僕のは「リハビリ」(機能回復訓練)じゃない。だって最初からないんだから。でも、社会の機能は回復する

広告
ストレッチをする2匹の蛙

僕は病院で自分のからだを定期的に診てもらうときには、「リハビリテーション科」に行ってる。あるいはもっとざっくり分けるんだったら、これは「整形外科」の一種だとも言える。実際、僕自身も何度か手術を経験してるし、その意味でもこの整形外科が受け持つのは自然な分類だとも思う。

よく、「リハビリがんばってね!」なんて言われるんだけど……

でね、こんなふうに生活してたり通院したりすると、よく誰かに

リハビリがんばってね!

なんて言われることがある。「がんばって」ってなんて言われると若干プレッシャーに感じるとか、そもそも社会のほうを治してほしいなぁとか、そういうのはいったん措いといて、単純に

ありがとうございます!

なんて返すようにはしてるんだ。そのほうがお互い気持ちよく収まるし、その場でそれ以上のやりとりをする関係性も時間もないしね。

だけどほんとは、こういう言い回しには少なからず違和感があるんだ。そのなかでもさっきも言ったような

「がんばって」っていう言葉がつらく感じることも多いよね……

って話はもういろんなところでされてることだし、とりあえずここではひとまず措いておくことにする。でも実はそこにある違和感の原因はもうひとつあるんだ。

リハビリ(リハビリテーション)っていうのは、「機能回復訓練」なんて言われるんだけど……

それはこの「リハビリ」っていう言葉にあるんだ。これはリハビリテーションの略で、日本語だと「機能回復訓練」なんて訳される。たとえばここにもこんなふうに書いてあるようにね。

「リハビリテーション」を略して使われている「リハビリ」は、病気や怪我をした時に、「筋力をつける、関節の動きを良くする」など、機能回復訓練を指すことが多い。

引用元「『リハビリ』って『機能回復訓練』のことですか?」:埼玉県立大学 WEB講座 平成23年7月

でもこういう視点から見れば、僕のやっていることが「機能回復訓練」だというのはしっくり来ないんだよね。

だってそんな「機能」なんて僕には「最初からない」んだから。

最初からないものを得るのは「回復」じゃない。「獲得」だ

「回復」っていうふうに言われると、

「もともとあったものをもういちど取り戻す」

っていう感じがする。実際、一応辞書を引いてみても

かい‐ふく〔クワイ‐〕【回復/×恢復】

[名](スル)

1 悪い状態になったものが、もとの状態に戻ること。また、もとの状態に戻すこと。「健康が―する」「ダイヤの乱れが―する」
2 一度失ったものを取り返すこと。「名誉を―する」「信用―」

なんて書いてあるから自分の感覚もそんなにおかしくないと思う。

でもそれならやっぱり、僕のしていることは「回復」じゃないと思うんだ。

そりゃあ厳密に言えば、僕が超未熟児として生まれてから脳が麻痺するまでのわずかな間、僕にはその「機能」(が育まれるはずの土壌)があって、それを失ったと言えばそう言えなくもない。だけどそんな憶えてもいないくらいわずかな期間の話をされたって僕本人としてはどうしようもない。だから

僕自身にとっては、これは「悪い状態」でも「損なわれた状態」でも「機能を失った状態」でもない。言ってしまえばそれが「初期状態」なんだ。

そしてそこから言えることは、

たとえ大勢のひと(社会の多数派)が「最初からできること」であったとしても、それは僕にとって「回復する」ものじゃなく、「獲得する」ものなんだ

ってことなんだ。

僕にとっては、歩くのも飛ぶのもほとんどおんなじだ

なんで僕が「回復するんじゃなくて獲得する」っていうところを強調するのかって言ったら、それが回復するのと違って、

できていたときの経験とか記憶みたいな手がかりがまったくない

ってことを伝えたいからだ。だからたとえば、

歩行器を遣えば歩けるし、両手で支えれば歩けるのに、なんであと少しができないんだろうね?

