僕は今までここで何度も、「自殺」についての考えを巡らせてきた。そしてその折に触れて、それを文章にして率直に伝えてきた。
すべて挙げていくと多すぎるけど、たとえば


とかね。
そして自殺の問題は「尊厳死」(安楽死)の問題にもつながっていく
そしてこういうことを考えていくと、話はそこからさらに拡がっていく。それはその原因となる老いとか病、そして経済問題や対人関係なんかにも及んでいくと同時に、いわゆる「尊厳死」(安楽死)の問題にもつながっていく。だからこの問題にも僕は強い関心を持っているんだけど、そんななかでこないだ、僕がこのサイトを通じて知り合った「ハチドリちゃん」が、こんな文章を書いていたのを読んだんだ。

安楽死はたぶんいずれは合法化される。だからこそ、僕は自分の想いを確かめている
文章の中段でハチドリちゃんは、
自死から目をそらさず、「最期の一呼吸まで、懸命に生きることを含めて生」とストイックになる必要なんてないと思う
結論から話すと、私は安楽死に賛成しています。
なぜなら、単純に最期までストイックになる必要はないと思っているからです。
まず、”尊厳死”と”安楽死”に大きな違いがあるのが現状としてあります。
そして、日本人の多くが”安楽死”に対して大きく誤解しており、
安楽死が認められている国にて、どのような審査の過程(条件)があるかが知らない人達ばかりが、安楽死について気軽にコメントをしています。
また、安楽死は「自殺だ!」と怒ったように言う人がいます。
自殺はとても悲しいことです。
そして、安楽死は確かに自殺です。
生きのびる・死ぬということを、勝ち負けに例えるのは嫌いですが、あえて使うと
人間誰しも最期は”負ける”のです。
想像を絶する痛みを経験して、それでも最期は”負ける”という、結論を変える事ができないことが分かっている場合、
その来るであろう痛みに怯え、抗うことを辞めて自殺=死期を早めることがそんなに、情けない・愚か・臆病なことだとは思えません。
批判を覚悟で書きますが、苦しむ人達の前で「ご先祖様に失礼」は、非論理的思考による発言です。
って書いてるように、安楽死に賛成する立場を明確に示している。そしてそこには異論があることも想定したうえで、自分の想いを伝えてくれている。それはとても、真摯な姿勢だと思う。
確かに、少数派から必要以上の反発を受けないための「説得」っていうのが不要だとも思ってない。だけどいざというときには多数決の原理に従うことになる議会制民主主義ならなおさら、基本的に説得っていうのは
このままじゃ自分の想いとは違う方向に行っちゃうよ!
って思ってるひとのほうに切迫した事情があるわけで、多数派の意見と自分の意見が一致してるなら、別に叫ぶ必要はない。だって、自分の代弁者は、いっぱいいるんだから。
こないだもこんなニュースを見たときは、なんとも言えない強い衝撃を受けました。

もちろん、僕だって全員の意見を確認したわけじゃない。それに現時点では、もしかしたらまだ少数派なのかもしれない。だけど前に

っていう文章を書いたときにネコさんがコメントでくれた意見や、実際に動き始めてる出生前診断、それにますます進んでいくと思われる高齢化、こんなことを総合的に考えると、いずれは日本でも安楽死(尊厳死)が容認される確率のほうが、ずっと容認されないままの確率よりもずっと高いと思ってる。
そしてだからこそ、僕はそんな社会をどう思うか、そしてそんな社会が来たときに自分はどうするか、よく自分を見つめてみようと思ってるんだ。
手術後の激痛と絶望はひどかった。でもあのときに死んでいたら、今の僕はなかった
ハチドリちゃんの文章には、こう書かれてる。
死ぬという行為は一瞬。しかし、そこまでに行き着く直前までの過程が恐ろしいです。
身体も動かせないような、想像を絶する痛みで苦しむのではないか。
外科手術3回と抗がん剤治療を経験した私は、あれ以上の痛みは想像できないからこそ、考えるだけで、私の目は大きく開き、背中に嫌な感覚を覚えます。
この恐怖を乗り越えることは、私は無いと思います。
ここで書かれてることを、僕なりに考えるとしたら、いちばん近いのは、やっぱり小学生の頃に最初の手術をしたときの気持ちだと思う。そのときの手術が終わって麻酔が切れると、少しからだを動かしただけで全身の8箇所から激痛が吹き出した。これはおそらく、僕の人生で最大の痛みのひとつだと思う。そしてもし、その痛みの極致のなかで、心がいちばん弱りきったときに「ラクになる薬」を渡されてたら、もしかしたらとっさに飲んでしまってたかもしれない。もしそうしてたら、僕も「安楽死」を迎えてたことになる。
だけど僕は、あのときそうしていなくてほんとによかったと思う。あれからの10年以上の歳月のなかには、つらく哀しいものももちろんあった。でも全体を通してみれば、それはやっぱり味わい深いものだったと思う。だからあのときの僕に、僕は心から感謝している。そしてもしそのときの自分に声がかけられるなら、僕は確かにこう言える。
今のあなたには未来が見えてないかもしれない。でもその「見えない未来」は、確実にあるんだよ!
ってね。
しかも、僕は率直に言って、もうそのときの「激痛」を憶えていない。わかっているのは「それはひどい激痛だった」っていう事実だけだ。だからあらゆる痛みは、やがてときの流れによって和らげられる。ましてそれが肉体的なものならなおさらだ。それは、確実なことだ。
僕は、最期まで生き抜いた自分が、いよいよの今際の際になにを言うのかを聴いてみたい
だけどこれでも、まだもう1歩踏み込みが浅いんだと思う。
もちろん、それすら痛みや苦しみに支配された、刹那的で反射的な言葉になってしまうかもしれない。でもそれでも、僕の人生の「集大成」であるその瞬間に、僕が世界になにを遺そうとするのか、そこに興味がある。そしてそもそも、僕がどんなふうに死ぬことになるのか、そこにも興味があるんだ。これがきっと、僕のなかのいちばん素朴な気持ちなんだろうと、今の僕は感じてるんだ。
こんなことを、誰か他のひとにやってもらうことはできない。
あなたが生きていた証は、僕の想い出として残る
ハチドリちゃんは、こうも言っている。
自分の最期を考えると、とても不思議な気持ちになります。
まず、自分という存在がこの世から無くなってしまうのが怖いのです。
あと100年も経てば、私を覚えている人はもう誰もいません。
私が大切にしてきた物は、どこへ行くのだろう。無残に捨てられて燃やされるだろう。
そうやって、私が愛する物達の行方を考えると、とても悲しいです。
私は病気で子どもを産めないから、私の”肉体の一部”をこの世に”残す”こともできない。
そして、私という存在がいなくなっても、世界は平常運転で周り続ける。
「自分は特別でもなんでもない」という悔しさに思い知らされます。
そしてもうひとつ、具体的なことを言おう。ハチドリちゃんは前、サイトのヘッダーをバーコードの画像にしていた。その理由は個人的なメールのやり取りのなかで少しだけ明かしてくれたんだけど、それはやっぱり哀しいものでもあった。
だけど今、そのバーコードはどこにもない。そして代わりに、ハチドリが女性の指先で歌っている。その女性が誰なのかは、よくわからない。ハチドリちゃんの自画像なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。ただその女性の表情には、やっぱりまだ憂いが残っているように見える。そしてそれは、まだまだずっと消えないのかもしれない。だけどそこにはもう、バーコードはない。それが僕にとって、とても嬉しい。そしてそれを嬉しいと感じているという素直な気持ちを、僕はここに書き残して、いつまでも伝える。それが僕の生きかただ。

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