率直に見れば、今の自分たちがいる社会が「競争社会」だってことはわかりきってる。そしてそうである限りは、どうしたって「勝者」と「敗者」が生まれることになる。でもそれをとことん突き詰めていけば、最終的には「勝者総取り」の世界になることになる。
自分が負けた(劣っている)からって、すべてを奪われるのはあんまりだ
でもそんな世界は、あまりにも荒んでいる。それにそのとき「最強」だと認められたひとも、いずれ少しずつ全盛期の力を失っていくことになって、そのときには自分の座がまた新たな誰かに脅かされることになる。そうするとそういう恐怖からは、たとえ勝者であっても逃れられない。
それにいくら自分が負けた(劣っている)からって、すべてを奪われるのはあんまりだ。それに僕たちの競争はずっと前から続いているから、もはや「スタートライン」すら同じじゃない。それに、いくら「総合評価」なんて言ってみたところで、それは結局はある「ルール」に基づいているのは明らかで、そこには傾斜配点がかかっている。だからどこにも、「平等公正な競争」なんてものは存在しない。
それに、さっき言ったようにとことんまで競争を突き詰める社会っていうのは、結局勝者の居心地すら悪くさせることになる。だからこういうことを考えてみた結果、僕たちは「競争」という原理に「みんなそれぞれの権利」っていう概念を追加することにした。たとえ競争に負け続けたとしても、すべてを奪われるってことはあんまりだ。それに勝者だって、敗者のことを一切思いやらないで無視するなんていうのはカッコ悪い。だいたい、あなたが勝ったのは、あなただけの力じゃないんだから。それに今勝っているのだって、一時的なものにすぎない。もしいつか自分が誰かに負けたときに、あんまりひどい扱いはされたくないよね?
だから、みんなそれぞれ、このくらいのしあわせはみんなで保障し合おうっていうことを決めた。これがいわゆる「社会福祉制度」あるいは「セーフティネット」って呼ばれるようなものだ。こうして、競争(弱肉強食)と自己責任論は、一定の歯止めがかけられて、みんながそれぞれそれなりのしあわせを味わうことは、みんなで認め合うようになった。
じゃあそれなりのしあわせって、どのくらいのことを言ってるの?
ここまでのことは、今の自分なりの理解でざっくりまとめただけだけど、そんなにおかしいことは言っていないんじゃないかと思う。そしてそれは、今の日本国憲法第25条にもはっきり書かれている。この条文については、前にも

なんかで触れたことだけど、ここで言われていることはまさに、
競争したらそりゃあ勝ち負けはあるけどさ、みんなでそれなりのしあわせは保障し合おうね?
ってことだと思う。これはほんとに大切なことだし、素晴らしいことだと思う。
でもそうすると今度は、次の問題が生まれてくる。それは
じゃあ「それなりのしあわせ」っていうのを、どこに設定するの?
っていう問題だ。とりあえず、誰かから痛い目に遭わされてたらしあわせじゃないよね。それにからだのどこかが痛くてしかたがないのになにもできなかったらしあわせじゃないよね。もちろん、お腹空いてるのに食べものがなかったらしあわせじゃないよね。じゃあ逆に言えば、
誰かから痛い目に遭わされることもなくて、からだのどこかが痛くてしかたがないなんてこともなくて(少なくとも、できる限りの治療は受けられていて)、お腹空いてるのに食べものがないなんてこともなければ、僕たちはしあわせなんだろうか?
