「ダウン症のこどもたちとその親御さんたちが初めて公道をパレードする」というニュースから感じた、複雑な気持ち

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なにかを食べるダウン症の女の子

こんなニュースを見た。

ダウン症のある子どもとその親たち約500人が、「本当の姿を知ってもらいたい」と初めて公道をパレードすることになりました。

龍円愛梨さん:「パレードという形で、皆さん見て下さい。見ていいものなんですよ。私たち可哀想じゃないんですよ。幸せなんですよ。ということを伝えたかったんです」

パレードは13日に東京・渋谷で開催されます。ダウン症への理解を求めるイベントはこれまでにもありましたが、公道をパレードするのは今回が初めてです。主催する母親らは「ダウン症のある子は可哀想だと思われているが、笑顔が素敵で人を明るくするような子どもたちだということをパレードを通じて見てもらいたい」と話しました。4年後のパラリンピックに向けて、ダウン症に限らず障害のある人を持つ家庭への法的な支援についても、国や自治体などに求めていきたいとしています。会見では、ダウン症の娘を持つ空間デザイナーの女性がデザインしたダウン症啓発のキャラクターも披露されました。

 ダウン症のある子どもとその親たち約500人が、「本当の姿を知ってもらいたい」と初めて公道をパレードすることになりました。 龍円愛梨さん:「パレードという形で、皆さん見て下さい。見ていいものなんですよ。私たち可哀想じゃないんですよ。幸せなんですよ。ということを伝えたかったんです」  パレードは13日に東京・渋谷で開...

明日開催予定のこのイベントは、確かに画期的なものだとも思う。だけど……

このニュースによると、このパレードが開催されるのは2016年11月13日、つまり明日だ。そしてこれは少なくともネットではそれなりに拡散されてるみたいだ。それにこれは、

公道をパレードするのは今回が初めて

だって書いてあるように、確かに画期的なことなんだと思う。だけどどうしても、気になるところがあるんだ。

「見ていいものなんですよ。私たち可哀想じゃないんですよ。幸せなんですよ」

それはこのニュースにあるこのイベントの主催趣旨、この部分だ。

パレードという形で、皆さん見て下さい。見ていいものなんですよ。私たち可哀想じゃないんですよ。幸せなんですよ。ということを伝えたかったんです

これはこのひとの、ほんとに強い想いなんだろう。実名顔出しで、たくさんのひとたちに伝えたいくらいの強い想いなんだろう。だけどやっぱり、どうしても違和感を覚えてしまうんだ。そしてその違和感はこれを強く主張されればされるほど、むしろ強まってしまうものなんだ。

だって

見ていいものなんですよ

なんて、当たり前のことじゃないか!そして

可哀想じゃないんですよ。幸せなんですよ

なんていうのは声高に主張して誰かに認めてもらうものじゃなく、自分で決めるものじゃないか!

「しあわせじゃないから活動してるんだろ?」って言われるとは思わない?

それにこれは「既に理解があるひとにその認識を確かめてもらうために行うイベント」じゃなくて、「まだ理解なんてないひとに少しでも理解してもらうために行うイベント」なんだよね?

だったらなおさらそんなひとたちに、

私たちは幸せなんですよ!

なんてどんなに訴えかけたって、

しあわせじゃないからそんな活動してるんだろ?

とか言われてしまうとは思わない?こんな考えは、底意地悪いのかなぁ?

しかもさ、「可哀想じゃないんですよ!」なんて言われちゃったら、却ってかわいそうな気がしてくる

確かに僕自身の体験から言っても、「障碍者」とか「社会的弱者」っていうのは、周りからいろいろな「感情」を向けられる。

そのなかには

気持ち悪い!

