僕が初めてインターネット(パソコン)に触れてから、もう10年以上が経つ。その間に、インターネットの世界も大きく変わったと思う。
- なんかもっと、インターネットの世界も「こじんまり」としていたような気がする
- いい意味でも「アンダーグラウンド」というか、現実社会でつながれないひとやもの同士を掬い上げてつなげる感じがもっと強かったような気がする
- でも今のネット社会は、「現実」や「経済」と深く結びついて様変わりした
- もうすべてのものが、そこで「共有」される
- ネットは弱いひとの避難所じゃない。現実社会での強さは、ネットの世界にも流れ込む
- 「ネットが知恵袋化している」という指摘
- いつまでも変わらないものがないのはしかたがない。でもこの場所を必要としていたはずのひとたちが、真っ先にいなくなってしまうのは哀しすぎる
- でも僕は、あなたの言葉を聴きたかった
- 僕にもなにが起きるかはわからないけど、できるだけ続けたい
なんかもっと、インターネットの世界も「こじんまり」としていたような気がする
前に、

っていう文章を書いた。そこにも書いたけど、僕が初めてパソコンとかインターネットに触れたのは、確か10歳前後だったような気がする。そしてそれは、僕が自由に外を出歩けないこともあって、すごく革新的な道具だった。だけど今当時を振り返って思うのは、
ってことだ。
僕はさすがにリアルタイムではよく知らないんだけど、今みたいにGoogleとかの検索エンジンが広がる前は、あるウェブサイトにアクセスできるのはそのアドレスを知ってるひとだけだったんだって。まぁ、そりゃあそうだよね。だから、「相互リンク」とか「リンク集」なんかが大きな意味を持っていた。
このあたりのことは、たとえばこんなページを読んでみるとおもしろかったです。

こうしてみるとやっぱり、この頃のインターネットっていうのは、まだまだ「内輪の世界」っていう感じがするものだったんだと思う。
いい意味でも「アンダーグラウンド」というか、現実社会でつながれないひとやもの同士を掬い上げてつなげる感じがもっと強かったような気がする
だからこれは僕個人の印象によるところも大きいとは思うんだけど、当時のネット社会はもっともっと「アンダーグラウンド」って感じで、「現実社会」とはまた別の世界で、現実につながれないひとやもの同士が掬い上げられて緩やかにつながれる「地下社会」みたいな、そんな雰囲気がもっと強かったような気がするんだ。しかも今みたいに、AmazonとかGoogleとかFacebookがこんなに巨大な力を持ったり、ネットが完全な「インフラ」的役割を果たすなんて、思われてなかったと思うし。
それに、2000年くらいから少しずつ広まってきた「ブログ」っていうのも、もともとは「ウェブログ」(Web log)つまりは「ウェブ上に残す記録」くらいの意味合いで始まったはずだ。だから別に個人の日記以上のものじゃなかったし、ほんとにごく少数のひとたちに向けているか、あるいは単に自分の想いを吐き出してるだけのものも多かったと思うんだ。ただそれは、現実の社会のなかでなかなか言えないことだったり、言う相手がいなかったりするようなことを書ける場所でもあったんだと思う。
だから結局言いたいことは、
その頃のインターネットっていうのは、弱い(不器用な)ひとたちの避難所で、たまり場で、猥雑としてるけれど楽しくもある、そんな場所だったんじゃない?
