僕たちを治そうとしなくていい。それより社会を早く治してほしい

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注射針

神奈川の障碍者施設、津久井やまゆり園で起きた事件について、ずっと考えている。

今日、7月26日、とても哀しい事件が起きてしまった。正直これと向き合うのは簡単じゃないし、あまりにも複雑な感情を刺激されてしまうんだけど、こ...
神奈川の障碍者施設で起きた事件から時間が経って、いろんなひとがこのできごとに言及するようになってきている。そのなかでも特に代表的なも...

毎回書く度に、

これで、書ききった。区切りをつけられた

と思うんだけど、またしばらく経つといろんな想いがあふれてきて、書かずにはいられなくなってしまう。でもあれから少しずつ時間が経って、向き合いながら、吐き出しながら想いを整理しているうちに、僕のなかでひとつの「答え」がより明確になってきた。

それは、

障碍者をなくすために、僕たちを治そうとしても無駄だ

ってことだ。

あなたが望んでいることは、僕たちを「別人に変える」ことですか?

その手がかりとして、まずはこの文章を読んでみてほしい。

「障害者なんていなくなればいい」…

言葉だけでとれば、私も同じことを思った事があります。

でもそれは、決して今回の事件のように、

殺害してこの世から消し去るということではなく、

健常者中心の社会の中で、生きづらさを抱えて苦しんでいる様々な障がい者の方々が、

心身共に全て完治して、何のハンディもなく生きることが出来たら…という意味です。

重度知的障害を伴う自閉症児の息子が完治して、

健常児として人生を送ることが出来たら…

という儚い夢を、何度胸に抱いたことか。

来てくださってありがとうございます♪ 今日未明に起きた、なんとも痛ましい、神奈川県相模原市の障害者施設襲撃事件。もう、皆さんご存知ですよね。特に私達障がい児の…

ここで書かれているようなことは、誰でも考えたことのあるようなことだと思う。特に、障碍者と身近に関わったことのあるひとたちならなおさらだ。僕自身だってそうだ。でも、これは結局根本的な解決にはならないんだ。だって

この考えかたの奥底にあるのは、「弱さの否定」で、それを「矯正」することによって解決しようとすると、「社会の力」はますます衰えていく一方になるから

だ。でも、僕たちは後天的にでも病気や事故、それに自然に起きる加齢や老化によって、どうしたって弱くなることから逃れることはできない。それなのにそれを延々と「矯正」しようとし続けるなら、

行き着く先は「不老不死」か「全人類ロボット化」でしかない。

それは自然に反することだし、たとえ実現することができたとしても、そこにほんとの喜びやしあわせがあるとは思えない。

そして僕の立場からこの文章を書いたひとにはっきり言えることは、

息子さんが「心身ともに完治」したら、もうそのひとはあなたの息子さんとは別人だ

ってことだ。

みゆきさん、あなたの願いは、息子さんを息子さんでないひとに変えることですか?ほんとに願っているのは、息子さんが息子さんでいるままで、穏やかに生きられる社会ができることではないんですか?

「すごい障碍者」を生み出そうとしたら、差別がより深い闇に潜るだけだよ?

次に、この文章も読んでみてほしい。

根本的な解決策は「障害者ってすごい!」という社会になること

「障害者は差別しちゃいけません」という教育はもちろん大切で、冒頭に書いたとおり「”イヤだな”とか”ジャマだな”と感じた直後に考え直す」という効果がある。

でも、根本的には「イヤだな」「ジャマだな」と感じること自体がなくならない限り、今回の事件みたいなリスクはなくならない。

なぜなら、「難しい立場にいる人なんだから守ってあげなきゃ」という建前だけでは暴走を抑えられないから。

障害者支援も、弱みをカバーするんじゃなくて強みを伸ばして欲しい

たまに「すごい障害者」とでも言うべき人いるじゃん?

「障害者=こういうすごい人」というイメージが行き渡れば、見下す風潮はなくなるはず。

(あ…成功者に嫉妬して足を引っ張るようなクズはいるかもだけど、まぁそれは健常者と一緒ってことでw)

(中略)

まとめ

  • 誰もが「障害者なんていなくなればいい」と思ったことをまず認める
  • 解決策:「ジャマ」「イヤ」と感じる以上に「すごい」と思える存在にする
  • 方法:弱みをカバーするだけの支援じゃなく、強みを伸ばす
朝から「津久井やまゆり園」で起きたショッキングな事件が報道されっぱなしですね。 news.yahoo.co.jp で、この実行犯とされる植松聖容疑者は「障害者がいなくなればいいと思った」という趣旨の供述をしているらしい。 誤解を恐れずに言うと、「正直、そう感じることもあるよね」と思った。 あなただって一度は感じたことが...