っていう拒絶的なものから、

かわいそうに……

なんていう憐憫、それに

俺なら、そんな状態になるくらいなら死んだほうがましだな……

なんてものまである。

こういう体験については、

世界には、年間100万人くらいの自殺者がいるらしい。日本でも「公式には」3万人くらいの自殺者がいることになっているけど、WHO(世界保健機関...
前にでも少し書いたことだけど、僕が物心ついて物心ついた4〜5歳の頃にはもう、どこからか僕の話を聞きつけたたくさんの「宗教関係者」が僕...

などでも触れました。

だから実際、

ダウン症のある子は可哀想だと思われている

っていう認識がまったく間違ってるとは思わない。だけど、それでもさ、

でもさ、「可哀想じゃないんですよ!」なんて言われちゃったら、却ってかわいそうな気がしてくると思わない?それに、そんなふうに言われたら、「最初からかわいそうだなんて思ってなかったひとたちを、「俺たちはこのひとたちをかわいそうだと思ってると思われてるのか……」って、傷つけてしまうとは思わない?

実際、僕自身だって少しだけ哀しくなってくるんだから。

だから、僕ならここはこう言い換える。もっと言うと、より趣旨に合った行動を採る

最初から言ってるとおり、僕はこのひとたちの活動が深い想いと信念に基づいたものなのはわかっている。そして僕自身、その想いが通ることを願っている。だからこそ、僕ならこの開催趣旨をこう言い換える。

みなさん、どんどん私たちの姿を見てください!かわいそうだと思いますか?不幸だと思いますか?それは確かに、部分的には正しいかもしれません。でもそれは、「生まれてこなければよかった」とか、「ずっと不幸でいるしかない」ということではないでしょう?だからみなさん、どうか、私たちをもっと見てください!話しかけてください!関わってください!そしてどうか力を貸してください!

そしてもっと言えば、僕ならこの趣旨を確かめた時点で、「1日限りのパレード」なんかよりずっとこの趣旨に合った行動を採る。

それは映画が好きなら映画館に行くことだ。絵を描きたいなら絵を描くことだ。なにか言いたいならサイトを作ることだ。そして同時に、そんなことはまったくしたくないなら、やりたくないことなんてしないことだ。そのほうがずっと多くのひとに見てもらえるし、ずっとしあわせでしょう?

だけどもちろんパレードがしたいならどんどんしたらいい。そして僕も、心から応援する

だけどこれはあくまでも、僕の想いに基づいて、僕自身がやりたいことをやった場合の話だ。だからもちろんパレードがしたいならどんどんしたらいい。そして僕も、心から応援する。そして僕も自分のしあわせを感じたいし、深めていきたい。だから僕はこれからも、ここにいる。あなたと関わる。そして一緒に、生きていく。

コメント

  1. きんくま より:

    逆にパレードをすることによって、ダウン症の方に拒絶感を抱かせてしまうようになってしまうケースもあると思います。何ていうんだろう、そう言った感情って自発的なもので、他者が押し付けるものではない気がします…。

    ただパレードに限らず、サイトや講演をしても基本興味を持つのは当事者の方かその周辺の方で、全くの新規の方が興味を持つには至らないような。

    何故なら本当に興味を持った方なら”自分で調べる”からと思うのです。

    ダウン症の書道家で高名な方がいたように記憶しているのですが、

    書を見て素敵だなと思う→作者がダウン症と知る→ダウン症に興味を持つ→自分で調べてみる

    難しいけれどこういったプロセスが大事なのだと思う。

    別に有名にならなくても、常に綺麗な言葉遣いをしているとか、礼儀正しくしているとか、姿勢を綺麗にしているとかそういう風に生活をしていれば、分かって下さる方は分かって下さるのではないでしょうか。

    ”ダウン症ってよくわからないけど、あの子は素敵だね”

