「精いっぱいやればできる」からって、「絶対に自分でやらなきゃいけない」わけじゃない

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コーヒーとクッキーで休憩

お前、怠けてるんじゃない?

それって手抜きじゃないの?

こんなふうに言われたら、誰だってけっこう傷つく。特に世界的に見ても「勤勉であること」を重視するって言われるような社会ならなおさらだ。

いわゆる「訓練」の世界でも、「できることはできる限り自分でやる」っていうのが原則になっている

それに僕がちいさい頃から受けてきたいわゆる「機能回復訓練」(リハビリ)の現場でも、こんなふうに

自分でできることはできる限り自分でやるんだよ!

というのが基本原則になっている。

ちなみに、僕にとってはこの「機能回復訓練」(リハビリ)という言葉遣いはあんまり馴染まないんですが、今回は本題ではないので一般的な言葉遣いに合わせました。このことについて詳しくは

僕は病院で自分のからだを定期的に診てもらうときには、「リハビリテーション科」に行ってる。あるいはもっとざっくり分けるんだったら、これは「整形...

を読んでいただければと思います。

これは端的に言えば、

精いっぱい努力するっていう姿勢を身につけることが大切なんだよ!

いったんできることをやらなくなったら、今までできてたことすらできなくなっていくんだよ!

っていう想いから来るものでもあると思う。そしてそれは、

精いっぱいやってたって機能は自然と少しずつ失われていく

っていう現実を知っているなら、なおさら切実なものでもあると思う。

それは誰しもが「老い」というかたちで体験するものでもありますが、それは僕のようなひとにとっては、なおさら真摯に向き合わなければいけない課題でもあります。

二次障碍っていう概念がある。これは主に医学的な意味合いで遣われることが多い言葉なんだけど、僕の今の理解でざっくり言うと、ある障碍をずっと...

だからもちろん僕だって、こういう考えかたを全面的に否定したいわけじゃない。それに

「自分のできることを精いっぱい活かす」っていうことは、誰にとっても大切なことだと思う。

だけど僕たちの生きる「日常」は、「訓練の場」じゃない

だけどこれを踏まえたうえで改めて考えなきゃいけないのは、

僕たちが日々直面している「日常」は、決して「訓練の場」じゃない

ってことだと思う。訓練の場なら、そこではたとえつらくても、自分のできることを精いっぱいやることが必要になってくる。それは自分の「機能」を失わないため(失う速度を遅くするため)でもあるし、もしかしたら新たな機能を獲得する(できることが増える)かもしれない可能性を追求するためでもある。

その目的を最優先するのが、訓練の場だ。だからそこでは、「精いっぱいやれば自分でできることを誰かに代わりにやってもらう」っていうことは、「悪いこと」(甘え・怠け)だと見なされる。

だけど、僕たちが今この瞬間も直面している「日常」(生活)は、そんな特殊な「訓練の場」と混同していいものじゃない。

だって日常には、「時間制限」と「優先順位」があるんだから。

具体例を挙げて考えてみよう。たとえば僕が誰かの待ち合わせ場所に行こうとして、その途中に坂道があったとする。その坂の角度は、自分の力でもギリギリ上がれるくらいだったとする。もしかしたら無理かもしれないけど、精いっぱいやってみたら上がれるかもしれない。そんなとき、僕(が独りで行動していた)ならどうするか?

まず100%、周りの誰かに助けを求める。そしてこれを僕は「悪いこと」(怠け・甘え)だとは思わない。

だって僕の目的は、「この坂をなんとかして自力で上がること」でも、「少しでも腕の筋肉を保つこと」でもなく、「誰かの待ち合わせ場所に遅れず着いて、そのあと少しでも楽しい時間を過ごすこと」だからだ。僕は訓練をするために、生きてるわけじゃない。

もし、僕が必死の想いで坂を独力で上ったとしよう。そうすれば僕は「『坂を上る』ということに関して全力を尽くした」と言える。がんばった。素晴らしい。だけどそのことで、僕は話そうと思っていたいくつかの話題を忘れ、呼吸を整えるのにそれなりの時間を要し、汗をかいて下着は気持ち悪い状態になり、喫茶店の飲みものに余分な500円を払わなきゃいけなくなるかもしれない。だとしたら僕は僕の「本来の目的」からまったく外れた行動を採っているということになる。

こんな例はいくらでも挙げられる。たとえば僕は基本的に手の細かい動きができないから、たとえボタンの付いた服は自分で着られない。だから普段は、そもそもそんな服を着ない。でもたとえば大切な面接とかなにかで、どうしてもワイシャツとかスーツを着なきゃいけないような場面が来たとする。ただ基本的には今言ったとおり自分だけじゃ着られないんだけど、厳密に言うと袖口とか首元のボタン以外だったら調子がいい日ならいくつか留められることもあるんだ。じゃあそんなとき、僕は自分の持てる力を最大限に発揮して、少しでも多くのボタンを自分で留めるべきなんだろうか?

僕なら、そんなことはしない。最初から誰かに頼んで、すべてのボタンを留めてもらう。だってそんなの自分でやろうとしたら、できたとしても日が暮れちゃうもん。

じゃあ時間がかかるのを見越して、早めに準備してればいいじゃないか!

って?そんなさ、僕にとっては睡眠時間のほうが大切だもん。別に、面接官に

僕は今日、このワイシャツのボタンを留めるのに2時間懸けました!この自分の限界に挑戦する姿勢と根気は、御社に入ってからも存分に発揮されると思います!

ってアピールしたからって、加点されるわけでもないでしょ?それに万が一だけどさ、

こいつは「努力が足りない」ってことにすれば、多少のオーバーワークも文句言わずやる人材だな……

なんて思われてもこっちが困るし。

それにさ、そりゃあ見かたによったら「怠け」とか「甘え」とも思うかもしれないけど、「ひとに助けを求める」っていうことだってそんなに簡単じゃないし、勇気も要るし、そうそうラクじゃないんだよ?

