『The Eyes of A Child』。僕も自分の眼で徹底的に見つめ続けて、偏見を乗り越えたいと思う

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Noémi Association The Eyes of A Child ある母親と息子の場合

ある社会実験を記録した動画を見た。それは2年前に公開されてから、今までに300万回以上再生されたものだった。

ビデオに映し出されるひとのヘン顔を、親子それぞれが真似てみる実験

それがこれだ。

これはフランスで行われた実験みたいだから、最初の説明も英語とフランス語で書かれている。それを読むと

Parents with their children were invited to participate in an educational game.

親御さんたちはこどもと一緒に、ある「教育的なゲーム」へ招待されました

なんて持って回った書かれかたをしているけど、見ていくと趣旨はそんなに複雑じゃないとわかる。要するにこれは、

親子が間仕切りで隔てられたうえで、それぞれビデオに出てくるひとのヘン顔の真似をする

っていうだけのことだ。ビデオに出てくるひとも実験の参加者親子も男女とか年齢層はバラバラだけど、やってることは同じだ。これだけなら、どこが「教育的なゲーム」なのかはよくわからない。すごく楽しそうではあるし、

このひと、顔真似上手だなぁ……

とかは思ったけどね。

でもある「障碍者の女性」が現れた瞬間、その場の空気は一変した

でも実はこの実験の核心はそのあとにあったんだ。淡々と5人の男女がヘン顔を披露してそれを真似るっていうのが続いたあと、最後の6人めに唐突に「異質な存在」が現れる。それが、障碍者の女性だった。

ただ、やってることは今までの5人と変わらない。指を鼻の穴に突っ込んで、ベタなヘン顔を披露しているだけだ。でも、それがいかに異質な存在なのかは、そこにいるおとなの反応を見ればよくわかる。端的に言えば絶句、困惑、ともかくどう反応したらわからないみたいだ。

だけど、ここでもうひとつ大切なことは、

こどもたちの反応は、それまでと一切変わらなかった

ってことだ。そしてこの違いは、おとなとこどもの間に仕切りがあることでよりはっきりと表されていた。そして僕が特に興味深いと思ったのは、その女性への反応が映し出されてから5組め、ある女の子とお父さんの反応だ。

そのお父さんは、他の親御さんと同じように戸惑った表情を見せたあと、一瞬娘さんの反応を伺うんだ。

Noémi Association The Eyes of A Child ある父親と娘の場合

これはほんとに短い時間だし、これだけだと娘さんが今までどおり顔真似をしてることを見ることができたのかはわからない。でも結局すぐに顔を逸らして、また戸惑いの表情に戻るんだ。

ただもしここで娘さんの姿が見えていたとしても、お父さんはそれを注意するようなことをしなかったのは確かだ。そしてこの場面では、明らかに娘さんのほうに非はない。だって、娘さんはただ素直にゲームのルールに従って遊んでいるだけなんだから。

だけどかといって、お父さんが娘さんと同じように顔真似をすることもなかった。そしてそのどうしようもなさが、そのあとの表情にも表れていたんだと思う。

『The Eyes of A Child』。こどもたちの目線は素直なの?それは残酷なの?

ここに来て、この実験動画のタイトルが

The Eyes of A Child

であること、それにこれが「教育的なゲーム」と言われた理由がわかった。そしてこの動画の最後には

LET’S SEE THE DIFFERENT WITH THE EYES OF A CHILD

「違い」を、こどもの眼を持って見つめてみましょう

っていう言葉が添えられている。このすべてが大文字で書かれていることからも、これがこの動画全体でいちばん伝えたいメッセージなんだろうと思う。

だけどこう考えてみると、同時に昔から言われてきたこんな言葉が思い浮かぶ。

こどもたちは素直だから。でもそれは、残酷なことでもあるよね

相手の気持ちを思いやったうえで、素直に自分の気持ちを伝えるということ

確かに、僕もこの意見には一理あると思う。それに僕自身、保育園から中学校のときくらいまではよく、自分の姿を真似されて笑われるようなことはあった。そしてそこには確かに悪意があって、それは「隠されもせず素直に」表現されていたから、僕も傷ついたし、その意味では残酷だったと思う。

