神奈川の障碍者施設で起きた事件から時間が経って、いろんなひとがこのできごとに言及するようになってきている。
そのなかでも特に代表的なものについては、このページにもまとめられています。
僕も事件の直後から情報を集めて、自分の想いと一緒に、昨日この文章を書いた。

そしてやっぱり、この事件は僕たちひとりひとりの、そして社会の奥底に潜んでいた価値観を、浮き彫りにしたように見える。
「戦後最大級の大量殺人事件」として、この扱いは妥当なの?
まず前提として、今回の事件は、少なくともこの日本において、「戦後最大級の大量殺人事件」と呼んでいいものだ。
それはたとえばこの文章でも、はっきり書かれている。

これは単に被害者の数だけじゃなく、その内容についても言える。
他に類似の事案がすぐに思い浮かばない、珍しい事件です。被害者の人数からしても、戦後最大級の大量殺人事件といえます。
大量殺人はいくつかのパターンに分けることができます。
・戦前の津山事件(※1938年岡山県津山市の集落で、一晩で30人が犠牲になった殺人事件。加害者は自殺)のように、地域に対して強い恨みを持っている。
・日本赤軍(※1972年、イスラエル・テルアビブ空港で銃乱射事件などを実行)やオウム真理教(※1995年の地下鉄サリン事件などを引き起こす)のような自身の政治的、宗教的な主張をアピールするテロ事件。
・近年の秋葉原事件(※2008年発生の通り魔事件。7人が死亡)や池田小事件(※2001年、大阪・池田市の大阪教育大付属池田小に男が侵入し、児童8人が死亡)のように有名な場所で不特定多数を殺害する。
といった、パターンに分類できます。これも日本の殺人事件の特徴でもありますが、容疑者が自殺するケースが多いのです。津山事件もそうですね。
しかし、今回は元職員という報道もあるように、障害者施設という土地勘がある場所を狙い、しかもこれだけ大量の殺人を犯した後に、出頭している。障害者施設を狙って、これだけの大量殺人が起きたというのも珍しい。
一刺しして、怖くて手を離すパターンもあります。何刺しもするというのは、強い継続の意思がないとできません。
今までのパターンとは一線を画している、極めて珍しい事件です。
じゃあ本来、このニュースはもっともっと大々的に報じて、真剣に捉えてもいいと思うんだ。もちろん、今だってかなりの話題にはなっていると思う。でもこれでも、まだ充分じゃないんじゃないかと思うんだ。
こんなことを考えていたら、ネット上の掲示板にこんな話題が出ていた。
もちろんこれは単なるネットの匿名の書き込みだ。だけどこういう書き込みでも実際にはログは記録されていて、悪質なものは逮捕されることもわかっている。それでも書き込むっていうことは、少なくともそれなりには「正しい」(受け入れられる)と思って書いたんだと思う。じゃあそこから、いくつかの意見を引用してみる。
大量殺人???
ただのゴミ整理だろ
ガイジは一人あたり0.1人ぐらいで換算されとるよな
報道の感じは2、3人殺したぐらいやで
ガイジ殺したとこで報道する価値ないからやろ
さらには具体的に、2001年の「附属池田小事件」を引き合いに出して、
宅間の事件とえらい扱いが違うな
と言ったひとに対しての反応として、
ガイジじゃなくて大学の寮とかだったら
通常番組全部飛ぶレベルの大騒ぎだったんだろうな
ガイジは弱者とかいいつつ命が軽んじられてる
あれは将来あるガキを殺した犯罪者
こっちは害虫・雑草を駆除した功労者
扱いが違って当然
そら未来あるガキと未来のないガイジの差よ
底辺がガイジに八つ当たりしただけやからな
なんて意見が出ている。これが「現実」だ。
事件から1年がたった今、改めて提起されている匿名掲示板での議論でも、基本的な風潮は、変化していないと思います。
「障碍者の実態」を赤裸々に見せることは、メディアではタブー?
そしてここには、もうひとつの「理由」が推測されている。
被害者名を公表できないから被害者ドキュメントとか遺族コメとかおおよそ番組を形にするコンテンツが一切成り立たないから
遺族の泣くとこを執拗に撮るとか被害者の過去の功績を振り返るとかできんからな
ただ植松の過去を報道するしかない
僕もこれには一理あると思う。じゃあどうして、こんな状況になっているんだろう?それは、警察の方針なんだ。
相模原市緑区千木良の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件。神奈川県警は26日、事件の被害者の名前を公表しない方針を明らかにした。殺人などの被害者は公表するのが通例だが、今回の事件について県警は「(現場の)施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」と理由を説明している。
相模原殺傷:神奈川県警、被害者の実名「発表しない」 - 毎日新聞相模原市緑区千木良の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件。神奈川県警は26日、事件の被害者の名前を公表しない方針を明らかにした。殺人などの被害者は公表するのが通例だが、今回の事件について県警は「(現場の)施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者の家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」と理...