なんて言われても、

どこをどう動かせばいいかのイメージがまったく湧かないんだから難しいんだ。

それはまるで、鳥に

なんで人間は飛行機もヘリコプターも作れるのに、自力では飛べないんだろうね?

なんて言われてるのとおんなじような気分なんだよね。

だから僕にとっては、歩くのも飛ぶのもおんなじなんだ。人間が飛べるようになるのが難しいのと同じくらい、僕が歩けるようになるのは難しい。それはほんとに、「新しい機能を獲得する」ってことだからだ。

ただ「リハビリ」の定義にも、実はだんだん社会的な要素が採り入れられてきている

ただここまで書いてきたようなことは今の一般的な理解に沿ったもので、実際は「リハビリ」の定義も移り変わってきて、だんだんと社会的な要素も含めて考えられるようになってきている。さっき引用したページにも、続きはこんなふうに書いてある。

「リハビリテーション」の日本語訳は、療育・更生・機能訓練・社会復帰などと訳されてきましたが、「リハビリテーション」という言葉が本来持つ意味合いを的確に表現することが難しく、1960年頃から「リハビリテーション」という言葉がそのまま使われるようになり、法律用語としても使用されるようになりました。

2、「リハビリテーション」の対象と役割について

対象となる方は、身体障害の方だけではなく、精神障害、発達障害、高齢期障害などにより、生活に支障を来たしている乳幼児から高齢者の方まで広範囲にわたっています。

このような方々を対象とする「リハビリテーション」の役割は、「対象者の方が望む生活の場で、対象者の方が望む生活を再構築し、その生活の維持・向上を図る」と、広く捉えるようになってきています。その為に、対象となる方の障害の内容や程度、年齢やリハビリテーションの目的などにより、医学的側面からだけではなく、教育的・職業的・社会的側面からのリハビリテーションが必要とされています。

(中略)

「リハビリ」は「機能回復訓練」だけではないということが、お分かりいただけたかと思います。

引用元「『リハビリ』って『機能回復訓練』のことですか?」:埼玉県立大学 WEB講座 平成23年7月

そしてこういう変化は、この文章にもよくまとめられていた。

リハビリテーションの理念は、医学的リハから、職業的リハ、全人的復権へと変遷しています。

・リハビリテーションとは、「障害者をその人にとって可能な限り最高の身体的、精神的、社会的、職業的および経済的な有用性をもつまでに回復させることである。」(1942年、全米リハビリテーション協議会)

・「リハビリテーションとは、障害者の機能的能力を最高レベルに達せしめるために、固体を訓練あるいは再訓練するため、医学的、社会的、教育的、職業的手段を組み合わせ、かつ相互に調整してもちいること。」(1968年、世界保健機構(WHO)の総合リハビリテーションの考え方)

・「リハビリテーションとは、身体的、精神的、かつまた社会的に最も適した機能水準の達成を可能とすることによって、各個人が自らの人生を変革していくための手段を提供していくことを目指し、かつ、時間を限定したプロセスである。」(1982年、国連「障害者に関する世界行動計画」の定義)

ここでは介護福祉士試験に必要なリハビリテーションとは何か?について説明しています。様々なリハビリテーションがありますので、要点をおさえておきましょう。

そしてこういう社会的な視点は、WHO(世界保健機構)の1981年の最新の定義や他の団体の提唱する定義を見てもはっきりと言及されている。

◇リハビリテーションの定義(WHO,1981)

リハビリテーションとは、能力障害あるいは社会的不利を起こす諸条件の悪影響を減少させ、障害者の社会統合を実現することを目指すあらゆる措置を含むものである。

リハビリテーションは障害者を訓練してその環境に適応させるだけでなく、障害者の直接的環境および社会全体に介入して彼らの社会統合を用意にすることをも目的とする。

障害者自身、その家族、そして彼らの住む地域社会はリハビリテーションに関係する諸種のサービスの計画と実施に関与しなければならない。

◇地域リハビリテーションの定義(日本リハ病院協会,1991)