だけどそれが逆方向に触れすぎて、なんでもかんでも「腫れものに触るような扱い」にすればいいのか、それが「おとなになる」ってことなのかと言われたら、僕はそうじゃないと思うんだ。

このような部分については、こんな文章からもいろいろ考えさせられました。

日本でも最近耳にするようになった言葉だが、アメリカでは多くの人が、日本人の想像以上にポリティカルコレクトネスに気を遣いながら暮らしている。

それに、今回はヘン顔を真似るっていうのが趣旨だ。そしてあの6人めの女性も、その「ゲーム」に参加するために、自分のできる限りのヘン顔をしただけだ。そこに「障碍者」だとかなんだとかは関係ない。そりゃあ彼女も実験結果はある程度予想できていたと思うけど、それでも彼女だってその顔を楽しんでほしい気持ちはあったはずだと思う。

少なくとも僕なら、そういう気持ちで参加する。たとえそれがある種の「オチ要員」だとわかっていてもだ。

しかもあの親子に求められているのは、ただそれを「真似てみる」ってことだけだ。おもしろいかどうかを判定しろとか、おもしろいなら全力で笑ってくれとか、そういうことを求めてるわけでもない。だったら、それにはただ単純に応えてあげればいいと思う。

失礼とかそんなことはない。だってそれが、相手の気持ちでもあるんだから。

だけどさ、とはいえ単純に割り切れない部分もあると思う。僕たちはもうどのみち「こどもとまったく同じ目線」なんか持てないんだから。

でもだったら、それはそれで素直に言えばいいんだと思う。

いや、この流れで唐突にあんたに出てこられても笑えないよ!反応しづらいし!

とかね。もし僕がビデオ出演者なら、そう言われても一切傷つかない。むしろ

そうですよね〜

って言うくらいだ。しかも僕としては、

それならそれでそうやって素直に伝え合ったほうが、かえって笑いが生まれるというか、場の雰囲気が和むんじゃないかと思うんだ。

もちろん、これは相手の態度とか自分の言いかたとか信頼関係とかいろんな要素によるよ?でもそうやって

相手の気持ちを思いやったうえで、素直に自分の気持ちを伝えるってことができることこそが、ほんとの意味で「おとなになる」ってことなんじゃないかと思うんだよね。

そしてやっぱりこの場合においては、真似されたいヘン顔を素直に真似るっていうこどもたちの反応のほうが、よっぽどいいと思うんだよね。

「偏見」を乗り越えるには、自分の眼でしっかり見つめ続けるしかないと思う

結局この実験をひと言で表すなら、

「偏見」ってなんなんだろう?

っていうことを問いかけたものだとも思う。そして

その「偏見」っていうのは、言い換えれば「先入観」だとも言えるし、「無知」だとも言えるし、「誇張」(特定の個人の特徴を集団全体に適用してしまう)ってことだとも言えるし、「思考停止」だとも言えると思う。

それでそういうのを乗り越えるためのこの主催者のひとつの提案が、さっきも書いた

LET’S SEE THE DIFFERENT WITH THE EYES OF A CHILD

「違い」を、こどもの眼を持って見つめてみましょう

だとも思うんだけど、僕にはこれでもまだ足りないと思う。確かにさっき僕自身も言ったとおり、今回の実験ではおとなよりこどもの対応のほうが好印象だし、ゲームの趣旨から言ってもそれが正しいと思う。

でもそれをいろんな場面に応用して考えたときに、もしそれが単に「考えなしにただ自分の想いをぶしつけに表現しただけ」だって言うんだったら、やっぱりそれは「残酷さ」になり変わるものだとも思うんだ。

だから、僕ならこう言い換える。

偏見を乗り越えるには、自分自身の眼で、徹底的に見つめて、考え抜くしかない。

って。

もちろん、それで出した「答え」がおかしいこともある。それはそれがあくまで「自分の眼からみたもの」(体験)に沿っている以上当然だとも言えるだろう。でもだからこそ、

僕たちはお互いにそれを伝え合って、一緒に考えて、どこまでもその「答え」を再検討していくしかないんだと思う。

だから僕は、

現代の日本みたいな社会では、一応表向きでは差別はしちゃいけないよ!ってことになってる。これを「区別」とどう分けるかっていう問題は...

