「自分を護ろうとしているひとが最後にはいちばん強い」っていう話を耳にして感じたこと

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こどもを護っている猿

こないだたまたま、こんな会話が聞こえてきた。

結局さ、自分を護ろうとしてるひとがいちばん強いんだよ。目的意識がはっきりしてるし、「これに自分のいのちが懸かってる」と思ってれば、真剣味が違うんだからさ

これはあくまでもたまたま聴いた話だから深入りはできなかったけど、この意見には確かに納得したし、自分を振り返って共感もしたんだ。

独善的な視点がいいとは思わないけど、遠くのひとを護るのは、やっぱり難しい

この場合の「自分を護る」っていうのは別に「自分だけを護る」っていうわけじゃないし、悪い意味の「独善的」っていうのとも違うと思う。それに僕も、できるならできるだけたくさんのひとを護る(助ける)ことができればいいと思う。

それにそれは、たぶんあの意見を語っていたひとも同じだと思ってる。

だけどやっぱり、遠くのひとを護るのは難しい。それは単純に離れてるっていう理由もあるけど、目的(やりたいこと、しあわせの定義……)が違うっていうこともあるだろう。だからよくあるように

こっちはよかれと思ってやっていたつもりだったけど、相手からすれば「おせっかい」(ありがた迷惑)だった……

ってことが起こることもある。それでもまた改めて奮起できるならいいんだけど、そうじゃなくて

自分はいったいなにをしてるんだろう……

なんて思ってしまったらそこから這い上がるのはなかなかキツい。だから誰かを護ろうとするのは確かにやりがいがあることでもあるんだけど、こういう難しさをはらんでいるものだと思う。

だけど「自分を護る」という目的は揺らがせるわけにいかないし、そもそも逃げようがない

だけど「自分を護る」という目的は、最も根本的なものだし、そもそもどんなに面倒くさくなっても、苦しくなっても、自分自身からは逃げようがない。自分は存在する限り、自分自身でいるしかないんだからね。だから彼の言う

自分を護ろうとしてるひとは目的意識がはっきりしてる

っていうのは、そういうことなんだと思ってる。「自分を護る」っていうっていうことがなくなったら、存在そのものが崩れ落ちてしまうんだからね。だからそれはしあわせを考えるうえで、土台になる部分だと思う。

「これに自分のいのちがかかってる」んだったら、全力で取り組むしかない

あともうひとつ彼が言っていた

「これに自分のいのちが懸かってる」と思ってれば、真剣味が違う

って言うのにも、僕は深く共感した。結局僕たちは

これが自分の生活に直結していると思えることにこそ、最大の力を発揮できるんだと思う。逆に言えば、「自分とは関係ない」と思っちゃったことには、どこかで真剣さが抜け落ちていってしまうと思うんだ。

だけど、「これに自分のいのちが懸かってる」と思ってれば、もう全力で向き合って取り組むしかない。だからそのときの底力は、きっと相当なものになると思う。

じゃあ、僕自身のやっていることはどうだろう?

じゃあここまで考えてきたことを踏まえて、今度はこれを自分自身に向けてみる。そうすると僕は

自分のやっていることも、結局は「自分を護ること」だし、「自分のいのちが懸かってると思ってること」だと言い切れると思った。

だって、なんで僕がこの『四つ這いおとな』を始めたかって言ったら、自分の想いをちゃんと伝えるためだ。それはあなたにでもあるし、自分自身にでもある。それは最初から、ここで言い続けてることだ。

昔「24時間残念営業」ってサイトがあった。最初に読んだ文章がなんだったかは憶えてないんだけど、それからちょこちょこ読むようになった。でもその...
昨日、僕がよく見る夢のことを書いた。そこでも書いたとおり、僕はあまりにも悪夢ばっかり見るものだから、今ではいちいち見た夢を憶えておい...

そしてこれには、実際僕のいのちが懸かっている。だってもし僕がなにも言わないうちに、僕が望んでない方向に社会が動いていっちゃったら、僕はきっと死んでしまうからだ。

僕は前から出生前診断に強い関心を持っていて、ここでもそれに関する文章を書いてきた。でも、こうやって日が経てば経つほど、僕が悪い意...

だから僕は、この場所を作ったし、こうして自分の思ってることを率直に書いてるんだ。

僕は10年後にも50年後にも、僕みたいなひとが生きられるようであってほしい

でも実際には、僕はまだ生きている。それにみんなに支えられながら、月10万円くらいの障碍者手当ももらいつつ、日々生活している。そしていろいろなことはありながらでも、それなりに生きる楽しみを見出すこともできている。

だけど僕は、これが「これからもずっと続く当たり前のこと」だとは思ってないんだ。僕が生まれるのがほんの10年早かっただけでも、僕は生き延びられてない。それにたとえ奇跡的に生き延びたとしても、30年早かったら、僕は学校にすら通えてなかったかもしれない。だからこの時代のこの環境は、「今こういう状況だ」という事実でしかないんだ。未来がどう変わるかなんて、なにも決まっていない。

だからこそ僕は、たとえ10年後でも50年後でも、僕みたいなひとが生きられるようであってほしいと思ってるんだ。そこに僕自身が生きてるか生きてないかが核心なんじゃない。ただ僕みたいにからだがうまく動かせなくても、たくさんのお金を回せなくても、たいして社会に貢献してないとしても、それでもそれなりには生きられるようであってほしいと思ってるんだ。

だからこれはある意味、「今の自分を護る」のと同時に、「未来の自分たちを護る」ためでもある。

ただもちろん、こんなことを僕だけでできるはずはない。しかも僕はとても弱い存在だ。だけどそれでも、このことにだったら全力を注げるし、底力を発揮できる。だから意外に、まだまだ棄てたもんじゃないと思っている。そうやって図太く、たまたま聴いたひとの言葉なんかを勝手に励みにして、僕は今日も、ここで生きている。

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