こんな文章を読んだ。

自己肯定って、すごく難しいよね
ネコさんの文章は僕もよく読んでるんだけど、ネコさんが普段はネタやジョークを織り交ぜながら飄々としてるスタイルならなおさら、今回のような題材を採り上げるのを
ちょっと重い話
って思うのは当然だと思う。それにこういうのは特に、誰にとっても難しい話だ。だけどネコさんがこの文章でいちばん言いたいのは、たぶん最後のほうの
条件付きではなく、無条件で、自分自身にOKを出すんです。
ヘタレでふがいない自分の事さえも、胸を張って好きになって下さい。
(中略)
まず先にやるべきことは、考え方、意識の変革です。
「価値ある自分になるために今までの自分ではない別の自分になるために頑張る」
ことではありません。
子供の頃に親に肯定されなかった分を、今からでも取り戻してください。
自分で自分を肯定しまくって下さい。
何度でも何度でも。
自然に自己を肯定できるようになるまで。
っていうところにあるんだと思う。
そしてその具体的な方法として、
まず「自分は自己肯定感が低いんだ」ということを自覚すること。
ハッキリ認識すること。意識すること。
自分自身を責めそうになった時、否定しそうになった時には、
感情的にならずに
「あ~またオレ、自己肯定感を忘れてるな~」
と、一歩引いて分析してみる。
ということを挙げている。でも正直に言えば、これでもまだ難しいと思う。
「これ以外の可能性(選択肢)もたくさんあった」と知っていることが、自己肯定感を押し下げる
ネコさんの言ってることはアタマのある部分ではよくわかる。でも一方でそれを腑に落としきれない理由を探してみると、僕の場合は
ということに気づいた。でもこれは、僕以外にもあらゆるひとが多かれ少なかれ持ってるものなんじゃないかとも思った。だって僕たちは、
もし僕が「完全にプログラム通り動くロボット」のようなもので、自分でもそれを自覚してるんだったら、自己肯定感はそもそも問題にならないと思う。だって、「肯定」っていうのは「否定」の逆として存在するんだから、自分にそもそもそれ以外の選択肢がなかったんだったら、それを肯定するしかない。
言ってしまえば劇の配役みたいなもので、それが駄作だろうがなんだろうが、その責任は自分にはない。それは「脚本家」が負うものだからだ。
あとネコさんは自分の体験として、
というのも、兄弟は皆、成績表がほぼオール5(4が一個とか)の、パーフェクトヒューマン系だったんでね。
オール4程度の私は、もうクズ扱いなわけですよ。
親も兄弟も完全に敵ですよね。
味方ゼロからのスタート。
自分を肯定してくれる人は皆無という居場所のなさ。
っていうのも書いてるけど、たとえばこれが
兄弟が5人いたら、うち4人はパーフェクトヒューマン系になるけど、誰かひとりはネコになる運命を引き受けてもらいますね〜
みたいなことが完全に決まってたんだとしたら、自分だってそんなに自己評価を下げる必要もないと思う。そりゃあ、
俺だってパーフェクトヒューマンがよかったのに〜!
っていうことは思うかもしれないけど、自分じゃなければ誰かがその役を引き受けてただけのことだと思えば、そんなに傷つくこともないかもしれない。それに周りも、
あ、あなたがネコ役に当たったんたんだね〜
って思うことになるから、少なくとも「クズ扱い」よりはましになる気がする。だって、それは「決まってる役」なんだから。
でも、僕たちが生きている現実はそうじゃない。いや、なかには「絶対運命論者」みたいなひともいるけど、それは社会的な多数派になってるわけじゃないし、なにより僕自身がまったくそう思えない。
自分はもっともっと自分を活かすこともできるし、もっと自分を腐らせることもできる
よくなにかを決めるときなんかに、
天使と悪魔が出てきてそれぞれの意見を囁きかけてくる
なんて表現をすることがあるけど、これは端的に「自分の可能性」を示したたとえだと思う。だから僕たちは、どこかで、
自分はもっともっと自分を活かすこともできるし、もっと自分を腐らせることもできる
っていうことを知っているんだと思う。っていうか、そこから完全に眼を背けることは無理なんじゃないかと思う。だから、自分を活かしきれてると感じれば自己肯定感は高まるし、そうじゃなければ低くなる。そして今の社会には、
自分を活かしきれてなんか、ぜんぜんないよ……
と感じてるひとが多いってことなんじゃないかと思う。
だからこそ、「承認欲求」が高まるのも自然だと思う
でね、ネコさんが言うように、
なんてったって、自己肯定感は
文字通り「自己」、自分ですからね。
自分次第なんですよ。
他人は関係ないんだから。
っていうのもわかるんだ。でもやっぱりさ、僕たちは他者(世界)との関係性のなかで生きてる。だから、自己肯定感(自己評価)っていうのは、誰かからの評価から切り離すこともできないと思うんだ。逆に言うと、
