介護員さんに対しての呼びかたも関わりかたも、あなたがゆっくり探せばいい

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車いす乗りの彼と2人で

こんな文章を読んだ。

ヘルパーはヘルパーさんなのか、ヘルパーなのか?

ヘルパーは使うのか、お世話になるものなのか?

いずれ私も関わりをもつことになるはずのこと。

ヘルパーってなんなのか、分かりません。

「ひとそれぞれだ」ってことを大前提に、今の僕なりの考えを説明してみる

まず単純な結論を書いちゃうと、それはひとそれぞれだ。

「ヘルパー」と呼ぶひともいるし、「ヘルパーさん」って呼ぶひともいるし、ヘルパーさんを「使う」って表現するひともいるし、「お世話になる」って考えるひともいる。

ただそのうえで、今の僕の考えとしては、

介護員さんにお世話になる

って感じの考えかたをベースにしている。これをひとつひとつ説明してみるね。

「お金で相手を雇っている」んだから、「使う」と表現してもおかしくはない

最初に挙げた文章には、こんなひとの事例が書いてある。

私の友人、車椅子のIさんには24時間、介助者がそばについています。

Iさんは介助者という言い方をして、介助者を使うという表現をします。

最初は聞きなれない介助者という言葉に、使うという言い回しに違和感がありました。

でも段々、違和感が無くなってきたんですよ、最近では。

自分の足で歩けない、自分の手が動かせないということは、健康な人ができることのほとんどができないということ。

その不自由さを埋めるための、道具が欲しい。

      ↓

歩けないなら車椅子。

これは分かりやすい、車椅子を使うという表現になんの違和感もない。

でも機械にはできない部分を補おうとしたら、人間の手になる。

それがヘルパー。

これは僕としては、

助けてくれる相手を広い意味で「自分の一部」と捉えている

ってことだと思う。

だから

メールを書くのにパソコンを使う

足を使ってものを取る

っていうようなのと同じ感じで

ヘルパーを使ってご飯を食べる

っていう表現が成り立つ。それに、「使う」という表現には「使役する」っていう意味が含まれているってことを踏まえると、

まさに「お金で相手を雇っている」んだから、「使う」と表現してもおかしくはない

っていうこともわかる。それに、このひとみたいに基本的に1日中誰かと一緒にいないと生活できない場合なら特に、

相手をいちいち「他人」と見なしていたら心が保たない

っていう部分もあると思う。だって相手の「仕事場」は、こちらの「生活空間」なんだからね。

でもさ、「あなたは私の手になれますか?」とまで言うなら、当然反論されるだろう

だから、相手(介護員)との関わりが切実で、必然的で、長いものになればなるほど、相手にいちいち気を遣ってなれなくもなるっていうのはわかる。だけどそれでも、相手も自分と同じ「対等な存在」であるということを完全に忘れるのもいけないと思う。

だって相手は本来は自分の一部でも道具でもない、心とからだを持ったひと同士なんだからね。

その僕の考えかたを対照的にくっきり意識させたのが、

あなたは私の手になれますか?

という言葉だった。これはとても象徴的な言葉で、同時に誰の言葉だかすぐわかるようなものなんだけど、僕はこの言葉について、いろんなひとと話し合ったこともある。だからここで書いても、今さら個人攻撃だとは受け取られないだろう。僕はあくまで、その言葉の背後にある「思想」についての違和感を率直に伝えてるだけだ。

その違和感をひと言にまとめるとこうなる。

じゃああなたは、私の頭になれますか?

もう少していねいに書くと、

あなたに手を選ぶ自由があるように、こちらにも頭を選ぶ自由がありますよね?

ってことだ。だって手のほうだって、どんな頭に使われたいかを選ぶ自由はある。それにこれは別に、あらゆる労働や契約についてとおんなじことだ。そして僕が手だったら、手より頭が上だと見なして手を大切にしない頭になんか、使われたくはない。

前にこういう話をある介護員さんにしたらそのひとはとても共感してくれた。それにそこから拡がってたまたま

あなたは私の手になれますか?