ってことだ。
でも今のネット社会は、「現実」や「経済」と深く結びついて様変わりした
でも今のネット社会はそんな場所じゃないと思う。そこにはいろんな理由があるとは思うけど、僕なりにざっくり言うなら、
っていうことも大きな要因として挙げられるんじゃないかと思う。もちろんこれは言いかたを変えると、
ネットが発展して、成熟して、便利になって、前よりはるかに多くのひとたちに受け入れられるようになった
とも言えると思う。
そしてその結果、たとえばFacebookとかのSNSが発展して、そこでは実名もそのまま表されたりしている。それに、ネットが大きな力を持つことが明らかになるにつれて、それは経済と結びついて、もっと強い力を持つツールになった。今じゃ学校にも「情報教育」が普通に採り入れられてるし、ネットのない暮らしなんか誰にとっても考えられないんじゃないかと思う。
もちろん、これはいいことでもある。それに昔のネット社会が持っていた「猥雑さ」はかなり浄化された。2ちゃんねるだってなんだって、もうほんとの意味での匿名なんかじゃない。犯罪予告でもしたら捕まるし、ストーカー的な脅迫も許されない。もうネットは、みんなに見られてる。良くも悪くも、もうそこは「別世界」なんかじゃない。
もうすべてのものが、そこで「共有」される
だからそんなふうに変わった今のネット社会で発信されたものは、原理的になんでも「共有」される可能性を持つ。
一歩ネットに出たら、そこはもう「世界」だ。自分の名前も、学歴も職歴も、友人関係も家族構成も今日の朝ごはんだって、その気になればなんだって公開して、共有させることができる。そしてそれは、情報端末と方法が発達するにつれて、より自然に日常のなかに溶け込む。だからもう、日常そのものがすべて共有される時代が始まっているんだと思う。
今では、ネットの世界は現実の世界と融合した。そしてそこではあらゆるものが共有される。もちろん、「力関係」もだ。
ネットは弱いひとの避難所じゃない。現実社会での強さは、ネットの世界にも流れ込む
こうなると、ネットはもう昔のような「弱い(不器用な)ひとたちの避難所(たまり場)」なんかじゃなくなった。それまでの「現実社会」での強さが、そのままネットの世界にも流れ込む。だからそこでは、
ってことが起きる。だってさ、みんながなにかを買ったり、どこかで遊んだり、誰かと会ったりしてることを発信してるのに、そこで自分がいかに苦しいかを書いたところで、周りと比べて自分が余計に惨めになるだけじゃない!
しかも、昔よりネットの世界はそれぞれがつながってスポットライトがよく見えるようになった。そしてそれを、前よりずっと多くのひとたちに見られるようになった。
でもそれが、だんだんと難しくなってきている。
「ネットが知恵袋化している」という指摘
前にどこかで、
今のネットは、もう知恵袋化してるんだよ
っていう言葉を見た。これには僕も、心底ハッとして、共感した。
この「知恵袋」っていうのは、「スキル集」とか、「ライフハックツール」なんて言い換えてもいいだろう。
ってことだ。じゃあそうじゃない、原初的な意味での「ブログ」(自分の素朴な記録)はどう捉えられるかって言ったら、「価値のないもの」とされるか、あるいは「書き換えるべきもの」と見なされる。こんなふうに。
子供の運動会があったから
「子供の運動会!」って記事タイトルで
子供の写真を貼って
親バカのごとく子供の話を書いても
誰もよまねーよ、ばーかって話。
オナニーは人に見せるな、一人でやれ。
でもね、子供の運動会って
多くの人に読んでもらうための絶好のネタ。
じゃあどんな風に書けばいいのか。
例えばこんな風な記事を書けばいい。
「子供の運動会で写真をうまく撮る3つのコツ」
「子供の運動会で動画をうまく撮る5つのコツ」
「子供の運動会でラクに作れるお弁当レシピ」
「子供の運動会に持参すると便利な5つの道具」
「子供の運動会でやってはならない3つのこと」
どうです?
「子供の運動会!」
「子供の運動会に行ってきた!」
なんて記事タイトルより
はるかに読みたいと思うでしょ。
「子供の運動会!」って記事タイトルだから読まれない。運動会ネタで読まれるブログにするための方法とは? | 好きを仕事にする大人塾「かさこ塾」塾長・カメライター・セルフマガジン編集者かさこのブログ子供の運動会があったから 「子供の運動会!」って記事タイトルで 子供の写真を貼って 親バカのごとく子供の話を書いても 誰もよまねーよ、ばーかって話...
このひとの言ってることがある部分正しいのもわかる。しかもこの文脈が
好きを仕事にする大人塾
にあるならなおさらだ。それが仕事なら、相手のためになることを、相手が求めてることを、相手の目線から書こうとする姿勢は当然求められるものだろう。
でもさ、最初にこのひとが書きたかったことは、
運動会ではこんなふうに写真を撮るといいですよ!