これは、そもそも自己肯定感の土台になるのが、幼少期の親や家族(保護者)から受けた感覚に大きく左右されるっていう見解とも一致する。
そしてそれは、「承認欲求」というふうにも言われるようになったし、現代ではそれがますます強まっている。それにこれはその承認をわかりやすくする「ツール」が発達・普及したことも大きいと思う。SNSにしてもサイトにしても、そこでは「シェア数」とか「コメント数」、それに「アクセス数」なんかで、いくらでも承認が可視化されている。そしてみんなが、それを求めている。それは、自分を認めたいからでもあると思う。
でも承認欲求が暴走すると、今度は別の苦しみを生み出す
でもその自然な想いは、同時にとても厄介なものでもある。だってその承認欲求は放っておくといくらでも暴走するからだ。
たとえばあなたがサイトを立ち上げて、しばらくは誰にも見てもらえなかったのに、最初の1人がやってくる。嬉しい。初めてシェアされる。嬉しい。話題になって、1000人単位のアクセスを集める。すごく嬉しい。でもそのうちその「波」は収まって、いつしか何百人とかになる。それは最初の1人から考えると何百倍なんだけど、いちど経験した1000人2000人から見ると10分の1以下だ。だからそこで「基準」が上がっちゃうと、今度は自己評価は下がっていく一方になる。そのまま行くと、あなたは結局どこまで行っても満足できなくなってしまう。
それにたとえば、
自分が想いを込めて書いた渾身の文章よりも、ちょっとした感想を書いただけの時事ネタのほうが読まれてる。読まれないよりは、嬉しいんだけど、だけどさ……
なんてことは多々ある。こうなると、
結局誰も、ほんとの自分なんか見てないんだよね……
なんてことになるのは簡単だ。
だからさ、「自分の動機」をしっかり考えて、認めてあげればいいんじゃない?
自己肯定感は誰かに自分を認めてもらえたら跳ね上がる。でも誰かが認めてくれるかは相手次第でもあるし、「相手に承認されやすい自分」を演じてみせた結果、狙い通り認めてもらったところで自己肯定感は上がらない。だってそんなものはほんとの自分じゃないからだ。
だからって絶望してそのままいても苦しみは晴れないし、自分がなにかしら行動してみないと基本的にはなにも変わらない。だけど、「結果」だけを追い求めても不安定になる……。
じゃあこの現実をすべて踏まえたうえで、この堂々巡りを脱するにはどうしたらいいんだろう?完全な答えじゃないのは承知のうえで今の僕が思うのは、
じゃあもう、「自分の動機」を判断基準にするしかないよね?
ってことだ。
自分がこれをする動機はなんなんだろう?
ってことを徹底的に考えて、自分がそれに胸を張れるなら、それだけでまずは自分を認めてあげたらいい。そしてそのときの動機の善し悪しはまずなにより「自分の感覚」を最優先する。つまりこれは、
ってことだ。
抽象的に言い続けてもしょうがないから、僕の場合で言えば、


そして僕はこの動機を、完全に肯定している。ただそのうえで
どうしたらこの動機をもっと達成できるんだろう?
っていうこともいつも考えている。だから僕には「自己肯定感100%」っていうのはよくわからない。もしかしたらそんなものはずっと来ないんじゃないかという気もしてる。でもせめて、
っていうことはできてると思う。それに、
100点はあげられないと思うのは、「工夫できるところ(伸びしろ)はまだまだあるはずだ」って思えているからでもあるから、そんなに悪いことでもないんじゃない?
と思ってる。
だけど、僕も強く影響された福島智さんが

って言ってくれたことは、僕もずっと憶えておこうと思う。正直、90点はまだあげられないんだけど、60点くらいならあげてもいいかなと思えている。あとは、これからの工夫次第ってことでね。
答えなんかまだまだ出てないのをいろいろと書いてみたけど、僕もあなたといっしょに、ずっと自分自身と向き合って、考えてみたいと思う。自分にこうやって問いかけながらね。
あなたはなんのために、なにがしたくて、生きているんですか?

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アルプスの少女ハイジに登場するクララのおばあ様。
etc.
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さなぎさん、こんにちは。
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これからも1歩ずつ、進んでいきたいと思います。
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