抽象的な「集団」(属性)のなかにいる「ひと」を具体的にイメージしてみてほしい

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緑ののっぺらぼう

世のなかにはたくさんのひとがいる。でもそんなひとりひとりの違いにばっかり眼を向けているとわからないこともあるから、そのひとたちの「共通要素」を抜き出して、「集団的に把握」したり「統計」を採ったり「数値化」したりする。それはそのときそのときによって違う意味を持たされることも多いけど、うまく活かせば便利なものでもあると思う。

僕は確かに「日本人」で「男性」で「20代」で「1種1級の身体障碍者」でもあるけど……

そう考えるとたとえば僕はに「日本人」で「男性」で「20代」で「1種1級の身体障碍者」でもあるっていうことが言える。さらに言えば「大卒者」でもあるし「脳性麻痺患者」でもあるし、細かく言えば「痙直型脳性麻痺患者」でもあるし……っていうふうに、いくらでも付け足していくことができる。

だけどそうやってどんなに細かな「属性」(レッテル)を加えていったところで、僕の実体を完全に掴んだことにはならない。そもそも、僕は周りからなんだと思われているか、そこにどんな意味を与えられているかにかかわらず、「1人のひと」として、ここに存在しているんだ。

そんなことはみんなわかってることだ。だけどこの「属性でまとめる」っていうのはときどきあまりにも便利で強力なものだから、それに浸りすぎていると、

もともとひとりひとりはそれぞれがいのちを持って存在している

っていう事実を、覆い隠しそうになってしまうことがあると思うんだ。

たとえば「日本で公式に捕捉されてる障碍者は750万人いる」って言われてもピンとくる?

たとえばさ、僕自身にも深く関係する「統計」をひとつ持ち出すとこんな話ができる。「障碍者」っていうものもひとつの集団だと捉えれば、そこにはいろんな定義があり得る。たとえば「社会的弱者」と捉えることもできるし、「治らない病人」と捉えることもできるし、あるいは「困ってるひと」って捉えてもいいだろう。だけどそれじゃああまりにもひとそれぞれの幅が広くなっちゃうから、とりあえずその社会(国)としての「公式見解」を出さなきゃいけないことになる。

じゃあ、今の日本における「障碍者」のいちばん端的な定義はなにかって言ったら、それは「障碍者手帳を持っているひと」だって言える。

そしてそれは「申請主義」が大原則だ。だから、たとえ僕と同じような状態のひとがいたとしても、そのひとが自分で障碍者認定を申請しなければ、そのひとは「公式の障碍者」だとは認められない。また同時に、本人がどんなに困っているとしても、それが「障碍等級表」に照らし合わせて分類できる症状(状態)じゃない限りは、そのひとは「公式の障碍者」とは認められない。そしてその枠組みは、大きく分けて「身体障碍者」・「知的障碍者」・「精神障碍者」の3つに分類されることになる。

で、このことをすべて踏まえて考えて、障碍者手帳の交付数を基に「今の日本で公式に捕捉されてる障碍者」の数を割り出そうとすると、その数はおよそ750万人だということがわかる。なんで「およそ」っていう曖昧な表現をしなきゃいけないかというと、そこには重複障碍のぶんがあるからだ。だけどそのぶんを差し引いても、

人口の5%、20人に1人くらいのひとたちが、「障碍者」として認定されたうえでこの日本にも生きているということがわかる。そしてこの、「20人に1人」っていう割合は、日本以外のどの社会でも概ね当てはまるものだ。

ただこれはあくまでも、公式に捕捉され、認められた数にすぎないってことを忘れちゃいけない。だから実際には、この数はもっと多い可能性がある。それに、その「障碍者」の定義から抜け落ちているひとたちのことも含めればなおさらだ。これは、僕も何度も採り上げている盲ろう者の福島智さんも、こんなふうにはっきり語ってくれていることだ。

日本には法的に認定された障害者だけでも今、およそ750万人います。難病や発達障害などの方々も含めれば、1千万人を超えるでしょう。さらにご家族なども含めれば、障害のある当事者とその身近な人たちは、3千万人から4千万人、つまり、国民の3人から4人に1人が障害の当事者やそのご家族ということになります。

こう考えると、けっして障害者問題は本来小さな問題ではないはずです。

引用元「厚生労働省総合福祉部会 第19回 福島委員提出資料 『2012年2月8日総合福祉部会での発言メモ』」

だけどこんなふうに、

日本にも障碍者は少なくとも750万人いるんですよ!

