このサイトに最初の文章

を書いたのは3月6日だと記録されている。だからもうすぐこの『四つ這いおとな』は初めてから5か月を迎えようとしていることになる。これくらい続けると今まで書いてきたものもけっこうな数になってきたけど、今改めて振り返ってみると、トイレのことを書いてみたり、

ラウドロックバンドのことを書いてみたり、

はたまた「はてなファイトクラブ」なんてグループの名誉顧問になってみたり、

一見するとなにがなんだかわからないサイトだと思われているかもしれない。だからここらでいったん、この『四つ這いおとな』がどんなところなのか、改めて書いてみたいと思う。
この『四つ這いおとな』のテーマは、「福祉」だ
まず最初にひと言でまとめちゃうと、この『四つ這いおとな』は「福祉」をテーマにしたサイトなんだ。じゃあこの福祉っていうのはなにか、改めて調べてみると、
福祉(ふくし、英: Welfare)とは、「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する言葉であり、すべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を指す。
福祉 - Wikipedia
なんて書いてある。そう、だから
なんだ。
でももちろん、この「しあわせ」っていう言葉自体が、すごく捉えどころのない概念だ。それは「生きかた」だとも言えるし、「個人の(喜んだ)状態」だとも言える。だけどそれは同時に、自分だけじゃなく他者やその存在を支え合う「社会」の仕組みによっても大きく左右されるものでもある。だからこれは、単純には捉えられるものじゃない。
だからこそ、どんなことだって結局は「福祉」(しあわせ)の問題だ
でもだからこそ、「福祉」(しあわせ)について考えるのはいろんな入口から見ることができる。
だから、最初に挙げたトイレの問題だって福祉の問題だ。音楽はしあわせを感じさせてくれるんだから福祉の問題だ。それにもちろん、性欲だって生きるのに大切な要素なんだから福祉の問題だ。

老いるのだって生きてりゃ自然なことなんだから福祉の問題だ。

そう考えると、
いったん「福祉」(しあわせ)について考え始めたら、この世で起きていることで関係ないことなんてひとつもない
んだっていうことに気づく。だから僕はここで、気になったことはなんでもかんでも書いているんだ。でもこれは、めちゃくちゃに書いているわけじゃない。すべては、しあわせについて考えるためなんだ。
文章とか詩とか物語とかいろいろ書いてるのも、そこから生まれた想いをいろんなかたちで表現したいから
あとこの『四つ這いおとな』では、文章以外にも詩とか物語とか、いろんなかたちのものを書いている。でもこれも結局は、生活のなかで生まれた想いや考えを、いろんなかたちで表現してみようと試してるんだ。ただひとつ言えば、
いろいろ説明できる(説明したい)ものは文章で、説明できない(説明したくない)ものは詩や物語にしてみてる
っていうのは言えるかもしれない。そしてその「説明の少なさ」は、逆に言うと「意味を委ねてる」ってことでもある。これはもっと言うと、自分のなかでも消化しきれてないものを出してるってことだとも言える。だから詩や物語のほうが受け取り手によって受け取る意味の幅が広いとも思うけど、それはそれでいいと思ってる。
「蓋をしてるところを掘り下げる」っていうのは不愉快に思うひともいるかもしれないけど、せめて僕は真剣に考える
たださっき言ったとおり、しあわせについて考えるってことは、世のなかのすべてのできごとを考えることにつながっていく。そしてときには、「蓋をしてきたこと」とも向き合わなきゃいけないときもある。それは場合によっては、かなり不愉快に感じられるときもあると思う。
実際こないだ、こんなコメントももらった。
よくもこんな文章を書いてくれた。
みたいないものをよくも見せてくれた。
ふざけるな。
クオリティ・オブ・ライフ私は世界がいつからこうなったのかを知らない。それにどうしてこうなったのかなんてわからない。だってそんな何百年も前の歴史をさかのぼってる時間なんてない。そんなことより私は、今を生きなくちゃいけない。でも私は昔のことはよく知らないけれど、今...
僕はこれに対して、
だれかさん、こんにちは。
「みたいないもの」というのはおそらく「見たくないもの」という意味ですよね。
僕にできることは、これからもふざけずに真剣に書いていくことだと思いますので、その気持ちをずっと、忘れずにいようと思います。
って返すことしかできなかったけど、もしどうしようもなく不快な思いをしたというなら、それは申し訳ないと思う。でも一方で、僕の感じたことを率直に言えば、
僕だって自分の見たいものばっかり見てこられたわけじゃないよ?
とは思う。もっと正直に言えば、今の世のなかのできごとを隅から隅まで見たら、僕にとって見たくないものばっかりなんだ。だからその意味では、「ふざけるな」と言ってしまいたいのは僕も同じだ。
だけど、それだけじゃただただ苦しくなるばっかりで、無力感と絶望感に潰されそうになってしまうから、僕はここに想いを書いていくことで自分を助けようとしている。それは結局、自分が生き延びるため、自分自身のためなんだ。

しあわせなひとはそのままでいい。しあわせじゃないひともしあわせを感じられる方法を探したいと思う
あと、そうやってしあわせについて考えるってことは、そのしあわせを阻んでいる原因にも眼を向けることになるんだけど、それは今しあわせを感じられてるひとにはあんまり関係ないかもしれない。むしろ、そういうあなたがここにいても、ほとんど得るものはないかもしれないし、場合によっては不愉快にさせてしまうかもしれない。だから、そういうときは静かに立ち去って、ここのことは忘れてしまってもいい。
ただもしあなたが今しあわせじゃないなら、僕はそういうひとたちと一緒に、どうやったらしあわせを感じられるのかを探していきたいと思うんだ。

だから僕はもっと、あなたと話し合いたい
結局僕はこないだも書いたとおり、あなたともっと話し合いたいんだ。

そしてそのために、この場所を作ったんだ。そして僕は僕なりに見つめ続けて、考え続けて、伝え続けたいと思う。今日のこの文章は、この『四つ這いおとな』がどんな場所(サイト)なのかを改めてまとめて伝えるために書いた。だからもうその目的は充分果たしたと思うんだけど、最後に僕がすごく心を動かされた言葉を紹介して、終わろうと思う。これは古代ローマの劇作家、プビリウス・テレンティウス・アフェルの言葉とされるものなんだけど、僕もずっとこの気持ちを、忘れずにいようと思う。
私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁なことはひとつもない。

コメントをどうぞ
しあわせについて考えると
自分と向き合わなければならなくなります。
いろんな力を使って
魔法の鏡を手に入れてしまいがちですが
自分を正直に映し出す鏡を使わないと
何がしあわせなのか
わからなくなってしまいそうです。
さなぎさん、こんにちは。
そうですね、「しあわせの定義」そのものが、ひとによって違いますもんね。
じゃあ僕の場合は?と考えると、
生きてることが嬉しい(楽しい)と思えたら、しあわせです
と答えると思います。細かく言えばいろいろありますが、核心はそこなのではないかと思うんです。
さなぎさんは、いかがですか?
分かちあえることが出来たと、感じれた瞬間かな。
例えば
突然、虹を一緒にみたときに、顔を見合わせてほほ笑む。
誰かと歩いていて、金木犀の香りが風に運ばれてきて
その人と一緒に秋を感じれたとき。
できるだけたくさん、幸せを感じれるようなこころになっていたいです。
わかち合えるということは、ありがたくて、嬉しいことですよね。
僕もここでさなぎさんと、いろんなことをわかち合っていけたらと、心から思っています。