っていう考えかたを持ってるひとに近しいひと(ご本人には会えなかった)に同じ話をしたら、

現実に健常者と私たちの間にある無理解や格差を考えれば、そんな話は手ぬるいと言われてもしかたがないよ

と言われてしまった。ちなみに、前に書いた

上の世代の「闘う障碍者」には感謝もしてるけど、もう休んでほしいとも思う
「障碍者」というのは「社会的弱者」だと言い換えてもいいと思うんだけど、そんな「弱者」は社会がよっぽど成熟して、包容力にあふれているひとたちの...

っていうのは、こういう体験を基に書いたものだ。だからやっぱり、こういう価値観や捉えかたはひとそれぞれなんだ。

ただやっぱり、僕は相手も自分も「対等なひと同士」だっていうベースから考えている

ただやっぱり、僕としては相手も自分も「対等なひと同士」だっていう考えをベースにして捉えている。そして

「その場所や時間をいかにお互いにとって心地好いものにしていくか」という意味では僕たちの目指すところはおんなじだ

と思っている。あとは日常的なやりとりで僕が

利用者さ〜ん

と呼ばれないのと同じように僕も相手を

介護員さ〜ん

とは呼ばない。ただ個人を超えた通称として呼ぶときには、僕は「介護員」という言葉を遣っている。これは「介助者」だと場合によっては同行者の友達とかも含んだもっと広い意味になるし、「ヘルパー」だと少し軽すぎるような気がするからだ。あとこれは、あるときに

私は「ヘルパー」じゃなくて、「介護福祉士」なんですけどね

って言われた体験も踏まえている。そのうえで本来は「介護職員」と呼ぶのが正式なんだけど、それだと日常的には遣いにくいから、「介護員」という言葉に短縮している。あとは

歯医者に治療してもらう

っていうのと同じレベルで

介護員に助けてもらう

っていう言いかたをしても一般論としては失礼じゃないと思う。だけど一方で、

あの歯医者さん、けっこういい感じだったよ!

っていう表現があるのと同じように、その仕事に携わってる「ひと」に特に焦点を当てる場合には、職業名に「さん」付けすることもよくある。だから僕もその意味で、通称の場合でも「介護員さん」と呼ぶようにしているってわけだ。

結局のところ、自分にとっていちばんいい感じの考えかたを見つけていくしかないし、そうしてほしいと思う

ただ何度も言っているように、この考えかたや呼びかたはあくまでも僕の意見というか一例だ。たとえば僕の知り合いにも、

ヘルパーがいようが、オレはただずっと好きな動画を観てるだけだよ

っていうひともいるし、

時間が余ったからって雑談するのも面倒だから、5分間ずっと黙って背中を掻いてもらってた

っていうひともいる。僕からするとそれはまったく落ち着かないことなんだけど、それで本人がいいならいい。なかにはそういうあまりの素っ気なさに嫌気が差してやめていく介護員さんもいたようだけど、それも彼自身が

それならしかたないよ。俺は俺でしかないし

と言い切っていたから、それでいいと思う。ただもし辞めていったような介護員さんに僕が言えることがあるとしたら、

僕が障碍者の代表でも平均でもないように、彼が障碍者の代表でも平均でもないですよ

ということだけは伝えておきたいと思う。そう、だから結局、

ひと付き合いにおける「多数派」や「平均」なんかを探すことに、たいした意味はないってことなんだ。だってそれが近くて大切なものであればあるほど、それは個別的なものになるんだから。

そしてこれは本来は別に目新しい考えでもなんでもなく、どちらかと言えば当たり前のことだと思う。ただこの「当たり前」とか「普通」っていう概念こそがいちばん厄介なことなのもわかってる。だからこそ、もっと気軽にいろんなひとといろいろ話し合ってみたいと思う。

だって、ひとがみんなと支え合って生きるなんてことは、当たり前のことなんだから。
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