でも僕はこれはあまりにもおかしいと思う。だって逆に言えば、
そんなことはないと思う。だけど今のメディアは、SNSでもなんでも利用して、あらゆる情報を流すじゃないか?その姿勢がいいとか悪いとかは別として、それが現代の日本のメディアじゃないか?なのにこういうときだけ「遠慮」したふりをして被害者の実態は隠してしまうなんて、おかしいと思うんだ。これじゃあまるで、障碍者は「タブー扱い」されているというふうに思われてもしかたがないよ。
こんな事件があったからこそ、その「根」に向き合わないでどうするの?
こんな話を友達としていたら、その友達は、
もしかしたら、その遺族も「自分の身内に障碍者がいる」ってことを隠してるのかもしれない。だったら、実名報道とか嫌がる理由もわかる気がしない?
って言ったんだ。この意見は僕にとって、衝撃的だった。でも、もしかしたらその通りなんじゃないかと思った。
この点については、こんな文章・考察もありました。
被害者が匿名で発表されていることについて、女性は「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、とても公表することはできません」と、複雑な思いを明かした。
メッセージによると、女性は親から弟の障害を「隠すな」と教えられて育ったが、事件後は「名前を絶対公表しないで」と言われたという。「心ないことを言ってくる人もいるでしょう」と影響を心配し「今はただ静かに冥福を祈りたいです。事件の加害者と同じ思想を持つ人間がどれだけ潜んでいるのだろうと考えると怖くなります」と結んだ。
相模原殺傷:被害者の姉「とても名前は公表できません」 - 毎日新聞相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の事件で入所していた弟を亡くした女性のメッセージが6日、東京都内で障害を持つ当事者らが開いた追悼集会で読み上げられた。被害者が匿名で発表されていることについて、女性は「この国には優生思想的な風潮が根強くあり、すべての命は存在するだけで価値があるということが当たり前ではないので、...
背景には障害者や家族への差別、偏見があると指摘するのは「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会」(東京)の白沢仁事務局長だ。結婚の際、家族に障害者がいることを理由に相手の家族に反対されることが今でもある。
(中略)
また、自宅で面倒を見られず施設を利用していることに家族が負い目を感じ、周囲に名前を知られたくないと考える場合もあるという。
相模原の障害者施設殺傷:被害者氏名、県警公表せず 背景に差別や偏見 - 毎日新聞背景には障害者や家族への差別、偏見があると指摘するのは「障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会」(東京)の白沢仁事務局長だ。結婚の際、家族に障害者がいることを理由に相手の家族に反対されることが今でもある。
「障害者への偏見がある。同情されるのもつらい。隠しておけば余計な心配をしなくて済む」。兄の被害を隠す理由をそう説明した。
凶刃:障害者施設殺傷事件1カ月/上(その1) 語れぬ生きた証し 遺族、匿名に葛藤「偏見つらい」 - 毎日新聞「近所に何も話していません。名前は伏せてください」。神奈川県内に住む女性が自宅の玄関前で重い口を開き、そっと目を伏せた。女性の50代の兄は相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で刃物で刺されて死亡した。近所の人や親族には、事件に巻き込まれたことを知らせていない。葬儀はごく一部の身内と園の関係者だけで営んだ。
過去、事件や事故の被害者について警察はすべて遺族の了承を取ってから実名発表してきたわけではなく、基本的に間髪容れずメディアへ発表してきた。風俗店の火事などで死者名が伏せられるのは「世間体」に配慮したメディアの判断だ。
本事件では、かりに県警がメディアに実名を発表したとしても、メディア側の判断で結果的に匿名報道というかたちになっていたかもしれないが、メディア判断で実名を伏せることと当局が伏せることは意味が違う。県警記者クラブは匿名発表に抗議している。警察が当初から隠せば、遺族の意思の真否確認ができない。被害者取材が難しくなれば、警察が事件内容を都合よく歪めて発表することもできてしまう。