確かに、これはある程度まではその通りだ。それに、世界を見渡せばその程度のしあわせすら味わえずにいるひとたちなんて数え切れないほどいる。それに、この日本だってたった70年くらい前には、そんなしあわせすら手に入らないような状態がそこらじゅうにあった。だから、この定義は間違ってるわけじゃない。ただ、これだとやっぱりどこか足りないんだ。だって僕たちには、
っていう気持ち(習性)があるからだ。
「文化的な生活」と「相対的貧困」
だからこそ、憲法第25条にはこう書かれている。
- すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
- 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
ここでなんで、「文化的な」という言葉が出てきてるんだろう?どうして
じゃないんだろう?それはやっぱり、
だと思う。そしてこれは別の視点からも裏付けることができる。それは日本も含めたいわゆる「先進国」では、「貧困」の問題が「相対的貧困」によって捉えられているという事実だ。ちょっと、これを読んでみてほしい。
絶対的貧困の概念を最初に打ち出したのはイギリスの研究家であるシーボウム・ロウントリー(1871-1954)とされ、貧困を「第1次貧困(primary poverty):総収入が単に肉体(physical efficiency)を維持するためだけの最低限度にも満たない」と「第2次貧困(secondary):総収入が他(飲酒や賭け事などの生活を維持する以外のこと)のことに支出が振り分けなければ肉体を維持できる」の2種類に分けている。
現在、一般に知られている絶対的貧困の定義は世界銀行によるもので、かつては1993年の購買力平価換算で1日あたりの生活費1ドル未満で生活している人を絶対的貧困層と定義していたが、2008年に1日1.25ドルに改訂した。この基準によると、世界では1日1.25ドル未満(年間約450〜460ドル=4万5千円)で生活する人々が2005年で約14億人、世界の4人に1人が絶対的貧困層に該当するとされている。
CSR Magazine : CSR勉強会“貧困”は国・地域、機関によってさまざまな定義があるが、大きく「絶対的貧困」と「相対的貧困」の二つの概念がある。
この定義を採用すれば、僕なんて絶対的貧困の30倍くらいのお金が、ただ生きているだけで国から「障碍者手当」として支払われてるんだから、貧困なんてとんでもない、圧倒的に富裕な立場にあると言える。でも、さっきからずっと言ってるように、話はそんなに単純じゃない。だって僕たちはやっぱり、身近なひとたちと自分を比べずにはいられないんだから。
だから貧困にはもう1つの定義(種類)がある。それが「相対的貧困」だ。
先進諸国には前述のような絶対的貧困層は存在しない前提で国内の貧困問題が議論されるため、一般的には「相対的貧困」率が提示される。
OECD(経済協力開発機構)が用いる相対的貧困率は「手取りの世帯所得(収入−税/社会保険料+年金等の社会保障給付)」を世帯人数で調整し、中央値(注:平均値ではない)の50%以下を貧困として計算する。 この計算により、2000年半ばの統計では日本の相対的貧困率が14.9%で調査国のうちメキシコ、トルコ、米国に次いで4番目というショッキングなデータも過去に提示されている。
そしてこうしてみると結局はお金の話に行き着くことになるし、それは資本主義がこれだけ浸透した以上ひとつのわかりやすい指標ではあるんだけど、僕はそれだけでもまだ不十分だと思う。もし僕たちがほんとの意味で「先進国」にいるって言うなら、僕たちのしあわせの円熟度を図る最も根本的な要素は、すごく曖昧で社会的で相対的な、「文化」っていう視点にあると思うからだ。
僕はどのくらいの「文化」を味わっていいの?
具体的な話をしよう。僕はいつも言ってるように、ひと月あたりだいたい10万5千円くらいの「障碍者手当」をもらっている。でもそれ以外に、たとえばそれなりの規模の美術館に行ったら、入場料金が半額だったり、あるいは無料だったりするところもある。これを素直に考えれば、
あなたはたぶんお金ないんだろうけど、美術館で絵くらい見る「文化」は、どんどん受け取っていいんだよ〜
って言われてるってことだ。だけどこれがどこまでも認められてるかって言えばそんなことはない。今の時点で、僕が無料で入れる美術館はけっこうあるけど、無料で入れる映画館はない。つまりこれは、映画っていうのはある種の「贅沢な文化」と見なされてるってことだ。
でも芸術や映画は「文化」とひと括りにされるなかでも「娯楽」的な意味合いが強いものかもしれないけど、広い意味で言えば「教育」だって文化のひとつだ。そしてたった40年くらい前まで、僕たちは教育を受ける権利を認められていなかった。高校や大学の話じゃない。「義務教育」での話だ。そしてその「義務が免除される」っていう言い回しによって、実際のところ僕たちは教育の対象から除外されていた。

それは言ってしまえば、
障碍者に教育を受けさせてほしいなんて贅沢だ!