地域リハビリテーションとは、障害を持つ人々や老人が、住み慣れたところで、そこに住む人々と共に、一生、安全に、生き生きとした生活が送れるように、医療や保健、福祉及び生活にかかわるあらゆる人々が行う活動のすべてを指す。

◇地域リハビリテーションの定義(ILO、UNESCO、WHO,1994)

地域リハビリテーションとは、障害のあるすべての人々のリハビリテーション、機会均等、そして社会への統合を地域の中において進めるための作戦である。そして、地域リハビリテーションは障害のある人々とその家族、そして地域、更に適切な保健、教育、職業及び社会サービスが統合された努力により実施される。

だから僕も自分とちゃんと向き合う。そしてみんなで一緒に、リハビリをしていこうね

こうして見てきたうえで僕が感じることは、

まず僕にとって必要なことは、自分自身とちゃんと向き合うことだってことだ。僕は僕でしかないし、回復するような失った力はない。もっと率直に言えば、長期的にはこれからますます失っていくことになるだろう。でもそんななかでも、自分とちゃんと向き合うことでなにかを「発掘」できるかもしれない。それは、自分を誰かの基準に合わせることじゃなくて、自分の力をちゃんと見つけ出すことだ。

そして「リハビリ」っていうのを社会的な視点から見つめるなら、

リハビリはみんなでやるものだ。だってそれは、社会の機能回復訓練なんだから。

だからもし今度また

リハビリがんばってね!

って言われたら、心のなかではこう言おうと思う。

はい、一緒にやり遂げましょうね!

ちなみに今の日本ではほとんど知られていないし話が錯綜するので省きましたが、ここでも書いたような「回復ではない」という捉え方のもと、「リハビリテーション」(機能回復訓練)ではなく「ハビリテーション」(療育)という言葉が遣われることもあります。関心を持ったひとは、たとえばこのページなどを読んでみてください。

ハビリテーション:

50年代に入ると、生まれつき身体障害を持つ児童に対するケアの中で、児童やその家族などの状況やニーズへの関心や理解が深まり、特にイギリス・オランダ・アメリカなどで児童に対する「ハビリテーション」の考えが発達してきました。
生まれつき機能障害を持つ児童、あるいは自閉症やその他、生まれてから早期に 機能障害を持つ児童は、「元に戻す」のではなく、その状況を基点として、その人の持つ機能の発達に焦点を当てなければならないわけです。つまり、回復を見込んで治療するのではなく、その機能を有能化していくということです。

スウェーデンにおいてもこの治療に対する新しい考え方が広まっていき、施設や今まで家庭の中で隠れるように暮らしていた脳性マヒによる障害を持つ児童たちに対して、理学療法の治療や知的能力刺激などの治療を始めました。
やがて教育界や医療の分野においても、「生まれつき、あるいは早期に機能障害を持つ児童は、回復という次元で治療、療育することは出来ない」という観点が広まりました。

そして、今までのように障害というものを治す対象として、医療や療育の範囲で治療によって社会参加をさせるという視点から、障害を持ちながらも社会参加出来るための条件を、社会的にも整えていかなければならないというように、考え方の方向が変わっていきました。

引用元「リハビリテーションとハビリテーション」:クラブEKO

コメント

  1. きんくま より:

    主様、こんにちは。

    ハビリテーションの考え方は良いですね。

    はい、一緒にやり遂げましょうね!