献花した男性は「新聞に名前がなく知り合いの入所者の安否がわからなかった。園に電話して無事だと知った」と語る。「神奈川県重症心身障害児(者)を守る会」の伊藤光子会長は「実名報道は、まだご家族には無理かもしれないけど、事件がすぐに風化するのでは」と案じていた。
やまゆり園殺傷事件、死亡した障害者の匿名発表が波紋…障害者支援団体が県に抗議 - ビジネスジャーナル/Business Journal | ビジネスの本音に迫るやまゆり園に集まる報道陣(筆者撮影) 最近、あるニュースを受けて、筆者の頭に「澱(おり)」のような物が沈殿していた。その「澱」が浮き上がってきたのが、7月26…
障害のある5歳の息子、真輝(まさき)ちゃんの医療費をめぐり「金くい虫」などとインターネット上で誹謗(ひぼう)中傷を受けているという与党・自民党の野田聖子議員(56)は、事件の犠牲者の家族が匿名を望んだことは驚きではないと話す。
「障害者の家族には2通りあって、1つは積極的に障害児であることをアピールして、世の中を変えていこうというポジティブな人もいるが、『声なき多数』は社会に対して非常にネガティブで、家族に障害児がいることを知られたくない、騒がないでほしいと思っている」と野田議員はロイターに語った。
アングル:障害者殺傷事件、匿名性が日本に突きつけた現実神奈川県相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件の発生から2カ月近くが経過。東京パラリンピック開催まで4年を切るなか、同事件とその犠牲者の身元をめぐる沈黙は、障害者に対する姿勢について日本がどう取り組むべきかを迫っている。「津久井やまゆり園」で7月、睡眠中に刃物を持つ男に襲われ、入所者の19人が死亡し、26
だけどそうやって「隠して隠して隠し続けてきた結果」が今なんだ。これじゃあやっぱり、なにも変わらないんだよ。
犯人の時給は夜勤でも905円だった。でもこれは施設が搾取してるとも言い切れない。結局、国の予算が法律で決まってるんだから。じゃあ、どうしたらいいんだろう?
っていう社会的議論にもならない。ツイッターでの
相模原の障害者施設に刃物男が侵入して人々を手当たり次第殺傷し、19人心肺停止20人重傷となった。抵抗力の弱い障碍者に手をかけるとは、卑劣・卑怯というしかない。しかし、男一人が次から次へと39人に凶行を及ぼしたのに、警備員や職員さんたちはそれを途中で食い止めることができないのか。
— 石平太郎 (@liyonyon) July 25, 2016
いう意見にも、
警備員なんか雇うお金はない!それに介護職員は激務で、そんなに余裕はない!
っていうところで止まってしまう。でも少なくとも僕は、現場の職員さんが大変なのは知ってる。でもそのうえで、
無抵抗で自分の身を護れないひとたちをどう支える?
っていう問いには向き合わなきゃいけないんだ。それに石平太郎さんの本意も、そこの問題提起にあったと言ってる。
それに他にも、介護職員本人の口から訴えられた
私も障害者支援施設の介護士でしたが殺意が芽生えたことが無いとは言いません。
暴言を吐かれる暴力を振るわれる服を脱がされる体を揉まれる等、
それを「病気だから、障害だから仕方ないよ~」で済まされるこの空間
狂 っ て る
って思いながら仕事してました。
https://web.archive.org/web/20160728013911/https://twitter.com/sasaokameat/status/757762974333276160
っていう声にも、向き合わなきゃいけない。考えることは、たくさんあるんだ。そしてそれは誰かに責任を押しつけるとかいう話じゃなくて、今できるだけ多くのひとたちで一緒に、考えなきゃいけないことなんだ。
そしてもちろんそのときには、限られた予算と高齢化社会のことも考えなきゃいけないとは思う。でもそれを極端に持って行き過ぎると、
遺伝性の疾患を持つこの患者は、その生涯にわたって国に6万ライヒスマルクの負担をかけることになる。 ドイツ市民よ、これは皆さんが払う金なのだ
この立派な人間が、こんな、我々の社会を脅かす病んだ人間の世話に専念している。我々はこの図を恥ずべきではないのか?
