選択肢としてはあるというような、リベラルな考え方で世界がいると仮定すれば、

    四つ這いおとなさんも、悪くはないと思いますか?

    それとも、やはりどこまでも反対ですか?

    私、四つ這いおとなさんが、反対している理由は、こんなにも勘違いして理解の低い状況だと、反対する気持ちはとても分かるんです。

    そして、痛みもターミナルケアでは取り除くことが出来ない人達には、どのようなケアが必要だと思いますか?

    よろしくお願いします^_^

    • そうですね、それは

      勧められることもなく、でも選択肢としてはある

      というのが、いったいどのような趣旨で用意されているのかによるかと思います。

      そして、「勧められる」というのには状況的・社会的圧力も関係あるということと、「選択肢がある」ということ自体が、既に多少の「賛意」を含んでいるということを考慮したいと思います。

      そのうえで、

      死についての決定は本人以外が決めるべきではなく、あらゆる選択肢を用意しておきたい

      というような趣旨なのだとしても、少なくとも僕自身は安楽死を選びません。

      その代わりに、

      生についての選択肢を、もっと増やしてほしい

      ということを言っておきたいと思います。

      そして2つめの

      そして、痛みもターミナルケアでは取り除くことが出来ない人達

      っていうのが、「たとえモルヒネなどでも緩和できないほどの圧倒的な苦痛」なのだとすると、あとはもう僕はただ静かに、そのひとの手を握っていたいと、そう思います。

  4. こんにちわ!

    うーん、私は安楽死に賛成ですが

    実際安楽死が許されている環境で、

    安楽死を選択するかという点は、

    また別の話なのです。

    去年の手術の痛みを取り除くための麻酔や痛み止めは、勿論、ターミナルケアに使われる物ではありませんでしたし、 もうそこのレベルは、実際経験してみないと分からないので、安楽死を自分で取り入れるかは、全く別の話です。

    なので、自分で選択するかしないかは置いておき、

    賛成かどこまでも反対か。

    賛成してもよいという世界は、どのような世界をお考えになるかなぁと。

    選択肢としてあるということが、既に賛意

    という点ですが、つまり、選択肢として存在すればそれは、強制にも繋がるとお考えですか?

    (勿論、今の日本の理解レベルだと、選択肢として生まれるのは大変危険ですね。正しい理解のために教育が絶対必要です。そのため、リベラルな世界を難しいかもしれませんが、ご想像頂いた上の問いかけとなります。)

    ターミナルケアとして、手を握られるというところですが、

    そこまでご自分(四つ這いおとなさんのこと)を痛めつけてしまう選択をされるのは、何がそうさせてしまっているのでしょう。

    ちょっと今回は、突いてくるような質問ばかりで申し訳ありません。

    理解したいのです。

    いつもありがとうございます!

    • ちょっと今回は、突いてくるような質問ばかりで申し訳ありません。

      いえいえ、こちらこそ、こうやってお話しさせていただくことで自分自身にもより深く向き合うことができて、とてもありがたいです。
      
      これは定義の問題とか、死生観の問題とかが様々複雑に絡み合っているものだと思いますので難しいですよね。

      ただ僕も考えながら、ひとつひとつ少しずつでも整理していけたらと思っています。

      つまり、選択肢として存在すればそれは、強制にも繋がるとお考えですか?

      「選択」はあくまでも「強制」ではないということ、これは僕も認識しています。

      ただそのうえで、

      「選択肢としてある」ということは「許容されている」ということで、それはつまり「したければしてもいい」という程度においては賛意を含んでいる

      ということだと思っています。

      これは結局

      してもしなくてもいいですよ

      という表現・姿勢であっても同じことで、これは僕にとっては、

      両方とも同じくらいには、賛成だということですね?(だからこそ、判断を委ねられているんですよね?)

      というふうに捉えられます。ですが僕はそのことに対して躊躇があるということです。

      それから僕は「自殺」についてはまったく澱みも例外もない否定派なのですが、「安楽死」についてはそれより若干だけ緩やかです。

      これはつまり、

      安楽死=自殺とは見なしていない

      ということで、だからこそ「ターミナルケア」はあっていい、というよりも積極的に採り入れられていいと思っているのですが、やはりそれが「安楽死」となると、話が変わってきます。

      だから結局それは定義上の問題も含んでいて、もしかするとそこを解いていくと僕とハチドリちゃんの間にはそれほど大きな差がないことを発見することになるのかもしれません。

      そして僕の定義は、先日も述べたように「意識」の差であって、僕がギリギリの局面において「手を握る」という選択をすると思うのは、自分がそうしてほしいからだと思います。

      またそれは僕にとって不必要な痛み(=そこまで自分を痛めつけてしまう選択)ではなく、生の痛みはいつも耐えるに値するものだと思っています。

      なぜそう思っているのかは、うまく説明できませんが、ひとつ言えることはこれは「信仰」というよりもう少し深いところにある、

      生きていたかったとき(生まれたとき)に死にかけていた(生きていたくても死ぬということがある)

      という事実に根差した感情だと、そう思っています。

      そしてここまで書いてぼんやりと自覚したんですが、

      僕はきっと、自分が自覚しているよりもずっと、この世界が好きなんだなぁ……

      と思いました。

      だからどんなかたちでもいいからここにいたいので、僕はなんとか1秒でも長く、生きていたいです。

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