と見なされていたと言ってもいい。
そしてさっき言ったように、「文化」っていうのは生存のために必須のものじゃない。だけどそれは生きている喜びを深めるために、もっと単純に言うとより大きなしあわせを味わうために、とても重要な要素だと思う。そしてそれは僕たちの価値観を、はっきり表している部分だと思うんだ。
僕の「身の程」って、どのくらいですか?
最初に言ったとおり、社会福祉の根本にあるのは「思いやり」だ。それはいろんな競争があるなかでも、みんなでそれなりのしあわせは保障し合おうとする慈しみの心だと思う。それに僕たちは別に誰かにいじわるをしたいわけじゃないんだから、ほんとは誰でもみんなが最大限しあわせになってほしいと思ってるはずだ。でもみんなの力に限りがある以上、ひとりひとりに分け与えられる力は無限じゃない。それに、自分だって疲れてるなか一生懸命やっていて、へとへとになっているのに、周りから際限なく
もっともっと!
なんて言われたらうんざりしてしまうだろう。それに、疲れれば疲れるほど、誰かを思いやる余裕なんて失くなっていく。そして、自分の状態と努力を基準にして、誰かを判断したくもなってくる。
そんなことが重なると、ある時点で
身の程をわきまえろ!
なんて言葉が出てくることもあるだろう。これは言い換えると、
これ以上はお前には贅沢だ!
っていうことでもある。そしてこれは、とても社会的なことでもある。だって、
それに僕だって無理難題を押し付けて困らせたいわけでも、弱い立場を逆利用して強いあなたを責め立てたいわけでもない。それに、やりたいことをすべてできないのは、僕だけじゃない。それをわからないなら、駄々っ子と同じだ。だから僕は別に、
僕だって宇宙に行きたいよ〜!
なんて言わない。それはずっと努力して、そのうえで選ばれることができたひと握りのひとができることだ。それに、あなたに無理をかけてまで、
みんなが登ってるなら、僕にだって山頂の景色を見る権利があるよ!それに、みんなが泳いでるなら、僕だって海で泳ぐ権利があるよ!
なんて言うつもりもない。
だけどさ、たとえば僕が、あるいは僕みたいなひとが、
みんなと同じ学校に行きたい!
自分の好きな場所で、自分の部屋で暮らしてみたい!
誰かに愛されたい!
って思うようなことはどうだろう?これもぜんぶ、身の程知らずの、贅沢なんだろうか?
僕はせめて「生きてるのも悪くない」って思えるくらいのしあわせは、みんなに行き届いてほしい
なにが贅沢で、どこからが身の程知らずなのかっていう問題は、結局すべて社会的なものでしかない。と同時に、自分自身の境遇や、感情によっても左右される、個人的で相対的なものでもある。だけど僕はせめて、どんな境遇の、どんなひとであっても、
「生きてるのも悪くない」って思えるくらいのしあわせは、みんなに行き届いてほしい
と思う。その感覚さえ掴んでいられて、それをみんなで支えてくれてさえいれば、別に歩けなくたっていいし、長生きできなくたっていい。逆に言うと、僕がその日を「いい1日だった」と思えるかどうかっていうのは、自分のからだの動きのよさや、食卓の品数とは関係ないんだ。
だから僕も、誰かの恐怖を少しでもわかち合ってあげられたらいいと思う。あなたと僕が一緒にいられる足場を、少しでも踏み固めていたいと思う。それはほんのささやかなことかもしれないけど、もしそれができさえすれば、そこから生まれるしあわせは、限りなく大きなものにしていけると思うから。

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