このひとはこの事件で極端に表された差別感情を乗り越える根本的な解決策として、「すごい障碍者」を作る・育てることを挙げている。でもさ、そんなの無理だよ。そりゃあ、教育のシステムを変えれば、支援の仕組みを変えれば、今より障碍者の強みを伸ばすことはできるかもしれない。だけど、そこにだけこだわったら、結局そこから「落ちこぼれた」ひとたちへの差別感情がより強まる可能性すらある。

みんながそれぞれの強みを伸ばしてるのに、お前はなんだ!努力が足りないんじゃないのか?

みたいにね。

それにさ、その「すごい障碍者」の例として挙げてるのが、「神業」と呼ばれるほどの技巧を持つ福島尚さんと、世界的に活躍するピアニストの辻井伸行さんって、

こんなすごすぎるひとを例にして引っ張って行こうとしたって、ほとんどのひとはついていけないよ!

これは五体不満足を「バイブル」にされた結果、逆にひどく傷ついて落ち込んだ経験を考えると、もう「結論の出ている悪手」だよ。それにその結果、乙武さんはどうなった?

自分のなかの矛盾や仮面に耐えかねて、歪んで壊れかかってるじゃないか?

それは、僕自身が実際に見た彼の姿からも言える。

僕たちはみんな「本音」と「建前」を使い分けながら生きていると言われる。そしてこないだショーンKのことを書いたときにも思ったことだけど、「芸能...

それに、その「仮面」がはがれてしまったあとの彼自身の告白にも表れている。

「正直、恥ずかしいです。つらいです」。01年の結婚後、5人の女性との不倫を週刊誌に報じられ、認めた乙武氏の反省の弁は、さながらザンゲのようだったという。騒動発覚から2週間。「乙武洋匡とは何だったのか」と自らに問いかけた。

「2つある。1つは大学3年の時、五体不満足が出版され、明るくさわやかな『オト君』とのイメージでした。しかしそれは、虚像で重荷となった。自分はそうではない。でも、私は世間が期待する乙武を演じるしかなくなってしまいました」と振り返った。「本当の自分を分かってほしい。そんな思いがプライベートで出た」ことを、過ちの理由の1つとした。

「もう1つは乙武さんといえば、障害を乗り越えた強い人と言われますが、実は乗り越えられていなかった」。乙武氏が初めてつらいと実感したのは結婚7年目。長男が扇風機に指を入れそうになった時、「自分のこの短い手を差し入れ」て扇風機と引き離したものの、長男はあおむけにひっくり返り泣き出した。「本当に情けなくて。これで父親と呼べるのか」。家庭内で何もできない自己嫌悪に陥ったという。

 先月24日に「週刊新潮」で不倫を報じられ、自身も事実を認めた作家・乙武洋匡(ひろただ)氏が5日、都内のホテルで40歳の誕生日を祝うパーティーを開催した。一連の騒動後、公の場に姿を見せたのは初めて。多くの著名人を含む約5【社会】

まして、今の日本だって充分、

障碍者ってすごいよね!がんばってるよね!

っていうイメージ作りに奔走してるでしょ?それが27時間テレビも、パラリンピックも、なんだってそうじゃないか?でもその結果、障碍者の暮らしやすい社会はできた?障碍者への差別感情は薄まった?

そうじゃないよ。むしろ

無理やり輝かせてみせようとした結果、その「光」に入れないひとたちへの差別は、より深い闇に潜りこんだ

んだよ。そして最も性質の悪いことに、

その闇に隠れた差別感情は、普段はその存在を本人が気付くことすら、できなくなってしまった

んだよ。

だから僕がこの文章を書いたひとに言いたいのはこういうことだ。

あなたは飛び抜けてすごいひとですか?逆にどうしようもなく無価値で劣ったひとですか?違いますよね、あなたは、「ただのひと」ですよね?じゃあなぜ僕たちも、ただのひととして生きていてはいけないんですか?それができることこそが、「根本的な解決」だとは思いませんか?

あ、それからあともうひとつだけ言いたいことがあります。

結構マジメな内容なのに、若干きわどい中身を扱っているというだけの理由でメインブログやSNSに書けないこの感じ、ほんとイヤだわ。

なんて言わないでくださいよ。

本気で考えた内容なら、なんで「裏」に隠しちゃうんですか!場所を気にしなきゃいけないほどの「プロブロガー」なら、なんでその力を活かさないんですか!それこそ、「あなたの強みを殺してる」じゃないですか!

