だいぶ前から話題になっていた、この番組を見た。
「24時間テレビ」と同じ時間帯に、「障害者×感動」のテーマをぶつけるという大胆さ
そもそもこの特集企画は、
っていう大胆さから、放送のしばらく前からいろんなところで話題になっていた。
だから僕のなかでもかなり期待は高まっていたんだけど、実際にそれを観てみた感想を、率直に書いてみようと思う。
障碍者はどうやって「感動ポルノ」に仕立て上げられるのか?
番組の冒頭、バリバラはまずステラ・ヤングさんのプレゼンテーションを紹介するところから始まる。実はこのプレゼンは、前にここでも

で紹介したものだ。そして僕自身も最初に耳にしたときに衝撃を受けた「感動ポルノ」という言葉から、サイトにも書かれていた
なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか?
という疑問に迫っていくことになった。そしてバリバラではそれを「健常者に勇気や感動を与えるための道具」と定義して、そのあとで実際によくありがちなテクニックを駆使したミニドラマ、『感動ドキュメンタリー 難病になんか負けない!〜これが私の生きる道〜』を例にあげて、障碍者がどうやって感動ポルノに仕立て上げられていくのかを検証していたんだ。
そうすると、そこからは5つの「ステップ」が見えてきた。それは、
- 大変な日常
- 過去の栄光
- 悲劇
- 仲間の支え
- いつでもポジティブ
の5つだ。これは感動を作る5大要素みたいな感じで言い換えてもいいと思うけど、確かにこれは障碍者を主人公にするかしないかにかかわらず、感動させたい作品の王道パターンと言ってもいいんじゃないかと思う。そしてすごく興味深かったのは、そのあとに提示されたあるアンケート結果だった。それは、
っていう結果だったんだ。こういうドラマ(取り扱い)が障碍者に不評なのは予想通りだったけど、健常者にすら半数も受け入れられてないっていう結果は、なかなかの驚きだった。ただここでアンケートを取られた「健常者」がどんなひとたちだったのかとかによっても結果に違いは出ると思うけど、これを素直に受け止めれば、もうこんな手法が好まれる時代は終わりつつあるんじゃないかと思うしかないと思った。
『ハンサム★スーツ』に車いす乗りを登場させた鈴木さんに寄せられた批判
今回のスタジオにはゲストとして、放送作家の鈴木おさむさんも呼ばれていたんだけど、鈴木さんが書いた小説「ハンサム★スーツ」が映画化されたときに、主人公の親友の男性を車いす乗りとして描いたことについて、
なぜ車いすに乗せる必要があるんだ?
障碍者を出す意味はあったのか?
なんていう批判があったという話をしていた。鈴木さんとしては障碍者がまだまだ特別な感覚を持って受け入れられている現状を踏まえたうえで、もっと日常的に自然な感じで障碍者を描きたいという想いもあってそういう描きかたをしたということらしいんだけど、
っていう風潮があることに、改めて気付かされたらしい。このあたりのことや、それからこうした批判とは対照的に、バリバラにも毎週出演している玉木幸則さんがこの表現を好意的に見てくれていたというのは、鈴木さん本人のサイトにも書かれていた。