    これを心の中でなくいえるような世の中にいつかなると良いですね。

    私は今、就労移行に通っているのですが1つモヤモヤしていることがあって、結局プログラム内容が、いかに定型の社会&人に合わせるかという内容だと感じるのです。

    勿論、世の中の圧倒的多数の方や社会は定型なので大切ではあるのですが、何ていうんだろう、定型に近い人が良い障害者なの?みたいな…。

    別記事にコメントさせて頂いた、重度知的障害等を抱えている方についての働き方もそうですが、障害は個性だ!と言っているわりには、いかに健常者もしくは定型に近づけるかというリハビリテーション的な考え方がまだまだ主流であるように感じます。

    そうではないハビリテーション的な考え方が主流になるといいなと思います。

    この考え方は障害のことだけでなくて、教育現場ですとか(平均モデルに合わせようとする)家族関係ですとか(まだまだ異性の二親がいることに価値がおかれている)でも必要な視点なような気がします。

    • きんくまさん、こんにちは。

      勿論、世の中の圧倒的多数の方や社会は定型なので大切ではあるのですが、何ていうんだろう、定型に近い人が良い障害者なの?みたいな…。

      別記事にコメントさせて頂いた、重度知的障害等を抱えている方についての働き方もそうですが、障害は個性だ!と言っているわりには、いかに健常者もしくは定型に近づけるかというリハビリテーション的な考え方がまだまだ主流であるように感じます。

      そうですね、こういう考えかたはまさに障碍を「個人的」なものとして、「内部にある疾患」として、「自分を中心とした努力で治すもの」として捉える「医学モデル」に引きずられるかたちで生まれているものだと思います。

      もちろんお互いが協力し合うためには「双方の歩み寄り」が必要なのは前提としても、やはり障碍は社会的要素(社会モデル)として捉えていかなければ限界を超えられないと思っています。

      そしてそう考えることで、「障碍」の定義が広くなり、もっと幅広い分野を巻き込んだ話し合いにつながることを、僕も心から願っています。

  2. きんくま より:

    ご存じかも知れませんが、リタリコの社長の長谷川敦弥氏も言っておられますね、障碍は「社会の側」にあると。

    ある特例子会社の社長さんも言われたみたいなのですが。

    「障碍者を障碍者のままにしておくのは健常者の怠慢である」

    この発言の本質も主様の仰っていることと同義なのだと思います。

    個人的に思うのですがまずは知識の共有が一番大事かなと思うのです。義務教育中に障碍についての勉強する時間があったらと思うのです。人はいつでも病気や事故で障碍者になりえるのですから。(というか必ず人は老いて機能低下は確実にあるのですから)

    後障碍者側も、自分の属さないカテゴリの障碍については知らないことがほとんどだと思うのです。

    例えば私は身体障碍の方の困難が大変だろうなとは想像出来ますが、具体的にはわかりません。此間、病気で足がなく両足義足で生活している方の記事を読み、雨の日の移動が命の危険を伴うのだ、ということを恥ずかしながら最近知りました。

    そこまで大変だったのか…と。

    障碍者同士でもこうなのです、健常者の方も身内だったり仕事で接していないと、本当の意味で困難を想像することが難しいのではないかと思うのです。

    逆に1人でも多くの方が、障碍に興味、関心知識を持って下されば、社会は前進するのではないでしょうか。多くの方が言われてますが、障碍者の住みやすい多様性に溢れた社会は、畢竟、健常者や定型の方にも住みやすい社会だと思うのです。

    いつも長文ですみません(汗)

    • そうですね、僕も基本的にまったく同感です。

      そしてそれは結局は「教育の問題」でもある以上、そこに「学校」が果たせる役割はとても大きいと思いますし、その意味でも「養護学校/普通学校」の区分けは将来的には早くなくなってほしいと強く思っています。

      ですがそれはなかなか自分だけの力では難しいですし、いずれにせよ時間もかかるでしょう。だからこそ、まずは日常からでもいろんな話し合いをしていけたらと、いつも思っています。

      僕もきんくまさんのことをまだまだほとんど知りませんが、いろいろ心のうちをお伝えくださって、そして僕の話も聴いてくださって、ありがとうございます。

      それから、僕も長文で書くことが多いですし、きんくまさんもまったく恐縮する必要はありません。

      これからも無理のないペースと距離感から、ゆるやかにお付き合いいただければと思います。よろしくお願いします。

トップへ戻る