「患者を治すこと」で障碍者をなくそうとするとどうなるのか、その答えはもう出ている

こうやって、「障碍」を個人的なものと見なし、障碍者を「患者」と見なして、それを治すことで障碍者をなくそうとする思想を、「障害学」(社会学)の用語で「医学モデル」と呼ぶ。そして実際現代の日本での「障碍」の捉えかたは、ほとんどこの医学モデルに圧倒されている。簡単に言うとこれは、「治しの思想」だ。薬で、訓練で、手術で、障碍者を「健常者」に近付け、努力によって補わせようとする。

でもさ、どうやっても「治らない」ひとっているよね?じゃあそのひとはどうしよう?答えは簡単だ。

そのひとたちは、かわいそうで、不遇で、不幸なひとだ

って捉えてしまえばいい。でもそれだけじゃ解決にはならないし、苦しみは生み出され続ける。どうしようどうしよう?あ、そうだ。じゃあ最初から、生まれないようにすればいいんだ。それでどうなった?

出生前診断ができたんだもんね!

でもでも、それでもまだ今生きているひとは助けられないよ。でもこのひとを「治す」方法はない。生きていても苦しくなるだけだし、周りのひとまで不幸にしてしまう。じゃあもう方法はないのかなぁ?いや、

死という「永遠の安らぎ」を与える方法があるじゃないか!
そしてその「思想」を実践した結果が、今回の事件なんだよ!

だからもう、「医学モデル」がどんな社会を生み出すかは、結果がわかってるんだよ。それでもまだ、このままの道を進むの?あなたにとっては『クオリティ・オブ・ライフ』の世界が、理想郷なの?

私は世界がいつからこうなったのかを知らない。それにどうしてこうなったのかなんてわからない。だってそんな何百年も前の歴史をさかのぼってる時間な...

今治療が必要なのは僕たちじゃない。社会のほうだ

だからもう、僕たちを治そうとするのはやめてほしい。僕は僕であって、僕以外の誰にもなるつもりはない。これをわがままというのはおかしいよ。

だってあなただって、僕にはなりたくないでしょ?

でも僕に苦しみがあるのは確かだ。けどこれはほんとに、僕だけの、僕たちだけの苦しみなんだろうか?あなただって、苦しいんじゃないの?だったらあなたも、「治療」が必要なんじゃないの?

もうここまで言ったらわかるはずだ。今治療が必要なのは誰か「特定の個人」じゃない。

自分に合った【特定の個人】しか受け入れられない、この社会のほうだ

だから僕もなんとかこの社会に対する「治療方法」を探してるんだ。でもこれは僕だけでは治しきれない。だってこれは、みんなで作ったんだから。個人の思想が社会を作り、社会の思想が個人の思想を作るんだから。思想っていうのはウイルスみたいなものだと思う。でも最後に生き残るのは、より強いほうだ。周りを巻き込んで、よりたくさんの仲間を作って、より大きな変化を生み出せたほうだ。そして、僕はあのひとの思想の力に負ける気はない。

だって僕は、99.9%の死を回避した、折り紙つきの図太さを持つひとなんだからね。

この事件に直接触れる文章の締め括りとして、僕が個人的に最も共感する福島智さんの意見が書かれた文章にリンクを張っておきます。僕もずっと、考え続けていきたいです。

「本当は、障害のない人たちも、こうした社会を生きづらく、不安に感じているのではないでしょうか」

コメント

  1. さなぎ より:

    はじめまして

    四つ這いおとなさん

    三日前に、このサイトに出会いました。

    とても考えさせてくれています。

    ゆっくりと、全ての記事を拝見させていただくつもりです。

    これからも楽しみにしています。

    Take care!

    • さなぎさん、こんにちは。

      たくさんあるサイトや情報のなかから見つけてくださり、出会えてよかったです。

      文章や詩やら物語やらいろいろと書いていますが、少しでもなにかのきっかけや力に変えていただければとても嬉しいです。

      これからもよろしくお願いします。

      Thank you so much!