運動会のお弁当はこんな感じでどうでしょう?
ってことだったんだろうか?違うよね?
こどもの運動会があったよ!
っていう、その純粋な気持ちなんだよね?
だったら、それを書いたっていいじゃないかと思うんだよね。だってさ、僕は思うんだよ。
いつまでも変わらないものがないのはしかたがない。でもこの場所を必要としていたはずのひとたちが、真っ先にいなくなってしまうのは哀しすぎる
そりゃあ、ネットだってなんだって変わっていく。
昔はよかったなぁ……
なんて言い出しても現状は解決しないのもわかるよ。
もちろんこれすら、僕の個人的な考えかただと言われたらそのとおりだ。
だけど残念なことに、僕のような考えをするひとは少数派になってきてるらしい。それに、今みたいにみんなが「PV数」とか「収益」なんかをどんどん公表していくようになったらなおさら、
こんな誰にも読まれないで1銭にもならないこと、なんで続けてるんだろうなぁ……
なんて思っちゃうのもわかる。しかも、さっきのひと以外にも
好きなことを自由に書いても人気は出ないよ!
っていうひとは多い。
好き放題に記事を書くことで何が起きるかというと、読者離れである。ブログを更新し続けると定期購読者というのは増えていくように思えるのではないか?実は違う。自分の好きに意思を発出してあけすけにものを語っていくと、読者が減るという現象を目の当たりにする。「何を書いているんだ」「思ってたよりも、この人なんか違う」理由は人それぞれであろうが、断言するような物言いが増えたブログに見切りを付けて定期購読を止めるものと思われる。
自分の考えを自由に発信していくことと人気を得ることの相違 - ポジ熊の人生記好きにブログを書くことと、人気を得ることはイコールにはなり得ない。現実世界も一緒で、自分の言いたいことを言っている人は少なからず嫌われるもんだ。
こんなことを言われたら、
自分を出せないなんて、苦しいだけだよなぁ……時給で言えば、コンビニバイトのほうがずっといいし……
なんて考えてしまうのも無理はない。そして実際、ほとんどのひとが、苦しかったひとがもっと苦しくなって、ネットの世界から去っていく。
でも僕は、あなたの言葉を聴きたかった
この経験は、僕がこの『四つ這いおとな』を始めてからの半年間に限っても、たくさん見てきたことだ。たとえば、
うつで休職した会社員が社会復帰をめざして奮闘したりぼやいたりするブログ。
っていうのでたまたま見つけて読んでいた『うつのキセキ。』っていうサイトは、気付いたら消えていた。今でも
みたいに話題になったいくつかの文章は保存されてるけど、もちろん全部じゃない。『うつ病の悩みを相談できないなら、ブログを書きましょう。』なんて言っていたのに、それでもいなくなってしまった。
他にも
っていう文章でたくさんのひとに影響を与えた『T.が過去を振り返る』っていうサイトも、そのあとはぽつりぽつりとしか書かれていない。ついこないだ
っていう文章が追加されていたけど、その前の文章からは2か月くらい空いている。このままの感じで行けば、もしかしたらいつの間にかいなくなってしまうんじゃないかとも思う。
それに僕が誘われて加入して、気付いたら

なんてことになっていた『はてなファイトクラブ』も、僕も入れたメンバー26人のうち、2週間以内に更新したのは半分くらいで、100日以上休止状態になっているひともいるし、このまま行けば復活しないまま消えてしまうかもしれない。これが現実だし、もし本人がしあわせで充実したから離れていったならいいんだけど、そうじゃないんだったらやっぱり哀しいし、率直に
もっといろいろ聴きたかったなぁ……
と思ってしまう。
僕にもなにが起きるかはわからないけど、できるだけ続けたい
でもこう言っている僕ですら、実際にはいつまで続けられるかはわからない。でもできるだけ続けたいとは思っている。

だから僕は、たとえほとんどのひとに関係ない話だろうが、とりとめのない話だろうが、書きたいと思うことを、伝えたいと思うことを、伝えていきたいと思う。
