こないだ、こんな文章を書いた。

ここで僕が言いたかったことをすごくざっくりとまとめちゃうと、
わざと激しい表現で煽るのは「短期的な注目を集める」のには有効かもしれないけど、「世界を変える」のには不向きだと思う
ってことだ。
でも「誰にも見てもらえない」っていうことは、僕たちにとってすごく大きな恐怖だ
だけどそんなことは、ほんとは言われなくたってわかってることなんじゃないかと思うんだ。しかも
そんな可能性くらい、誰だってわかるはずだ。けどそれでも激しく煽るような表現をしてしまうのは、そうじゃないと誰にも伝わらないんじゃないかっていうのが怖いからだとも思うんだ。そしてこれは僕も切実な実感としてわかることだけど、
「好きと嫌いは実は紙一重だ」って考えかたは、インターネットの世界にも採用されている
ここで少し視点を変えてみる。今インターネットの世界のひとつの基盤を成していると言ってもいいGoogleは、その「検索エンジン」のアルゴリズムの根幹になってるサイト評価の要素のひとつにこんなものがある。
ページAからページBへのリンクをページAによるページBへの支持投票とみなし、Googleはこの投票数によりそのページの重要性を判断します。しかしGoogleは単に票数、つまりリンク数を見るだけではなく、票を投じたページについても分析します。「重要度」の高いページによって投じられた票はより高く評価されて、それを受け取ったページを「重要なもの」にしていくのです。
Google の人気の秘密
ここで書かれていることは簡単に言うと、
ってことだ。そして大切なことは、
ってところだ。これはもちろん、アルゴリズム(ロボット・人工知能)がまだ未成熟だからって理由もあるかもしれないけど、それだけじゃないと思う。つまり
それが肯定であれ否定であれ、「多くのひとを巻き込んで話題になっている」っていう意味では、価値が高いと判断する
ってのは、確かに理に適ってる部分もあるからだ。そしてこれはよく言われる
好きも嫌いも、「相手に関心を持ってる」っていう意味では同じなんだよ。それにそれはほんのちょっとしたきっかけで反転する。だから好きと嫌いは、実はすごく近いんだよね
っていう意見とも一致する。そしたらこの考えかたで行くと、好きの反対(対義語)はどうなる?そう、「無関心」だ。
無関心で相手にされないくらいなら、嫌われてもいいからかまってほしい?
僕たちにとって「みんなに無視される」(存在を認知してもらえない)っていうことがどれだけつらいことなのかは、前にも

のなかで紹介した、
スキンシップを一切排除されて育てられた赤ちゃんは、たとえ栄養が足りていても、生きていけなくなるほど弱ってしまった
おとなでも独房にい続けると明らかに心を病んでしまう
っていう実験結果を見てもはっきりわかると思う。それはほんとに、生きるか死ぬかってくらい切実なものなんだ。だから、その切実さがある方向に向くと、
無関心で相手にされないくらいなら、嫌われてもいいからかまってほしい!
っていう気持ちになることもあるかもしれない。そしてそれが激しい表現に走ることにつながるんだとしたら、それは僕にも理解できると思う。
でも僕は嫌われてもいいとは言えないし、自分のほんとの気持ちも見失いたくない
でも僕自身はやっぱり、嫌われてもいいとは開き直れない。それに
それはこないだ

でも言った、
「相手に承認されやすい自分」を演じてみせた結果、狙い通り認めてもらったところで自己肯定感は上がらないよね
っていうのの前半を、「相手にかまってもらいやすい自分」に置き換えただけで、後半の結論は同じだ。だって、それもやっぱり、ほんとの自分じゃないんだから。
それに、どんなに好かれようとしたって、意図しないところで嫌われることはあるんだから、それに加えてさらに嫌われるようなことをわざわざしたいとは思わない。それに僕は、もっとあなたのことをわかりたいし、自分のことを伝え続けたいと思う。
確かに、無視されるのはつらい。嫌われるのもつらい。広すぎる世界に対して、ひとりの声はあまりにもちいさい。だけどそれでも、僕は伝え続けたいと思う。
だから、まずはここからだ。そしてその積み重ねが、いずれあなたにもつながっていく。僕はそう信じている。

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