ナチス・ドイツの「優生政策」の実態 〜安楽死計画「T4作戦」など〜
なんて言い放つところから生まれた無数の哀しみと言いようのない苦しみを繰り返すことになる。このポスターは、もう過去のもののはずだ。でもそのすべての過去と現状を踏まえて、僕たちは未来を考えなきゃいけない。ほんとの意味で犠牲者の冥福を祈るなら、あんな事件があった今だからこそ、その「根」に向き合わなきゃいけないんだ。
たとえみんなが忘れ去っても、僕は忘れない。忘れられない
だけど僕は率直に言って、この事件がこの注目度で扱われるのはせいぜいあと1週間くらいなんじゃないかと思ってる。
今ならむしろ、外国でのほうが注目されてるかもしれない。

でもそれだって、やがては収まるだろう。みんな「自分の世界」以外のことなんて、ずっと気にしてられないんだから。
だけど僕にとっては、これは忘れられる話じゃない。
でもそんな僕ですら、いずれ忘れてしまいそうになるから、ここに書いておく。今日感じている恐怖もすべて。それに今回のことを、
むしろ賞賛されるべきやな
叙勲したれ叙勲
今回の大量殺人事件で特番が組まれない理由wwwwww [無断転載禁止]©2ch.net
家の庭にある雑草切っただけで報道になるわけあらへんし
なんて言っているひとがいることも全部だ。
予告されていたこの事件をなんで止められなかったの!
って?
誰も気にしてなかったからだよ!
だから今でも、
英雄やぞ
他のエリアも続けやカス
今回の障害者殺傷事件、「障害者なんていなくなればいい」というのを口で言ってるだけではなく実際に行動に起こしたあたり一億総活躍社会の先鋒といったかんじがあるし日本の若者もこれを見習って積極的にテロに勤しんでもらいたい
しぐっち on Twitter“今回の障害者殺傷事件、「障害者なんていなくなればいい」というのを口で言ってるだけではなく実際に行動に起こしたあたり一億総活躍社会の先鋒といったかんじがあるし日本の若者もこれを見習って積極的にテロに勤しんでもらいたい”
死んだ障害者があと50年生きるとして
支払われるはずだったナマポは
100万円x50年x15人=7億5000万円
大卒の生涯年収は2億6000万だから大体3人分
ちょっとしたヒーローだな
【朗報】相模の池沼キラー、1日にして大卒サラリーマン3人の生涯年収分の利益を叩き出す [無断転載禁止]?2ch.net
なんて言ってるひとがいても誰も気にしていない。今回の事件が「始まり」にすぎないかもしれないなんて、誰も思ってないんだ。犯人は今回のことを
事件を起こした自分に社会が賛同するはずだった
障害者殺傷 社会が賛同するはずだったとの趣旨供述 | NHKニュース先月26日、相模原市の知的障害者施設で入所者が刃物で刺され19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件で、入所者9人に対する殺人の疑いで再逮捕さ…
と言っているようだけど、それがこうやって現実のものになっていることにちゃんと向き合うひとは、やっぱり少数派なんだ。
だけどそれは他人の考えなんだからしかたがない。みんな、自分の考えと信念に従って生きてるんだから。じゃあ僕だって、自分の信念に従って生きる。だから僕はここで伝え続けるんだ。これを読んだひとのうちの1人にでも、生きている僕の存在を伝えるために。そして、一緒に生きるために。それが未来につながっていることを忘れないために。
まだ想いとモヤモヤが収まらなかったので、さらに続けて書きました。


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私の姪は他府県で特養で働いていますが、夜間は特に手が足りず、70人の入所者を2人で看ないといけない、と言っていました。その人数で、ましてや若い女性だと、突然の凶行があった場合に守りきれるはずがありません。下手すると被害者になるのがおちです。
私の母は特養に入所していますが、私がいつも会いに行く時も10人のユニットで1〜2人が担当しておられます。いつも申し訳なくて頭が下ります。介護職の方々の待遇改善は以前から訴えていますが、なかなか反映されないのがもどかしい限りです。
誰もがやがては歳を取り、病気になり、認知症になったりして、身体のあちこちに不自由が生じてきます。それを当然の変化と想像出来ない人があまりにも多すぎます。
私自身も障害者ですが、要介護5、重度障害1級の父を4年、要介護5、障害3級の母を在宅で1年半看て来ました。
父の時はまだ母が動けたからマシでしたが、母の介護は私一人で本当に一緒に死のうかというところまで追い詰められたことがあります。でも出来ませんでしたけど…。
自分で寝返りも打てないところ、重度の障害ではあります。父などは胃ろうでしたが、でも最後まで家族に気遣うことが出来る掛け替えのない父でした。今は母の分だけちょっと助かっていますが、自分の具合が悪くて会いに行けないとやはり気にかかります。
どういう障害があっても、どういう人も歳を取るのは平等ですし、全部を含めて考えないと本質的な改善には至らないと思います。
この事件は哀しいことですが、多くの人が少しでも本気で取り組んで考え続けて改善の形に持っていって欲しいと切に願っています。
はるうさぎさん、こんにちは。
ええ、僕も本来は社会全体で真剣に考えることが必要だと思っていますが、結局はみんな「目の前のこと」で精いっぱいなんだと思います。だからこそ、この問題がいつも目の前にある僕が、まずは本気で考え続けていきたいと思っています。
今さらですけど無断転載禁止の2ちゃんねるの書き込みを転載するのはちょっとマズイのでは…
通りすがりさん、こんにちは。
え〜とですね、これは今の僕の認識では、「転載」ではなく「引用」と見なしてもらえるものだと思っています。
ただしもちろん、権利者から申し立てがあった場合には、適宜対応をしていきたいと思っています。
よろしくお願いします。
率直に言って、重度知的障害者の命は軽いと思います。
家畜というより虫かそのへんに近いのでは。
だから犯人に対しては、悪趣味で歪んだやつだなあと思いつつも、そこまでの怒りを感じません。
ややはやさん、こんにちは。
あなたがそのように、「いのちの重さ」には違いがあると考える理由の核心を、ぜひ教えていただければと思います。
いのちとは、軽くなったり重くなったりするものなのでしょうか?
