ほんとに大切な想い出は護るけど、その「魔法の力」は僕のなかで生きている

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古めかしい本

昨日書いた文章

のなかで、僕は「うさる」さんの書いたこの文章に触れた。

「物語」はなぜ生まれたのか? 何のためにあるのか? 「物語」は、文章だけではありません。 絵画や歌や音楽にも、物語性はあります。 優れた物語とは、何なのか? 物語には人を癒す力があると同時に、強力な呪縛性を秘めている。 そんな「物語」についての話です。 「物語」は、何のためにあるのだろう? 大昔、科学がまだ未発達だった...

でもこれには続きがあって、その文章もとても考えさせられるものだったから、僕もこれを手がかりにして、もう少し考えを進めてみようと思う。

「自分の物語」が他者によってどんどん「消費」されていくという事実

まず、その文章っていうのがこれだ。

人にとって「物語」とは何なのか、何のために人は「物語」を求めるのか、ということを書いた、前回の記事の続きです。 saiusaru.hatenablog.com 今回は特にネット社会における「物語の語り手」側について、書いていきたいと思います。 語り手が陥る「物語」の罠 インターネットを見ていて非常に多いのは、語り手が...

ここにはこんなことが書いてある。

ネットで物語を語れば、それは不特定多数の人間に「自分のための物語」として消費される可能性が大きくなります。

自分だけの物語が、本来、語りたかったこととはまったく違う意味合いが付与されて、自分のことをまったく知らない多くの他人にすさまじい勢いで消費されていく。

常人の神経では、耐えられることではないと思います。

確かに、自分にとってどんなに大切な想いや考え、それに想い出であったとしても、その「物語」は相手に開かれた時点で、どこか「相手に消費されるコンテンツ」としての性格を持つようになるんだと思う。特に、ネット世界みたいな不特定多数に公開する場合はなおさらだ。

だからうさるさんは、そこから身を護るために、物語の語り手には「自衛策」が必要だという考えを書いている。

なので、自分自身を消費されないように、「自分という存在(顔出し実名)」や「傷つけられると困る価値観」は、ネットには出さないようにする、もしくは極端な主張のしかたはしない、これはネットをする上での最低限の自衛策だと個人的には考えています。

でもそれができないなら、結局は「量産型」の文章しか書けなくなってしまう

でもここで、うさるさんは別のひとの文章を紹介して論を展開させる。

ネットで何かを書くことというのは、その辺りも含めてある程度は自己責任と考えていましたが、先日、この記事を読んで非常に考えさせられました。

その文章っていうのがこれだ。

炎上とあおり系の文章の問題について www.meg2.net www.anizm.xyz ちょうど一年~二年くらい前の、炎上でアクセスを稼いでいたブログや、一気に話題になって、浮足立ってしまってそれから失速して消えて行ったブログに似ているので、来年、再来年どうなっているのか注視。blog.livedoor.jp www...

そしてそこには、こんなことが書かれている。

えぐいやり方でアクセスを稼ごうと思えば、いくらでもできる今のインターネットだけど、丁寧に、自分と向き合うブログを、自分自身のことを語るブログを書こうとすると、むちゃくちゃ難易度が高くなる。

(中略)

自分自身の、繊細で、敏感な部分(そしてそれは誰のお話でも面白い、そこにはその人の人生のすべてがあるからだ)を公開するということには、ものすごい覚悟がいる時代になってしまった。人生の、綺麗な思い出として残っている海水浴場の話や、雪の中で、迷子になった話、祖父が死んだ話。死んだ友人との最後の会話。そのような、その人の人生にとってのくさびになるような出来事。それはその人しかかけない、その人だけの、とても面白い価値のある話なのだけれども、インターネットのブログで更新した途端、みんなからよってたかって言及され、間違いを正され、非難され、ありふれた物語に落としこまれ、すりつぶされる。

そして、そんなリスクや苦痛を、ブログ更新者に求めるのは(求めざるを得ないのだけれども)あまりにも、不公平だと思うのだ。それを書く人のコストが大きすぎる。

結局、面白いブログは書かれず、量産型の、~~だと思いました!~~は楽しいです!というブログばかりになる。

どうしたらいいんだろうなあ。

ここで言われているような、自分の大切な物語を不特定多数に公開したとたん、それが消費されていってしまうっていうのは、うさるさんの文章でも言われていたことと同じだ。でも、それを完全に避けようとすると、最後に書かれているように、ただの「量産型」の文章になってしまう。それじゃあ、あまりにもつまらない。それに、

自分を救うことも、ラクにすることもできない。自分の心を動かしていないものが、誰かの心を動かせるわけがない。

そんなことをしたら、それは僕自身が自分の気持ちに嘘をつくことになってしまう。

「感動が安くなった」なんて表現がある。それは今の時代のひとがあまりにもすぐ、感動しました!とか、一生心に残ります!な...

だから僕も、ちゃんと自分の心に踏み込む

だからやっぱり僕は、ちゃんと自分の心に踏み込もうと思う。でも僕は、うさるさんの

公表したものをどこの誰がどのように消費するかは、コントロールすることはできません。「物語の語り手」は、現代のネット社会では、自分の存在が危うくなるようなダメージを負うこともありうるということをあらかじめ想定して、自衛しながら物語を語らなければならないと思います。

本当に大事な物語は、それを「自分の物語として、そのまま聞いてくれる人」にだけ、語ったほうがいい。

っていう忠告も忘れないでおこうと思う。それに、僕のほんとに奥深くにあるものをすべて見せようとしたら、それはそこにまつわる自分以外の誰かのことにも触れてしまうことになるだろう。だから、そんな自分の大切なひとまで「切り売り」するような危険を冒すことは、僕も避けようと思う。

だけどそのうえで、僕はやっぱり「自分の想い」を大切にしたい。そしてそれを培ってくれたのは、僕に出会ってくれたたくさんのひとたちだ。だから、僕の背景には、いつもそんなひとたちがいると思っている。そして僕はその

ひとたちを「消費」されたいとは思わない。でも、それを受け取った僕の存在を通して、それを「にじみ出させよう」

と思う。それが、僕の現時点での戦略だ。それができれば、きっとこれからもだいじょうぶだと思う。そうやって、僕は生き抜いていく。そして僕の想いを伝えていく。そしてそれは、僕を育ててくれた多くのひとたちの想いを、あなたに伝えるってことでもある。

それに、これは一種の魔法なんだ。だって、想いっていうのは、与えるほど増えるんだから。

コメント

  1. 本当の物語はどこまでもその人のオリジナルとして、届くべき人に
    確実に届きます。

    私もかなり好き勝手に12年ブログを書いていますし、わりとたやすく
    本名やなにかにたどり着けるようになっていますが、ごこごくまれに
    訳がわからない人からの的外れなメールが来る程度で、あとは
    実害はありませんでした。

    ありがたいことに、自分の書いた(描いた)ものが誰かの心に
    届いて、それがその人を励ましたり、勇気のもとになったりすることも
    あって、そのこと自体がブログでお金儲けをするとかよりも私には
    大変有意義なものになっています。

    ちょっと勇気は必要かもしれませんが、不思議に恐れる必要はない、と
    私が長年やってきた実感です。

    オリジナルなご自身を大切にしてください(^^)

    • はるうさぎさん、こんにちは。

      12年はすごいですね。それにそんなはるうさぎさんが今でも発信を続けていて、それを有意義だと実感している事実にはとても励まされました。

      僕もちょっとした勇気を失くさずに、でも気長にあせらずに、自分のペースで進んでいきたいと思います。
      ありがとうございます。

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