あなたと「目を合わせる」ことができたら、すごく嬉しい

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森のなかの鹿

このからだで生きることでつらいことはいっぱいあるけど、そのなかでも強烈なものをひとつ挙げると、「目が合わない」っていうことだと思う。

四つ這いの世界でも車いすの世界でも、誰かと目が合う機会は、とても少ない

僕は普段家のなかでは基本的に四つ這いで生活してるんだけど、そこは床上数十センチの世界だ。だからほとんどのひとが2足歩行しているなかでは、誰かと目が合うことはとても少ない。

それにこれは、車いすに乗って外出しても同じことだ。車いすに乗ると僕の目の高さは1メートルちょっとくらいになるけど、それでも一般的な「おとな」のひとたちの目の高さには全然届かない。もちろん見上げれば目を合わせることはできるけど、自然に前を見ているだけでは、誰とも目が合うことはない。それってかなり、寂しいことだ。

「自分を飛び越して話される」っていうのも、やっぱり寂しい

それにこれは障碍者のなかでは誰もが経験するような「あるあるネタ」なんだけど、たとえば僕がヘルパーさんと買い物に出かけたとする。そのときに買うのが僕の生活用品で、最終決定が僕によって行われるものだとしても、店員さんは僕の後ろにいるヘルパーさんに向かって話しかけたりすることも多い。たとえ最初に話しかけたのが僕でも、いつの間にか相手が話してるのは僕じゃなくて「同行者」のほうに移っている。

もちろんヘルパーさんとかも

私は補助で来ているだけなので、本人と話してください

って言ってくれるけど、こういうことはまだまだある。それにこれは買い物じゃなくて、公共交通機関の駅員さんでも、美術館の受付でも、いろんな手続きの場所でも、よく経験することだ。しかも一緒にいるひとがヘルパーさんじゃなくて家族でもなんでも同じことが起こる。っていうかむしろ、家族だからこそ、

あなたに伝えたほうが、話が早く進みますよね?

みたいな感じで自然とそうされることが多い。もっと言うと、世間的にはまだまだ「ヘルパーさん」っていう存在は意識されてなくて、

障碍者をすぐ傍で助けてるなら、家族ってことだよね?

くらいに思われてるのかもしれない。もちろん、思い込みなんだけど。あと、

あなたに伝えたほうが、話が早く進みますよね?

っていうのは、特に耳の聞こえないひとや目の見えないひとの場合、さらに多くなるってことも言えると思う。

いずれにせよ、

自分に深く関わることが、自分を飛び越して話されるっていうことは、やっぱり
すごく寂しいことだ。

だからむしろこどもや動物のほうに親近感が湧くのも、自然なことかもしれない

だからそういう視点から考えてみると、僕がずっとこどもや動物のほうにより強い親近感を持っていたのは、自然なことかもしれないと思う。

だってこどもや動物のほうが、おとなよりずっと目が合うんだから。

やれ打つな 蝿が手をすり 足をする

なんて句もあるけど、目をじっと見ることができたら、それだけで相手への敵意(恐怖)はだいぶ和らいで、むしろ好意に変わるんじゃないかってがする。それはこないだ、

人生における初体験は緊張するものも多い。だけどそれはときには、まったく予測していないときに訪れるものだ。

っていう体験をしたときにも、実感したことだ。

だからこそ、目を見てちゃんと話してもらえるひとがいると、とても嬉しくなる

これはたとえば不意のちょっとした段差や坂を乗り越えたいときとか、ものを落としちゃったときなんかに、周りのひとたちに

助けてください!

って声をかけても、次々通り過ぎられていくときに感じる気持ちともつながってるものだと思う。こういう体験は前にもたとえば

僕の生活のなかでは、誰かに頼んでやってもらわないといけないことがたくさんある。でもそれがいつも気心の知れたひとたちとの間だけで済むとは限らな...

のなかで書いたものだけど、こういうふうに「誰も自分に目もくれないまま立ち去っていってしまう」っていう哀しさは、かなり強い。

でもだからこそ、そういうときに助けてくれるひとがいると、とても嬉しくなる。

それに助けてもらうときだけに限らず、僕と話すときに場合によっては中腰になったり座り込んだりしてくれながら目線を合わせてくれるひとがいると、ものすごく安心して、嬉しい気持ちになる。

これはいつもそういう経験が少ないから、なおさらだ。

だから僕もちゃんと相手のことをよく見ていたいと思う

ひとはそれぞれの人生のなかで、違う経験を積んで、違う立場からものを見ている。だから同じ世界を共有しているように見えても、見ているものはみんな違う。でもせめて、僕もあなたのことをよく見て、できれば「目線」を近付けていけたらと思っている。そうやって景色をわかち合うことができるのは、とても嬉しいから。

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