だとしたら、その「条件」とは、いったいなんなのでしょうか?
四つ這いおとなさん、こんにちは。
殺されてしまった方々の、一周忌になりますね。
この事件で直接殺されてしまった方々、直接物理的・精神的に深い傷を負わされてしまった方々ーつまりは津久井やまゆり園関係者の方々だけでなく、この事件を知って・またこの事件に対する(特にインターネット上の)反応を知って、あるいは被害者が匿名のまま(つまりは「障害者」という「記号」として報道されていること)であることに、深く深く心を傷つけられている人も多くいます。あまりに深く傷ついてしまって、当初は声をあげられなかった人びとが、この一年の間に、少しずつですが事件に対して・容疑者の主張に対して・社会に対して、「それは間違っている!」ときちんと言い始めているように感じています。
ひとりひとりの声は小さく、言葉もつたないかもしれません。でも、確かにいます。そして言い続けています。私はその『声』をきちんと聴きたいし、そして私も私なりの『声』をあげたいと思っています。
でも、この一年で私が恐怖を覚えたのは、この事件が、「特別な人」(「自己愛性パーソナリティ障害」で措置入院継続すべきであった特殊な人間)が「特別な人たち」(「重度心身障害者」という特殊な人間)を殺した事件、私たちの社会の「普通の人たち」には関係ない事件、私たちの世界とは「別世界(の人たち)」の事件、として片づけられそうな風潮を感じることです。
犯行予告を出し自首した容疑者の彼の「異常さ」が、当初は報道の多くを占めていたように思います。
彼の「異常さ」を強調することで、そして狙われ殺されたのが「重度障碍者」であることで、「社会」の「普通の人たち」は「安心感」を得ようとしていたのかもしれません。
やがて、この事件をきっかけにして、措置入院制度が見直されることになりました。まるで措置入院制度・精神障がい者支援に欠陥があったから事件が起きたかのようです。
これに対しても、「それは違う!」という声が、特に精神障がい者サイドから起きています。でも、その声はなかなか届かない…。
このまま「『異常な人』が『普通でない人』を殺した、『普通の人』には関係のない事件」になってしまうのが、私はとても怖い。
彼のしたこと・彼の主張は、私たちの社会に対する攻撃です。
私は、この事件は「テロ」だと認識しています。
「もし日本でテロが起きたらどうするか」「テロを未然に防ぐためにどうするか」が議論されていますが、すでに起きたじゃないか、と。
彼は、自分の「信念」に基づいて、とても「合理的」に行動しましたし、その後の言動も一貫しています(「心神喪失」ではとてもこんな合理的な行動を貫けません)。彼は、「日本国と世界平和のため」に事件を起こしました。
「障害者は不幸をつくる」というのが、彼の信念です。彼は「皆の幸福」のために、この行動に出ました。
私は、このような彼の言動(報道等で見聞きするだけですが)から、「テロリスト」と相通じるものを感じるのです。
たとえばISIL(イスラム国)に代表される「イスラム過激派テロリスト」は、「世界は『(自分たちと同じ考えの)イスラム教徒』が支配することが『善』であり『平和』である」という価値観のもと、「『異教徒』が存在することが『悪』であり『不幸』だ」と「異教徒」を殺すことをよしとします。人間として生まれたからには「イスラム教徒」であるべきであり、「異教徒」は家畜(「イスラム教徒」の生活を支える、役に立つ存在)以下だ、というのが彼らの価値観だと聞いたことがあります。
この価値観、「イスラム教徒」を「健常者」に・「異教徒」を「障害者」にすれば、事件を起こした彼の主張とまるで同じだと思います。
そして、同様に前者を「『社会』の役にたつ人間」・後者を「『社会』の役にたたない人間」にすれば…積極的に「殺す」とまではいかなくとも、私たちの社会に確かに存在する価値観のひとつになってしまうと思います。
だからこそ、自分たちに関係ない事件・特別な人たちの世界で起きた話として片づけてしまおう、という力が無意識に社会の中で働いているのかもしれません。自分たちの社会がこの事件を生み出したなんて認めたくない・怖くて認められないから。
だけど、私たちの社会には確かにそういう一面はあるかもしれないけど、それが全部じゃない。
私たちは、そういう暗く認めたくない一面を抱えながら・向き合いながら、それを乗り越えて別の方向を目指してきたはず。