僕の生活のなかでは、誰かに頼んでやってもらわないといけないことがたくさんある。でもそれがいつも気心の知れたひとたちとの間だけで済むとは限らな...

僕にとっての最大の目的は、「生きることを楽しむ」ことだ

これは自分自身じゃなく相手の立場に立ってもそうだと思う。たとえば自分と一緒にご飯を食べている相手が、ほんとは自分でご飯を食べる(口に運ぶ)のが大変なのにさ、

がんばれば自分でできるんだから!

なんて言って必死にご飯食べてたってさ、見てるほうもいたたまれなくなってくるよ。だいたい、そんなことしてたらさ、

「ご飯を口に運ぶこと」に気を取られすぎて、「ご飯を味わう」とか、「会話を楽しむ」とか、「外の景色に目を向ける」とか、そういう楽しみがどんどん奪われちゃうんじゃない?

そんなのあまりにも、哀しすぎると思うんだよ。せっかく一緒にいるのに、せっかく話してるのに、そんな「ちいさなこと」に気を取られちゃうなんてさ。だから結局、僕が言いたいのは、

坂を自分で上るとか、ボタンを自分で留めるとか、自分でご飯を食べるとかさ、そんなのはできないよりは確かにできたほうがいいことだし、その「目的」に向かって努力することも素晴らしいことだと思うよ。でもそんなことよりもっともっと大切なのは、僕たちが生きているほんとの目的は、「生きることを楽しむ」ってことなんじゃないの?

ってことなんだ。そして少なくとも僕自身にとっては、それ以外の「目的」なんて、まさに大事の前の小事でしかないんだよ。だから、いつもその原則を忘れずにいようと思う。そしてそれに立ち返って考えれば、

「精いっぱいやればできる」からって、「絶対に自分でやらなきゃいけない」わけじゃないってこともはっきり言えると思う。だってさっきも言ったとおり、日常は、生活の場は、人生は、訓練の場じゃないんだから。

「死にもの狂いでやる」っていうのは、ほんとに最後の手段でいいと思う

もちろん、場合によってはどうしても自分の力を最大限に発揮しなくちゃいけない、っていうかその「限界」すらも飛び越えて死にもの狂いでやらなきゃいけない場面っていうのも出てくる。たとえば何年か前のある日がそうだった。

そのとき住んでいたアパートには段差があって、それを埋めるために玄関前に簡易スロープを設置させてもらっていた。でもあまり長くすると景観と通行上の問題が出てくるからってことで、「自分独りでは上がれないけど、誰かに押してもらえば上がれるし、スロープがないよりは断然ラク」っていう程度の傾斜のスロープを常時展開していたんだ。

それで、基本的には誰か一緒に外出したひとに挙げてもらったり、通行人のひとに頼んで上げてもらったりしてたんだけど、その日はいろんな突発的な事情で帰りが深夜になってしまった。しかも、家まで送ってもらうことはできなかった。それだけじゃなく、深夜だったこともあって通行人が誰もいなかった。

その現実を目の当たりにして、僕は正直愕然とした。何度かスロープを上がろうとはしてみたけど、やっぱり力が足りない。しかもやっているうちにどんどん力が入んなくなってきて、どうしても上がれなくなった。

部屋は目の前で鍵もあるのに、これで朝まで立ち往生するしかないって言うの?……

って最悪の想像もよぎったけど、精いっぱいアタマをはたらかせた僕は、「もうこれしかない」っていう方法を実行することにした。

それは、

まず自分だけ車いすから降りて四つ這いでスロープを上がり、そのあと車いすを前から引っ張り上げて、もういちど車いすに乗る

っていう方法だった。

そして実際やってみると、案の定ズボンは道路の汚れでひどいことになるし、時間はすごくかかるし、鍵を上手く挿し込んで回すまでにさらに何十分もかかるしで散々だった。だけどともかく、「精いっぱいやったらできた」ことは確かだ。

でもだからって、

じゃあ同じようにやれば、誰にも頼らなくてもできるってことでしょ?これからはそうすればいいじゃん!

なんて言われても絶対に断る。万が一また同じ状況に陥ったら同じようにやるしかないけど、それはあくまでも「最後の手段」だ。いちいちそんなところでヘトヘトになるわけにはいかない。だから誰かの力を借りられる状況なら、これからも迷わず借りる。それが、僕の答えだ。

力も時間も有限だ。だからこそその「割り振り」を、一緒によく考えたいと思う

なにかに精いっぱい取り組む姿はかっこいい。自分の力を最大限発揮することで、さらに成長できることもあるだろう。

だけどそれでもやっぱり、僕たち(ひとりひとり)の力は無限じゃない。それにそれは「時間」っていう観点から見ればなおさらはっきりわかることだ。だからこそ、いちばん大切なのは「それをどう割り振るか?」ってことなんだと思う。

そしてそれは、「自分の得意を活かして、不得意なことは得意なひとに任せる」ってことでもある。それに、「少しだけ余裕を残しておく」ってことでもある。それにこれは、前に林修さんが言っていたこんな話にもつながるんじゃないかと思う。

昨日、たまたまこんな番組を見た。まぁこのタイトルの煽りっぷりは置いといて、この番組のなかで林修先生が言っていた言葉について、書いてい...

だからさ、そんなに必死にならなくてもいいと思うんだよ。そんなに自分を追い込まなくてもいいと思うんだよ。大変なことはみんなでやればいいんだし。でもともかく今は、一緒に少し息抜きしてしてみてもいいと思わない?

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