誰になんと言われても僕が「いのちの大切さ」を最優先に考える最大の理由

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海を眺める男性

昨日、こんな文章を書いた。

僕に対して「障碍者差別」を気にしなくていい。その代わり僕も「健常者差別」をしてる可能性はあるけど、ともかく率直に話し合ってみようよ
現代の日本みたいな社会では、一応表向きでは差別はしちゃいけないよ!ってことになってる。これを「区別」とどう分けるかっていう問題は...

僕は自分が障碍者っていう「差別をされやすい立場」にいるからと言って、自分のなかに差別感情がないなんて思ってはいない。そしてそれは、自分自身すら簡単には意識できないほどの奥底に秘められたものだと思ってる。

誰もが「偏見」を持ってしまうのは当たり前だと思う

そしてよく「差別」っていう言葉と併せて出てくる言葉に「偏見」っていうのがある。でもよく考えると、誰もが偏見から逃れられない性質を持ってるのはある程度しかたがないと思う。だって「偏見」っていう言葉を文字通り分解すると「偏って見る」って書くけどさ、

それぞれのひとを見ている時間は違うんだから、そこには当然偏りがあるよね?

これは「(ザイアンスの)単純接触効果」あるいは「熟知性の原則」っていうのでも言われてるようなことだけど、ここでは単純に言うと、「たくさんの時間を一緒に過ごせば過ごすほど、お互いに親近感や好意を持ちやすくなる」っていう説明がされている。

でもこれだと少し足りないかもしれないね。だって身近なひとをすごく嫌いになってしまうことだってあるから。逆に遠いひととだったら、それなりの距離感で尊重し合えるのにね。だからこれを踏まえると、僕なりの理解では、

たくさんの時間を一緒に過ごせば過ごすほど、お互いの心に強い影響を及ぼすようになる

って言えるんじゃないかと思うんだ。それが好き嫌いどっちの方向にしてもね。だからこう考えると、

「すべてのひとと同じだけの時間を過ごす」なんてことが無理である以上、偏見をまったく持たないなんてことは無理

ってことだと思うんだ。

僕だって、よく知らないひと(嫌いなひと)よりも、自分の身近なひと(好きなひと)をより大切に感じる

そして率直に自分の気持ちと向きあえば、僕だって、

よく知らないひと(嫌いなひと)よりも、自分の身近なひと(好きなひと)をより大切に感じる

っていうのは確かだ。これを別の言いかたでより深く探っていくと、僕もどこかで、「いのちの重さに差をつけている」って言われてもしかたがないと思う。

でも僕はそれでも、今回神奈川で起きた事件を受けた匿名の書き込みにあったように、

ガイジは一人あたり0.1人ぐらいで換算されとるよな

報道の感じは2、3人殺したぐらいやで

なんて言葉にはどうしても抵抗を感じるし、すべてのいのちに「生産性」なんて言葉で価値の順位を決めたり、

そら未来あるガキと未来のないガイジの差よ

なんて言われてしまうのはとても哀しいと思う。そして自分のなかに差別感情があることを重々承知しながらも、やっぱり誰がなんと言おうと「いのちの重み」を最優先に考えたいと思う気持ちは消えないんだ。

「個人的な偏り」はあったとしても、やっぱり全体としてはいのちの平等の原則は外しちゃいけないと思う

これは結局、

自分のなかでの「個人的な偏り」はあるとしても、やっぱり全体としては、僕の身近なひとも、縁遠いひとも、僕と似たひとも、似ていないひとも、いのちの価値は平等だっていう原則を外しちゃいけない

と思うんだ。それは、自分が今の社会のなかで弱い立場にあるからとか、そういうことと無関係ではない。だけど、自分の立場がどうこうとかを抜きにしても、僕はその原則を絶対に手放してはいけないと思う。だってもしその原則が失くなったら、その社会ではひどいことが起きるからだ。

そもそも、「生産性」や「求められる能力」なんていうのは、社会が変わればどうにでも変わる

今の社会では、僕は「障碍者」で、いわゆる「健常者」より生産性が低い。これは事実だ。そして僕の生活を支えている「障碍者手当」は、あなたが働いて稼いだ収入のうちの一部も含んだ税金から支出されている。これも事実だ。そして、その額は年間で120万円くらいだ。

だけどこれは直接の現金収入として僕に与えられているものだけで、その他にも数年に1回買い換える車いすや、月に数回通っている病院にかかるお金は、9割くらい税金で補助されている。こういったこともすべて踏まえると、その実質的な援助額は年間200万円、あるいは300万円くらいになるのかもしれない。で、僕は直接的にはその1%も社会に還元できていない。これも事実だ。

だけどもう少しよく考えてみると、こういう「生産性」とか「求められる能力」なんていうのは、そのときの社会の考えかたによっていくらでも変わるよね?なのにその社会によって「いのちの価値に差をつける」ってことが許されると認めてしまったら、「価値の低いいのちは死んでもいい」ってことが許されると認めてしまったら、

いつかはあなたのいのちだって、「価値が低い」と見なされるかもしれないよ?