って思うんだ。

最後に、僕が主催者の『Noémi Association』さんについて少しだけ気になったこと

これで僕の感想はだいたい言い終わったんだけど、最後にこの実験の主催者、Noémi Associationさんについて少しだけ気になったことを書いておこうと思う。

それはこの動画の説明文に書かれてる、自分の団体の紹介文についてだ。そこにはこう書いてある。

The Noemi association wants to change the way society looks at people with multiple disabilities. Its mission? To improve their daily lives. The association wants us to look at these people in a positive way and to respect their dignity, while bringing them joy and happiness.

本来これはフランス語が原語なんだからそっちを訳すべきなんだけど、残念ながらその語学力がないから英語訳から孫訳するしかない。

で、その前提を踏まえて自分なりに訳してみると、僕にはこんな感じに解釈できる。

Noemi associationは社会が障碍者へ向ける視点を変えたいと願っています。ではその使命とはなんでしょうか?彼らの生活をよりよくすることです。私たちはそのようなひとたちをポジティブに捉えて、彼らの尊厳を尊重し、彼らに楽しみとしあわせをもたらしてほしいと思っています。

まず最初に言っておきたいことは、このNoemi associationの理念は基本的には僕も共感しているってことだ。特に初めの文

The Noemi association wants to change the way society looks at people with multiple disabilities.

Noemi associationは社会が障碍者へ向ける視点を変えたいと願っています。

についてはまったく同感だ。強いて言えば「disabilities」の言葉選びに若干の不満はある(僕なら「handicapped people」にする)けど、いずれにしてもそれを「社会的な要素」として捉えているなら根本的には異論はない。しかも、フランス語では

polyhandicap

って書かれてるし。

ただ僕が気になるのはそのあとなんだ。改めて見るとそこには

Its mission? To improve their daily lives.

ではその使命とはなんでしょうか?彼らの生活をよりよくすることです。

って書いてある。じゃあその「彼ら」っていうのは誰かって言ったら、文脈から言って「障碍者」だと捉えるのが自然だと思う。それはそのあとの

these people

とか

their dignity

while bringing them joy and happiness.

についても同じだ。そしてそこが僕には少し残念なんだ。

「障碍者のしあわせ」と「健常者のしあわせ」は別物じゃなく、表裏一体だ

なぜかって言ったら、そこで「障碍者の」っていう表現をしてしまうと、その「障碍者」に共感できないひと、もっと言うと自分を「健常者」だって捉えているひとたちには届きにくい、あるいは単に、

つまり、「権利要求」だろう?

みたいに捉えられる可能性があると思うんだ。もちろんNoemi associationさんが「障碍者支援」を柱としている団体だからこそそういう表現になるのもわかるし、その想いは深いんだろう。でもだからこそ、そして障碍っていうのを社会的な問題だと見なしているならなおさら、

「障碍者のしあわせ」と「健常者のしあわせ」は別物じゃなく、表裏一体だ

っていうことをもっとはっきり打ち出してほしかったと思うんだ。

だから、僕はこの団体の思想に大筋で共感したうえで、もし自分ならこう言い換える。

Noemi associationは社会が障碍者へ向ける視点を変えたいと願っています。ではその使命とはなんでしょうか?私たちの生活をよりよくすることです。私たちはたとえどんな肉体的・精神的・個人的状況にあっても、そのいのちや存在をポジティブに捉えて、すべてのひとたちの尊厳を尊重し、それぞれに楽しみとしあわせをもたらしてほしいと思っています。それはもちろん、私とあなたのしあわせを深めることにもなると信じています。

そしてこの主語を僕自身に置き換えて、どうやったらこんな社会の実現に近づけるかを、これからもずっと考え続けて、できることをしていきたいと思う。

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