理想論・綺麗事・建前として片づける人もいるだろうけど、自分の人生をかけて「共に生きよう。認め合おう。助け合おう。分かち合おう。誰も排除しない・排除されないで、みんなでそれぞれの人生を・幸福を追求しよう。いのちを喜びあおう」と主張し、働き、仲間を増やしてきた人たちがいます。私たちの社会はその人たちの遺産の上に築かれているし、これからも築いていける。
何が絶対的に正しいかなんて、きっと皆が一致することはないかもしれない。
けど、「正しさ」のために誰かが犠牲になるなんて、間違ってる。
一年後にこの事件のことがクローズアップされるときに、「『障害者』殺傷事件」とか「19人の『障害者』が殺された」と言われるのは、私には非常に違和感があります。
「19人の人が殺された」でしょ?
「日本人」とか「女性」とかの「属性」でいうなら「利用者」でいいと思います。そうじゃないと、「障害者」じゃない人にとっては「殺人事件」ということがピンとこないし、殺された人たちに「障害者」という「記号」をずっと貼り付けつづけることになってしまうし、それは事件を起こした彼の主張に乗ることになってしまう。
乗ってはいけないです。
…今回はいつもにもましてとりとめのない、そしてかなり独善的なことを書いてしまいました。
ごめんなさいね。失礼します。
小夜子さん、こんにちは。
僕もこの事件があってから、胸のなかを様々な想いが駆け巡り、なにもせずにはいられなくなってこの文章も含むいくつもの文章を書いたことを、今もありありと思い出します。
そして僕もやはりこの時間にはほんとに複雑な要素が絡み合っていると思っているのですが、小夜子さんのコメントやその他ここにも直接寄せられた多くの言葉を見るにつけ、この事件の核心のひとつは、
「『いのちに重さの違いがある』という考えを、どう受け止めるか?」
ということにあるのだろうと思うのです。
小夜子さんもおっしゃるとおり、多くのひとたちにとって「重度心身障碍者」というのは「普通ではない・特殊な存在」と見なされているのだと思います。ですがそうだとしても、その「普通ではない」ひとたちの価値は、いのちの重みは、「普通」のひとたちに比べて、軽いというように見なされてしまうのでしょうか?だとしたら、それはたとえば
「払っている税金の額と受け取っている社会的サービスの差(バランス)」
あるいは
「社会が求める『能力』を、どれだけ備えているか(備えられる見込みがあるか)」
によって、決まるということなのでしょうか?
このような問いに対する僕の答えは、もう出ています。そしてそれは今後も変わることはないでしょう。ですがこれに対する「社会の答え」は、どうやら僕とは違うのかもしれないと、今も思っています。そしてそれは、僕にとっては、とても怖いことです。だからこそ、僕もこれからも、考え続けたいと思っています。
「人権」というものが決して人間社会に初めから与えられていた概念でないことを、僕は知っています。それはある意味では「発見された」ものです。そしてそれは「地面」のようなもので、地べたに這いつくばる存在にとって最も切実な土台であることは間違いありませんが、ほんとはどこの誰にとっても、重要なものなんだろうと思います。
ただ僕も含め、ひとは「痛み」によってしか、ほんとうには、「傷の深刻さ」に気づけないのかもしれません。ですがたとえそうだとしても、僕たちは「他者の痛み」からでも、なにかを感じ取れると信じています。だから僕自身も、せめて自分にできることを、続けていきたいと思います。ですからどうかこれからも小夜子さんの声を、聴かせてください。よろしくお願いします。
四つ這いおとなさん、分かち合ってくださりありがとう。
私の上のコメントで訂正があります、元職員の彼は既に起訴されているので「容疑者」ではなく「被告」と書くべきでしたね。
呼び方を変えたところで彼自身に変わりはないけれど…(「『不幸を作った』のはアナタだ!」と責める気持ちはあるけれど、これから先、彼が全く変わる可能性がないとは信じていません。生きている限り、変わる可能性はある。彼が可能性を奪ってしまった人たちのことを考えると悲しいけれど…)
以下、ちょっと観念的で、私独自の考え方になってしまうかもしれませんが…
私自身は、「いのちの『重さ』」という概念には違和感を覚えている者です。
ただ、人類の歴史において―その時代・場所・多数派の「価値観」なのでしょうが―「いのち」の「扱われ方」に「差」があった/ある、というのは、現実のことだとは受け止めているつもりです(それをよしとしているわけではありません)。