そしてその言いたいこともよくわかるんだけど、一方でこのことについてネットで見つけたこんな意見、
11月の頭に公開される映画『ハンサムスーツ』(主演:谷原章介、塚地武雅、監督:英勉)のチラシですが……問題は、裏だ。
キャストの一人で池内博之が出てるんだけど、そのキャプションがうなづけない。
「車椅子だけどカッコイイ男」
(中略)
ダメだろう、こんな誤解を招きやすい(というか思慮の浅い)表現を世に出しちゃ!
例えばの話。
「黒人だけどカッコイイ」「韓国人だけどイイ奴」
これ、出版物として(確信犯的な場合の表現、つまり文責者が意図を伝える上での挑戦的な手段として用いる場合を除いて)ありだろうか。
こういったことと、まったく同じ意趣を取られかねない文章だと思う。
「車椅子でもカッコイイ男」 - 白央篤司の昭和系日記
っていうのには、僕も共感した。しかも、鈴木さんにそこまでの深い想いがあったなら特にだ。だからやっぱり、感動ポルノや感動の方程式から自由になるのは、そう簡単なことじゃないと思う。それは番組のなかでも何度も言われていたとおり、
からだ。これは、ほんとに根本的な問題だと思う。
障碍者を「描く」という限界
バリバラではその他にも、日本における「障碍者像」がどんな変遷を経てきたのかとか、イギリスで1992年に起きた、
障碍者を一面的に描くな!
っていうチャリティ番組への抗議運動や、その結果1996年にイギリスの公共放送(BBC)が定めた、
障害者を”勇敢なヒーロー”や哀れむべき犠牲者”として描くことは侮辱につながる
といったガイドラインについても触れて、歴史的・国際的比較も行っていた。それに、鈴木おさむさんとカンニング竹山さんがそれぞれ考えた企画案をプレゼンし合ったりして、30分という限られた時間のなかでめいっぱい内容を充実させていたと思う。それに、
障碍は個人ではなく、社会のほうにある
という価値観も、はっきり伝えてくれていた。
だけどやっぱり、僕はバリバラのサイトにも書かれていた、障碍者を「描く」っていう発想自体が、根本的に限界なんじゃないかという気持ちにさせられたんだ。「描く」っていうと僕はまず絵画が思い浮かぶけど、生きているものを静止画というかたちで「切り取った」時点で、それはそれ自体からなにかを剥ぎとった姿でしかなくなる。そしてたとえ形式が「動画」であっても「映画」であっても「ドキュメンタリー」であってもそこには本人の「ありのままの姿」なんてものの全体像は絶対に映らない。
それは前に、この文章のなかでも書いたことだ。

それに、
どのように描く?
なんていう方向性が先にあって、それに合うような状況やひとを選ぶようになったら、それもそれで実像からはかけ離れていく。だからそう考えると、たとえばノルウェーの『スローTV』のように、障碍者の日常を延々と流し続けていればいいかもしれないけど、これでもカメラの影響をまったく排除することはできないだろうし、なにより今の日本の感覚ではだいぶ退屈だと思われてしまうだろうから、視聴率は取れない可能性が高い。
ノルウェーの『スローTV』については、このプレゼンテーションを観てみてください。
でも僕たちの人生のほとんどは「日常」だし、誰も「障碍者」の看板は背負えない
そしてもうひとつ、どこのどんなひとを探したって、この世界に「障碍者」の看板を背負えるひとなんかいない。それは「健常者100人」を選べと言われても、どこの誰を選んだらいいのかわからないのと同じだ。だからやっぱり
「障碍者」っていうのは、ある環境に置かれたときのあるひとをある観点から見たときにつけられる名称にすぎない
ってことだ。これを踏まえてもういちど「感動ポルノ」という言葉に戻ってみる。僕が前に

のなかでも書いたように、
っていうのが感動を「ポルノ」にしてしまうんだとしたら、そこから本気で抜け出すためには、そのひとの「局部」からズームアウトして、そのひとの全体像を映してほしいと言い続けるしかないと思う。そしてそこからなにかを部分的に抽出して、その他を削ぎ落とす(描き出す)という試みそのものに、距離を置くしかないと思う。
今年の24時間テレビドラマのモデルになった新井淑則さんの想い
僕は観てないんだけど、今年の24時間テレビドラマ『盲目のヨシノリ先生 ~光を失って心が見えた~』にはモデルになった実在の先生がいる。それが新井淑則さんなんだけど、彼は
いろいろな人がいるのが社会だし、学校は社会の縮図だというつもりで今までずっと教師をやってきたので、私のような人間はどこにでもいる、珍しくともなんともない、当たり前すぎて誰も取材に来ないような社会に早くなってほしい。それが私の願いです。
新井淑則 / 中学校教師 全盲の教師が挑む新たな戦い[後編] | WAVE+埼玉県の長瀞中学校で国語教師として教鞭をとる新井淑則先生は34歳のときに両目を失明。以後、特別支援学校に異動、15年の後、悲願だった普通中学校に赴任。そして今年(2014年)4月、23年ぶりに念願のクラス担任に返り咲きました。普通学校における全盲のクラス担任は全国初。そんな新井先生に、絶望のどん底から希望を取り戻すまで...
と言っている。これは僕も強く共感する。
だから、僕は「四つ這いおとな」として、これからもここにいようと思う。そして僕は自分の日常と心の動きを書いていこうと思う。そうやっていつの日かあなたとも、「被写体」としてじゃなくて「友達」として、関われるようになれたらいいと思う。

コメントをどうぞ