なんて言われても、それにすぐピンとくるひとは少ないんじゃないかと思う。

だってそこには、実体が見えてないんだから。

「数字」や「集団」のなかにいる「ひとりひとりの存在」に想いを馳せてみてほしい

「統計」とか「集団」っていうのは確かにひとりひとりの存在を基に組み立てられている。でもそれ自体には実体がない。それは「抽象化されたもの」でしかないからだ。だからそんななかで、

少なくとも20人に1人は障碍者なんですよ!

なんて言われたって心に響くことはないだろう。

だってあなたのクラスに、車いす乗りなんかいなかったもんね?目の見えないひとも、耳の聞こえないひとにも深く関わったことなんてないもんね?

試しにあなたの友達を20人でも連れてきてみてほしい。そこに「障碍者」と呼ばれるひとはいるだろうか?もしいないなら、その「統計」はあなたにとってほとんど意味がない。そんなものより、「実感」のほうが100倍強いんだから。

じゃあなんで僕がこういう福祉とか社会の問題に敏感になってるのかって言ったら、それはまずは自分が社会的に弱い立場に置かれてる、からだが自由に動かない、1種1級の障碍者だからだ。でもそれだけが理由じゃない。これは僕にとって、「具体的にイメージできるひと」の問題でもあるからなんだ。

たとえば僕が「目の見えないひと」と言われたら、まず真っ先に思い浮かぶ知り合いがいる。「耳の聞こえないひと」と言われても、具体的に思い浮かぶひとがいる。「人工透析患者」と言われても、すぐ思い浮かぶひとがいる。それにこれは直接会ったことがなくても同じだ。「盲ろう者」と言われたら福島智さんが浮かんでくる。「脊髄小脳変性症」と言われたらサイトを通じて知り合ったわらさとさんが浮かんでくる。そうやって「具体的なひと」を軸にして考えることができるから、僕もいろんな問題を身近なものとして、真摯に切実に捉えるようと思えるんだと思う。
だからこれは、みんなのおかげだ。

もし今度「障碍者」とか「脳性麻痺」なんて言葉を耳にしたら、僕のことを思い出してくれたら嬉しい

「障碍者」とか「脳性麻痺」っていう言葉は、僕にとっては身近なものだけど、あなたにとってはそうじゃないかもしれない。でももしよかったらだけど、今度こんな言葉を耳にしたときに、僕のことを思い出してくれたら嬉しい。もちろん、僕が「障碍者の代表」でもないし「脳性麻痺患者の代表」でもないのは明らかだ。でもそういう無機質な、自分には関係のない問題だと思っていたことに触れるきっかけとして、僕が役立てば嬉しいと思う。

だって僕も実は、あなたと同じ世界に生きていたんだからね。

コメント

  1. きんくま より:

    私は近くに盲学校があったので小学生の時交流授業がありましたが、目が見えないということが私にはピンときませんでした。

    でも目が見えないというのはこういうことかと腑に落ちた出来事があります。

    10秒でいいから母親の顔がみたい

    7月7日の短冊でそう書かれていたのを発見したのです。

    私にとって10秒というのが衝撃で、切実で胸にせまるものでした。

    健常組は、やれゲームが欲しいだの、お金持ちになりたいだの書いていたのに、その方が望んだのは母親の顔を見るということ。

    私が当たり前と感じ享受していることがそうでない方もいるのだ、と。

    多分この経験は私の中で、障碍というものが記号でなくなった時の初めての体験だったと思うのです。

    • きんくまさん、こんにちは。

      障碍というものが記号でなくなった

      という表現には僕もいろいろと感じるところがあります。たとえば僕も「障碍者」とか「脳性麻痺患者」という「記号」を自分に与えられたものとして受け止めることはありますが、それだけではどうしても抑えきれない葛藤を持つようになったとき、僕は自分に「四つ這いおとな」という新たな名前を付けてみることにしました。

      もちろんこれも「記号」であることには変わりないのですが、他のものよりははるかに気に入っています。

      ただ僕もできるならその記号すら飛び越えて、もっといろいろなひとたちとつながりを持っていけたらいいなぁと、強く願っています。

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