『ぞうさん』の歌にまどみちおさんが込めた想いは、僕にとっても切実に迫ってくるものだった

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addo elephant parkにいる象の親子

童謡はみんなによく知られたものが多いけど、『ぞうさん』もそのひとつだと思う。僕もちいさい頃からよく歌っていたし、好きだった。

素朴な親子愛を描いた歌だと思っていたけれど……

ここでまず改めてぞうさんの歌詞を見てみる。

ぞうさん

ぞうさん

おはなが ながいのね 

そうよ

かあさんも ながいのよ

 

ぞうさん

ぞうさん

だあれが すきなの

あのね

かあさんが すきなのよ

童謡・唱歌の「ぞうさん」歌詞ページ。「ぞうさん」は、作詞:まどみちお、作曲:團伊玖磨。

僕はこれをついこないだまで、単純に

素朴な親子愛を描いた歌だよね……

としか思ってなかったんだ。でもそれは間違ってたんだ。

作詞者のまどみちおさんが込めた想いは、もっと深かった

それに気付いたのは、ネットにあった金子保『詩人まど・みちおの作品から学ぶ保育のこころ』っていう文章を読んだからだ。ここにはまどみちおさんについて書かれた『まど・みちお-詩と童謡』(まど・みちお「詩とことば」1988年、創元社に所収されていると書いてある)から引用された、こんな話が載っている。孫引きになるけど、ここにも引用してみるね。

「この地球上の動物はみんな鼻は長くないのです。そういう状況の中で『おまえは鼻が長いね』と言われたとしたら、それは『お前は不具だね』と言われたように受け取るのが普通だと思います。

しかるにこのゾウは、いかにも嬉しそうに『そうよ、母さんも長いのよ』と答えます。

長いねと言ってくれたのが嬉しくてたまらないかのように、褒められたかのように、自分も長いだけでなく自分の一番大好きなこの世で一番尊敬しているお母さんも長いのよと、誇らしげに答えます。

このゾウがこのように答えることができたのはなぜかといえば、それはこの象がかねがねゾウとして生かされていることを素晴らしいことだと思い幸せに思い有難がっているからです。誇りに思っているからです。(中略)

ゾウに限りません。けものでも虫でも魚でも鳥でも、いいえ草でも木でも数かぎりない生き物がみんな夫々の個性を持たされて生かされていることは、何物にもかえられない素晴らしいことです。

もちろんその中の一員として、人間が人間として生かされているのは本当に素晴らしいことです。」

引用元金子保『詩人まど・みちおの作品から学ぶ保育のこころ』(中略も引用元にあったもの)

これを聴くと、僕の「ぞうさん」に対する見かたは、一気に深まった。

愛情によって全面的に肯定されていれば、「違い」は「卑屈さ」を生まない

この文章を書いた金子保さんは、このあとにこんな考察を加えている。

ぞうさんの長い鼻、それはいじめの対象にもなりかねないものである。ところが象の子どもは、自慢しているのである。「そうよ」のところで、いじめの対象にもなりかねない長い鼻を、なんと自慢の鼻に変えてしまうのである。そのように変えることができたのは、まど・みちおによれば、大好きなお母さん、尊敬しているお母さんもまた長い鼻を持っているという事実の指摘にある、というのである。このことを、第一に「ぞうさん」から学ぶことができる。発達心理学の立場から云えば、愛情によってしっかりと結びついている、心から信頼しているお母さんがいるから、ぞうさんは長い鼻を自慢できるのである。

これは、ぞうさんの背景には、まず「お母さんからの愛情と深い信頼関係」があるという指摘だ。僕もこれには基本的に共感する。そして同時に、鼻は長かろうが短かろうが、あろうがなかろうがいじめの対象になるとも思う。

だけどそれが愛情によって全面的に肯定されていれば、「違い」は「卑屈さ」を生まない

っていうことなんだと思う。

それでも苦しみを生み出すこともある「違い」に、覚悟を持って向き合う

そしてこのあと、金子さんはこのぞうさんの背景にあるもうひとつの重要な要素を指摘するんだ。

それと、もうひとつ重要なのは、象として生かされていることを素晴らしいことだと思い、幸せに思い、誇りに思っている点である。こういうことを教えてくれたお父さんがいたに違いないのである。長い鼻、それはぞうさんにとって、ときには苦しく逃げ出したい事実として迫ってくるものである。しかし、いつかその長い鼻に、向き直らなければなら
ない「とき」が来る。向き直って、大死一番の覚悟で、正面から見据えなければならない。

(中略)

それは、「お母さん」だけに任せておいて済ますことのできない、そんなに生易しい課題ではない。母性と共に、父性が必要だということである。

これも僕にとっても実感的に迫ってくる、重要な指摘だと思う。いくら身近なひとが自分の「違い」を全肯定してくれたとしても、いつかどこかで必ず否定的に見るひとが出てくる。そのときに、自分のことを正面から見据えて受け止めなきゃいけないときが来る。歌のなかではここまでのことは描かれてないけど、確かにそういうことまで想いを馳せてみると、もっとこの歌の味わいが深まると思う。

なお、この歌にお父さんが登場しない理由として、「象の社会は基本的に一番年上の女性をリーダーとする母系家族で、子育ては女性の群れのなかで行われる」という事実に基づいているという説もあります。

そしてもちろんこういう考えかたは、僕にも切実に重要なものだ

こうして『ぞうさん』の歌から拡げていろんなことを考えていくと、こういう思考は僕にとっても切実に重要なものだと思う。しかもさっきから引用している金子さんの文章(論文)のなかには、さっき挙げた「違いと向き合う」っていうことに関連した文脈でこんな記述があるんだ。

このような人間の精神を、身を以って示した人物の一人として淑徳大学開学者、長谷川良信をあげることができる。長谷川良信は、当時死の病とされていた結核に侵されている身であったが、大正 8 年、那古船形の療養所から帰京し、西巣鴨のスラム街、通称「二百軒長屋」に単身住みこみ、セツルメント・ハウスとして知られるマハヤナ学園を創設する。その時の実践指針「トゥギャザー・ウィズ・ヒム」こそは、淑徳大学建学の精神である。「人の為ではなく、人と共にでなくてはならない」という意味であり、「共生」ということである。ここで、共生とは、ただいっしょにいるだけですむものではない。辛い事実を正面に見据えて共に生きることである。たとえば、障害児の共生保育を考えたとき、障害をもつ子どもの、それによって付随する辛く苦しい事実を直視する、向き直ることである。

そう、まさに

「違いと必死の覚悟で向き合う」っていうことは、「障碍者」(社会的弱者・少数者)と呼ばれる僕たちにとって、どうしても避けて通れない、切実で、重要で、大切な課題だ

と思うんだ。だから僕も、この『ぞうさん』の歌のことを、そしてそこに込められたまどみちおさんの想いをよく噛み締めながら、僕も自分自身と、そしてその「違い」と、ちゃんと向き合い続けていこうと思う。

コメント

  1. どどこ より:

    四つ這いおとなさん、こんばんは。
     
    「ぞうさん」

    わたしも、ただほのぼのとした思いしかありませんでしたが、深い意味があったのですね。
     
    教えてくださって、ありがとうございます。

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