あと、少し極端に感じられるかもしれないけど、仮にそこにいる大半のひとが脳性麻痺になってるような世界があったとしよう。そこであなたが歩けるひととして存在したら、周りから、

アイツさ、立って歩くんだよな〜。なんか、気持ち悪くねぇ?

みたいに言われることだってあり得る。もっと言えば、

周りと比べて「能力が高すぎるひと」っていうのも差別を受けることもある

んだから、そこではあなたの歩ける(からだをよく動かせる能力)っていうのは、

なんかさ、すごいのかもしれないけど、みんなとの強調を乱しちゃうし、やっぱお前はこの世界に要らないわ

みたいに言われるかもしれない。「社会がいのちの優劣をつけていい」っていうことは、そういうことも許されるってことだ。

「自分がどの立場になるかはわからない」という前提で考えたら、今の仕組みを選ぶ?

ジョン・ロールズというアメリカの哲学者は、『正義論』のなかで、「無知のヴェール」という概念を提唱して、正義について考えようとした。これはたとえば、

「無知のベール」とは、自身の位置や立場について全く知らずにいる状態を意味する。 一般的な状況はすべて知っているが、自身の出身・背景、家族関係、社会的な位置、財産の状態などについては知らない、という仮定である。 自身の利益に基づいて選ぶのを防ぐための装置だ。 それを通じて、社会全体の利益に向けた正義の原則を見いだせるようになる。

誰も社会のうちで自分がどの位置にあるかを知らない。彼の階級も、彼の社会的身分も、また彼が、生来の資産と能力、知能、体力といったもの配剤にあずかる運を持ったかも知らない。さらに仮定するなら、彼は自分がいだいている善の概念がなんであるかを知らず、自分に固有な心理的傾向がなんであるかも知らない。正義の原理はこの無知のヴェールの陰で選択される。

なんて説明されてる。だけどこれを僕なりにすごくざっくり言っちゃうと、

自分がどの立場に立つかまったくわからないとして、社会の仕組みを考えよう

ってことだと思う。

たとえば、「力が強いひとが他からすべてを奪い、従える社会」っていうのを作ってもいい。そこであなたが力の強い立場に立てた(生まれた)なら、もしかしたらあなたはしあわせになれるかもしれない。でもあなたが強い立場に立てなかった(生まれなかった)ら、あなたがしあわせになれる可能性はずっと低い。だから、そんな社会に正義はないし、そんなものは理想的な社会とは言えない。

だから、どんな社会を作ったっていいんだ。ただ自分がどんな立場に立つかまったくわからないという前提で考えてみてほしい。

あなたは多数派に生まれるかもしれないし、少数派に生まれるかもしれない。大家族に生まれるかもしれないし、親のいない家庭に生まれるかもしれない。他のひとより弱いからだで生まれるかもしれないし、目が見えないかもしれない。自分の意志を伝えられないからだで生まれるかもしれないし、自分でご飯を食べられないからだで生まれるかもしれない。

そんな前提で考えてみてほしい。そしたらどんな社会を思い描くだろう?自分が排斥される側かもしれないとしたら、お前には価値がないと言われる側だとしたら、どんな社会を思い描くだろう?

そもそも、誰かが誰かに「価値がない」なんて言ってもいいなんて社会を、理想的だと思うだろうか?

少なくとも僕は、絶対にそうは思わない。だから僕は、誰がなんと言おうと、「いのちの大切さ」を最優先に考えるんだ。そして

たとえ僕が個人的には好きでもないひとにでも、社会からいなくなってほしいと言うことはない。そんな権利は、僕にはない。誰にもない。

でもすごく重要なことは、

こういうふうな「いのちは大切だ」とか「いのちの優劣を決める権利は誰にもない」っていうのは「動かしようのない事実」じゃなくて、自分たちの選ぶ「信念」だ

ってことだ。だからこれを信念としてないのなら、そこにはまったく違う社会が生まれるだろう。それは誰かが誰かから排斥される社会だ。だけど僕はそんな世界に住みたくはない。誰かが排斥されている姿を見て、なんとも思わない世界の危険さを忘れた世界に住みたくはない。自分が排斥される側に立つ可能性を感じられなくなった社会に住みたくはない。

これが、僕の想いだ。だから僕がここにいられる間は、この想いを伝え続ける。だって僕は、まだここにいたいんだから。

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