    ”なんか病気?障害?あるみたいだけど幸せそうだ”とか。

    ダウン症そのものの知識も、もしかしたら必須ではないのだと思うのです。

    逆に根深い偏見のある方はパレードをしても、そのままだと思うのです。

    勿論声をあげることは大事ですが。

    なんていうか、それこそダウン症という記号に囚われてしまっているような気がします。

    • きんくまさん、こんにちは。

      そうですね、きんくまさんのおっしゃっていることは、基本的に僕もまったく同感です。

      ただ少しだけ言うとすれば、

      常に綺麗な言葉遣いをしているとか、礼儀正しくしているとか、姿勢を綺麗にしている

      っていう必要まではないんじゃないかな?とは思います。

      もちろん、そのほうが受け入れられやすいかもしれないし、わざわざその逆をやることでもないですが、もっといい意味で「自然体」でいられるようになれば、ダウン症にしろLGBTにしろ、パレード(非日常的な特別なかたちを作ること)にこだわる必要もなくなるし、いちばんいいんじゃないかと思っています。

      あ、あと

      ダウン症の書道家で高名な方がいたように記憶しているのですが

      というのはおそらく、金澤翔子さんのことではないかと思います。僕も、彼女の書には感銘を受けました。

  2. きんくま より:

    そうですね、言葉が足りなかったのですが、綺麗云々は就職した時の事を想定して書きました。赤の他人が人を判断する時の第一印象って見た目や言動から入ると思うんですよ。障碍関係なく。後、更にここがびしっとしていると、なめられない?と思うんです。逆を言うとここを疎かにすると、理解してと周囲に訴えても色々難しいんじゃないかなあと。

    ダウン症に関係なく、社会に受けられている障碍者の方って、それこそ”綺麗な言葉遣いとか礼儀正しさとかを自然にできている方”だと思うのですよ。

    自然体の解釈の違いですかねえ。

    • 自然体の解釈の違いですかねえ。

      そうかもしれないですね。

      それに特に就職したあとなどを想定しているなら、確かに言葉遣いとか礼儀正しさとかは求められてくるところだとも思います。またそれはある程度の「練習」の結果身につく(自然にできるようになる)ものでもあるとは思うのですが、それがどうしても苦手なひとたちもいるので、それならそれで「自然体」でいられるようであったらいいなぁと、そう思っています。

  3. きんくま より:

    そうですね、色々な方がおられますから。

    ただ難しいのが社会的な主張って社会的な立場があった方が有利なんですよね。

    逆を言うと社会的な立場がないと主張は通りづらい。

    私は就職が全てとは思いませんが、ただ現実問題として出生前診断でダウン症だと分かると中絶される方がほとんどだと聞き及んでいます。

    それは何故かと言えば、就職出来ないだろうという思い込みがあり、将来が心配だ、と思われてるからだと思います。ここを払拭しないと、ダウン症でも幸せであるという主張は受け入れづらい現実があると思うのです。

    ダウン症の方でも就職出来ていらっしゃる方はおられます。

    そういった事例を増やしていかないと、抜本的解決にならないと思ったのです。

    主様が前に仰った通り他者の意識をかえるのは並大抵では出来ませんから。

    そして、自然体にしても受け入れられない現実があるからこそパレードをされたのだと思います。

    ですが失礼を承知で言えば、パレード1つで他者意識に訴えるのはかなり難しいんじゃないかと。

    周囲に理解してもらうだけでしたら主様のいう自然体で良いと思うのです。

    ですが「社会的に主張して受け入れられる」となると、難しいんじゃないかなあと思ったのです。

    勿論、主様の言う自然体で受け入れられるが一番ですが。

    • そうですね、僕がここでやっているようなことも実のところ「社会的な主張」のひとつとも言えると思いますが、全体として見ればたいした影響力はないでしょうね〜。

      でももしそれでも「少しでも、少しずつでも周囲(の誰か)に理解してもらう」ことができるとするなら、それがドミノ倒しのように拡がっていくと、いつの間にか社会が変わってしまうようなこともあるかもしれないと思っています。

      きんくまさんともいつも話題になるように、結局は「生きかたの幅」が広くなればラクなんだろうなぁと思うので、僕もそれが世間的な「職業」ではないとしても、まずは「できること」を、続けていきたいと思います。

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