  2. ナニカ より:

    はじめまして、よろしくお願いします。
    いくつか読ませていただき、
    凄く納得、共感しました。
    しかし<自然に反している>や<別人に変える>等、記事中の言葉を見て、四つ這いおとなさんのお考えがよくわからなくなりました。その中で今回はひとつだけ質問をさせてください。

    四つ這いおとなさんは
    記事では障碍者と健常者に違いなどなく、同じであるはず。誰もが完璧ではないのだから、とも仰っておられるように思いました。(違っていたらすみません。)

    僕としては、こちらの考えに非常に共感しているのですが、、、

    一方である記事の中で、障碍者施設の大変さ、重度の障害といわれるの方の”本人の意思とは関係のない”、暴力や迷惑とされてしまう行為について<重度な障碍をもっていて、自らの選択ではない行為をしてしまっているだけ>とも仰っておられます。

    しかしながら、
    <それを”治してしまったら”その人出なくなる>…とも。では人とはなんなのか…。

    一方では、健常者と障碍者に”違い”などない、”その人はただその人”なだけだ、と言い、
    一方では、普通とは”違う”のだ、”自分で選んだことではない”のだからと言い、
    一方では、”選べるようにする”技術はただ”別人”に変えてしまうだけだと言い、

    些か答えを急ぎすぎて矛盾してしまっているのではと思うのです…。
    (捉え方が間違っていたら申し訳ないです…。)

    私はこう思っています。
    障碍と呼ばれるものが、
    ただ短所と呼ばれる部分が、
    苦手なことが、できないことが、
    在ろうが無かろうが、
    増えようが無くなろうが、
    その人はその人なのでは?と。

    そして医学がしようとしているのは
    “完璧化”だけではなく、ただ純粋に、
    生きたい、走りたい、空を見たい、
    話したい、仲良くしたい、
    思うままに生きてほしい。でもできない。
    だから、できるようにしようってしてる人がいる。
    でも現実をみれば追い付いてなくて、
    それでも治らない人がいる。 だから、
    それもなんとかしようってやってる人がいる。
    可能性を、捨ててない。全てにそれを注いでる人がいる。
    それは素敵な事実だと私は思っています。
    (私は別に関係者でもなんでもないです)

    四つ這いおとなさんにとって、
    健常者、障碍者、異常者、
    その人自身とは、一体なんですか?

  3. ナニカ より:

    あ、言葉間違えてる。笑
    失礼しました!

  4. ナニカ より:

    なんだか、そもそも四つ這いおとなさんが伝えたいのは、話してることはそんなことじゃないのに、自分が的外れでただの挙げ足取りだということに気づきました。大変失礼しました。私のコメントは消しておいてください。記事、これからも読ませていただきます!

    • ナニカさん、こんにちは。

      消しておいてください

      とは言われてしまいましたが、あなたのコメントは僕にとってもとてもありがたいものでしたので、ぜひ公開させていただきたいと思いました。

      それに、こうして返信したかったですし。

      さて、最初のコメントにあった

      四つ這いおとなさんは

      記事では障碍者と健常者に違いなどなく、同じであるはず。誰もが完璧ではないのだから、とも仰っておられるように思いました。

      というのは少しだけ違っていて、より正確に言うと、

      障碍者と健常者の間には、確かに「違い」がある。けれどだからと言って、その「いのちの価値」や、「そこにいてもいい」ということは、(本質的に)同じであるはず。誰もが完璧ではないのだし、その意味で周囲の環境(社会)との相互関係においては、誰もが「障碍者」になり得るのだから

      ということです。

      この前提に立つと、あなたが「矛盾」と感じた違和感は、少なからず和らぐのではないかと思います。

      ただそのうえでも、あなたが指摘してくださった、

      そして医学がしようとしているのは
      “完璧化”だけではなく、ただ純粋に、
      生きたい、走りたい、空を見たい、
      話したい、仲良くしたい、
      思うままに生きてほしい。でもできない。
      だから、できるようにしようってしてる人がいる。
      でも現実をみれば追い付いてなくて、
      それでも治らない人がいる。 だから、
      それもなんとかしようってやってる人がいる。
      可能性を、捨ててない。全てにそれを注いでる人がいる。
      それは素敵な事実だと私は思っています。

      というのはまったくそのとおりで、僕の文章がそのひとたちの理想や努力を軽んじるように思われたなら、僕の言葉足らずでした。

      ですからそこをあなたのコメントで補っていただけて、とてもありがたかったです。

      しかしいずれにせよ、こうした問題はとても複雑かつ繊細なので、僕だけでは解決どころか問題の核心を精確に捉えきることすら満足にはできません。

      その意味で、今回のあなたのコメントは、改めて自分の考えを深めるのに、とても大きなきっかけを与えてくださいました。

      本当に、ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いします。

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