強くないなら生きていけない。競争原理はどこまでも染み込んでいる。それは確かに「現実」のありようかもしれない。でもそういう強さを求め、強さを誇示する流れ。言ってしまえば「強さの波」がどんなに押し寄せてきても、僕はなんとか行けるところまで行きたいと思う。僕は弱いからこそ、自分になにが必要なのかはよくわかっている。だから僕は、あなたと一緒にいる。自分の作った場所の意味くらい、自分で決める。言いたいことくらい、自分で言う。そして僕はあなたの言葉を、ちゃんと聴く。


コメントをどうぞ
お金にも有名にもなりませんが、ささやかに長くやっていると、その行動そのものがひそかに誰かの生きる励みになっていたりするようです。
時々、そういう言葉をいただいて、逆にそれが自分の励みになったりして…。
そういうブログのあり方があってもいいな、と何人かの読者の方に教えていただきました。
それでいいんじゃないでしょうか? (^_^;)
はるうさぎさん、こんにちは。
そうですね、そういう存在でいられたら嬉しいですよね。
それにはるうさぎさんは12年でしたもんね、すごいことだと思います。
僕も自分なりにではありますが、緩やかにふんわりと続けていけたらと思っています。
とても共感出来ます。私が思うのは情弱という言葉が産まれた背景です。
ネットは昔は趣味の1つというポジションだったのに、今はありとあらゆることが”知っていて当たり前”になってしまいました。
それも弊害の1つだなあと思うんです。
主様の仰ったことはオンラインゲームでとても顕著です。
昔は、古参(古くからのユーザー)が新人さんの面倒を見るのは割と珍しくない光景だったらしいです。
ゲームの遊び方を教えたり、一緒になって遊んだり。
でも今のオンラインゲームは、”効率”がとても優先されます。リアルと同じ競争原理が働いているんです。昔は新人さんは”ゲームという趣味を共有する相手”としての意味合いが強かったらしいのですが、今はプレイスタイルが違うと、”自分の楽しみを邪魔する相手”という認識の方が多いように見受けられるんです…。
これに近いことがネット世界全体に広がってるように思えるんです。
主様の仰りたいことが如実に出てしまっていると思うんです。
今って昔よりも色んな方と繋がれるようになりました。その一方で価値観の先鋭化とでもいいましょうか、自分と近い価値観の方と繋がりやすい分、異なる価値観の他者を排除しようとする傾向がとても強いような気がします。オープンなようでいてクローズとでも言いましょうか…。
話がズレてしまうのですが、大正時代とかの昔は、職種は32万位あったそうです。
現代は2千6百位。
昔だったら働けた人(職種が沢山あったから)も現代だと働けなかったり…。
ネットって本来はとてもとても自由なツールであったはずなんです。
それなのに現実と同じように競争原理が働くことで、効率という価値観の先鋭化が進み、選択の自由さが失われて不自由になりつつあるように思えます。
それは価値観の多様化からは逆行しているのではないでしょうか。
きんくまさん、こんにちは。
ええ、僕自身も一時期オンラインゲームをプレイしていましたので、実感としてもわかる気がします。
そしてきんくまさんもおっしゃるように「効率主義」が染み渡ってきた結果、ゲーム(趣味・遊び)が仕事(義務感・成果主義……)に変質しているような気がして、心苦しくなったのでやめてしまいました。
結局のところ、確かに部分的には価値観は多様化しているものの、全体としては「効率主義・経済主義」という価値観があまりにも圧倒的なことが、いろいろな息苦しさを引き起こしている気がします。
もちろんそれともうまく折り合いをつけていく必要はあるにせよ、それにがんじがらめにならないように気をつけながら、もっと気をラクにいろんなことをしていきたいなぁと思っています。
収入税による、効率主義と、短期決済による超資本主義をはき違えているよ。
かじかわさん、こんにちは。
ただコメントは確かに読んでみたのですが、その意味を把握して自分なりに答えられるほどの見識がありません。ごめんなさい。