いまこの時代・この世界・この国においても、同じ人間として、それぞれ個性ある人格的存在としての人びとが、誕生し、生き、死んでいるだけでなく、多くの人が苦しみ、そして殺されているということは、知識としては頭で知っているつもりです。報道で内戦の事、移民や難民の事、食糧難の事、テロや戦争の事、災害の事、事件や事故の事…多くのいのちが傷つけられていることを。
でも、そこで傷ついているいのちを、私はどれだけその痛みを分ちあえているでしょうか?正直に申しますと、ああ可哀想だな、悲惨だな、大変だな…と月並みな感想を言うだけで、頭の片隅から片隅に追いやって、自分の生活の事で精一杯、というのが私自身の現実です。
そんな私が、ある日突然何かの悲劇に巻き込まれたとして、それがニュースになったとして、おそらくこの社会の大抵の人は、普段私が感じているようなことと同じような反応をして、それぞれの生活を続けることでしょう。
でも、私を知っている人は、ショックを受けるし悲しむことと思います。
私もまた、大切な人が何かの悲劇に巻き込まれたら、普段通りではいられません。
そう省みると、私の場合は、「自分にとって『大切な人』」と「そうでない人」がいる、という現実があるのだと思います(実際は二分できるほど単純なものではありませんが)。
「『重度障碍者』のいのちは『軽い』」と思う、と言っている人たちも、ご自身や大切な人が事故や病気で重度の障碍を負うことがないとは限りません(脳が障碍されることもあります)。誰もが重度障碍者として生きる可能性はあるのです。その時に、障碍を負う前と後で、その人にとって「いのちの重さ」は変わるのでしょうか?大切な人が、重度障碍者になった瞬間に「価値のない存在」になるのでしょうか?
そういう「社会的価値」というものがあるのだとすれば、ある意味そうなのかもしれません。でも、それはあくまで一面ですし、決して絶対的なものじゃない。
「社会的価値」自体、時代によって・場所によって変わります。
昔は「奴隷」のいのちは「軽い」ものだったかもしれません。だけど、その人自身の存在は何物にも代えがたい、大切な大切な尊厳ある人間です。だからこそ生まれてきたし、生きていた。その人を大切にする人たちがいた。
革命が起きれば、それまで「重い」とされていた王侯貴族のいのちが「軽く」なります。反動でまた逆転したり…
「Black Lives Matter」を「黒人のいのちの『方が』大切だ」、と解釈している人たちもいるように感じています。そうではない、「いのちの『重さ』」を競い合っているわけではない、どちらが『重い』とか『軽い』とかではない、のだけれど…。
四つ這いおとなさんの「『いのちに重さの違いがある』という考えを、どう受け止めるか?」という問いかけ、重いですね…。
私たちの社会には、そのような考えをもつ人たちがいる、という現実は、まずは現実として受け止めようと思っています。そしてその考えのゆえに、彼らを否定することはしたくない、と。中には私を否定する人もいるかもしれませんが、私は誰をも否定したくないと願っています。
先程も書いたように、私自身にとって、大切な人とそうでない人の「重み」が違うという現実も、どうとらえるべきかと自問しています。
ただ、もしそのように、私という人間もまた「『いのち』の重さ」に差をつけているとするならば…それでも、やはり自分にとって大切でない人・知らない人のいのちが「軽い」とは言いたくないのです。
私以外の・私の知らない人にとって、その誰かのいのちはとてつもなく「重い」こともまた現実です。
母にとって、自分の子どものいのちの「重さ」は計り知れない。愛する人のために誰かを殺した、という事件もあります。
そのような、個人個人にとっての「重さ」は、あるかもしれません。それは神ならぬ人間の限界なのでしょう。ただそれは「社会的価値」とは全く違う次元のものです。
四つ這いおとなさん、私は貴方の問いに対する「社会の答え」は、出ていないと感じています。
「社会」の声は、ひとつではありません。
貴方の声は、確かに「社会」の一部です。
私の声もそう。
貴方を、貴方たちを、決して殺させはしない。
いろいろ書いてしまいましたが、もうひとつだけ…
