車いす乗りを100人並べておいたって、段差は越えられない

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見分けのつかない群衆

誰かと誰かが一緒になにかをするとき、そこには助け合いの余地が生まれる。絵を描くのが得意なひとが絵を描いているときに、文章を書くのが得意なひとが文章を書いて、それを組み合わせてひとつの作品にしたっていい。それになんなら、その作品をイメージした音楽を誰かが作ったっていい。そうやって、「自分にできること」を組み合わせていった結果、その社会はうまく流れていくんだと思う。

同じようなひと同士で凝り固まっていたら、頭打ちになるのはずっと早い

だけどこれは、その組み合わせのなかで、お互いのできることがうまく作用し合ったそれぞれを高め合うことができた場合の話だ。そしてその「組み合わせ」の幅は、それぞれのできることに違いがあればあるほど多彩な可能性を持つようになる。

もちろん、同じようなことを究めているひと同士で情報交換することにも意味はあるし、似た者同士だからこそ切磋琢磨し合えるなんてこともあるだろう。だけどいつまでも「同じようなひと同士」で凝り固まっていたら、頭打ちになるのはずっと早いと思う。

これは別の言いかたで

できることが似通っていればいるほど、そこに助け合いの余地は少なくなる

って言うこともできると思う。だって相手と同じくらい自分にもできることなんだったら自分でやればいいし、自分にも相手にもできないことは、そこでは解決のしようがない。だから「助け合い」を「組み合わせ」という視点から捉えるなら、似たようなひと同士で集まることは、結局その可能性を狭めることになる。

「養護学校」とか「障碍者施設」っていうのはまさに、同じようなひと同士を集める場所だ

こういう観点から見ると、僕がちいさい頃から間近で見てきた「養護学校」とか「障碍者施設」っていうのはまさに、同じようなひと同士を集める場所だと言える。そしてそこでは、同じようなことができない(不得意な)ひとが集められている。そしたらたとえば、僕みたいな車いす乗りが校外に行くときには、みんなが同じ段差で苦労して、そこで一斉に立ち止まることになる。それは付き添いの教員や職員が助けることで乗り越えることになるんだけど、ここで大きな問題なのは、

そこに生徒同士で助け合う余地がほとんどない

ことだ。だってみんな、できない部分が同じなんだから。そしてそこではもうひとつ、

職員=助けるほう/障碍者=助けられるほう

っていう構図が絶対的なものとして君臨することになる。それは実際、すごく窮屈なことだ。

だけどそこにもし「違うひと」が混ざっていれば、この構図はもっと柔軟なものになる

だけどほんとは、障碍者=助けられるほうっていうこの構図は、別に絶対的なものなんかじゃない。ただそこに「同じひと同士を詰め込もうとするからそうなるんだ。だったらそこにもし、「違うひと」が混ざるようになったら?こんな構図はすぐにでももっと柔軟なものになるだろう。これは、

助ける/助けられるの関係が、流動化する

ってことだ。

僕は確かにからだがうまく動かない。だからからだがうまく動かないひと同士で集まっても、お互いのできないこと(困ってること)を補い合うのは難しい。でももし相手が目が見えないひとだって言うなら、僕はそのひとの代わりに見てあげることができる。この瞬間、僕は誰かを助ける役目を果たすことができる。じゃあ僕が一方的に助けるだけかって言えばそうでもない。たとえばその相手のひとが、目が見えないけど歩くことはできるって言うんなら、僕はそのひとに車いすを押してもらうことができる。そして僕は、そのひとの代わりに見ればいい。それに1対1ではないけど、僕はこんな状況を経験したことがある。このいいところは、まず目の見えない相手のほうも、僕の車いすの押し手に触れていることで安心することができるってことだ。そして僕のほうも、相手は慎重な運転をしてくれるからその意味で安心する。っていうことはここで、

助ける/助けられるの関係は、完全に双方向的なものになっている

っていうことがわかる。これは、ものすごく重要なことだと思うんだ。

僕はあなたの耳にも、口にも、手にだってなれる

同じように僕はあなたの代わりに聴く耳にもなれるし、あなたの代わりに伝える口にもなれる。それになんなら、手にだってなれるんだ。僕は実際一般的な能力から見れば手が利かない。でも実際、自分で食べものを口に運べないひとに、スプーンで食べさせることはしたことがある。ただそのときも少しはこぼしてしまったし、一気に入れるとこぼしやすいから、ひと口の量も少なくなった。だけど、とりあえずできる限りの助けをするくらいなら、僕にだってできたんだ。だから結局、すべては「組み合わせ」によって、いくらでも拡げられるものなんだ。

だけどそれは、同じようなひと同士が凝り固まってつめ込まれている環境じゃ無理なことだ。車いす乗りを100人並べておいたって、段差は越えられない。目の見えないひとを1000人集めたって、目は見えるようにならない。でもそれを違うひと同士組み合わせれば、僕たちは見えるし、段差も越えられる。これはあまりにも当たり前なことなのに、あまりにも難しいことのように思わされている。そして僕たちは、「普通学校」と「主に肢体不自由を対象とした養護学校」と「盲学校」と「ろう学校」に分けられている。

でもこれじゃあ、ほんとに大切なことに気付くのがあまりにも遅れてしまうんじゃないだろうか?それは、

自分にできることをすることで、助けられるひとがいるってことだ。そして、自分を助けてくれるひとは、もっともっとたくさんいるってことだ。

僕たちは、いつも「患者」なわけじゃない。いつも「助けられるほう」なわけでもない。「有能」とか「無能」とかっていうのは、そのときそのときに求められている役割と、相手との関係性において一時的に定まるものでしかない。ただしそれは、その関係を固定化せず、もっと広い「組み合わせ」の可能性を探ることができる環境がないとできないことだ。

だから、僕たちはまさに「障碍者」(障礙者)の字義通り、段差の前で立ち尽くしている。それは社会という段差だ。ひとをある視点からしか見ずに、「できないひと同士」で括ることによって、組み合わせを狭めている環境・価値観だ。そしてそれは、

僕だけじゃなく、あなたにとっても、社会そのものにとっても本来は不都合なことなんだ。だってそれは、可能性を殺してるんだから。

でもそのことにもし気付いていないんだったら、きっとみんなあまりにも疲れてるんだろう。だから僕もよく顔を洗って、ちゃんと眼を見開いて、自分に見えてる景色を伝えようと思う。だってそれが今僕があなたにできる、精いっぱいのことなんだから。

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