いのちある人―つまりは個性的・人格的存在である実存としての人間は、ひとりひとり違いますから、完全に分かり合ったり一致したりすることはできないと思います。そういう「違う」つまりはひとりひとりがかけがえのない存在である人びとが共に生きているということが、素敵な奇跡です。
だけど、完全じゃなくてもやっぱり分かち合うこと・分かり合うことはできるし、お互い分かり合おう・分かち合おうとすることはできる。自分と他者は違うけど、人間同士思いやることはできる。
『障碍』の「有無」や「程度」に関らず、また「国籍」や「性別」や「生まれ育ち」や…そのほかいろいろたくさんの違い、そもそも人間存在としての違いはあるけれど、どういう言葉・表現であれ誰もが「生きたい」「大切な人に生きてほしい」という願いをもっているんだと思います。『重度の障碍者』だからそんなことはない、ということはありません。人はみんな特別だけど、「特殊」ではない。感じ方や表現は違っても、生きることにおいて人間そんなに違いません。
ということを、私は伝えたいと思っていますし、分かち合いたいと思っています。
とはいえ私自身、外見や肩書や年齢や話し方と言ったもので人を評価・判断しがちです。それは私の偏見であり、内なる差別心だと思っています。私自身、人を差別する人間なのだという現実からは、逃げるわけにはいきません(逃げたいですけれど…)
でも、そのような自分の評価・判断(とその基準)や「価値観」は決して絶対的なものではない、という自覚は、いつも持っていたいと思います。これを忘れてしまったら、私は自分の価値観に合わない人を排除することになんら疑問を感じないことでしょう。そして、誰かと互いに排除し合うことでしょう。精神的な殺し合いを当然のこととしてしまうでしょう。そうしたくない、そうしないことを選択したいし、選択することができると私は信じています。時には失敗しても、落ち込んでも、諦めないで何度でも選択しようとしたいと願っています。
この私の「願い」(の方向性)は、(たとえ社会や他人が否定しようと)私自身は否定しないし、だからこそ誰にも否定できないと信じています。
こういった繊細な社会問題ならなおさら、正面から向き合って想いを述べるというのは、誰にとっても簡単では決してなく、大きな勇気が必要なものだと思っていますが、それでも小夜子さんがここにこうして想いを書いてくれて、僕にもわかち合わせてくださって、ほんとうにありがたく思っています。
だからこそこれに関しては、無理に単純化して返事を書くことなく、これからもいつも考え続けながら、僕も僕なりに想いを深めていきたいと思います。よろしくお願いします。
僕はこれからも、あなたと一緒に生きていたいです。
どうぞからだと心を、いたわっていてくださいね。
はじめまして。私も精神二級を持った社会で呼ばれる”障害者”です。四つ這いおとなさんの色んな記事、ハシゴさせてもらいました。
それぞれにそれぞれにしかわからない苦しみがあるんでしょうね。健康な人はそれに名前がないだけで。
障害者というテンプレートを外し、一人の”人間”として見てもらうには、こうして当事者が声を上げなければいけませんね。
私も堂々と名乗って、闘いたいです。
遠い道のりですが、本人たちが社会に向き合うことに頑張るしかないと思ってます。より良く立ち回れる私たちの周りの人やネットで憶測するだけの外野の人間じゃなくて、私たちの拙いながらも気持ちのある意見が社会を変えるべきだって思ってます。
あと、障害者って呼ばれるのって、すごく嫌です。変えられないのかなぁ。しかしそれ以上の問題が山積みなので、どうにもならないみたいですね。
不毛な愚痴を失礼しました。
文章に優しさを感じました。私はまだまだ世間知らずの歳で問題に対する細かい対策は思いつきませんが、このサイトの優しさを思い出して生きていきたいです。
どんぶりさん、こんにちは。
ええ、自分にとって嫌な呼び名で呼ばれるのって、とても苦しいですよね。
特にそこに、自分がとても哀しく感じるような想い(価値観)が込められていると思ってしまうときにはなおさらだと思います。
だから僕はあなたのことを呼ばれたくないようには呼びませんし、あなたがどんぶりさんという名前をつけたなら、僕はあなたをどんぶりさんと呼んでいたいと思います。
それから、生きることは確かにいろいろと大変ですし、大切なもののために闘わなければ(主張しなければ)いけないこともありますが、でもだからこそ、ここでくらいは、ゆっくりくつろいでいってもらえればと思います。
またいつでも、遊びに来てくださいね。