どこにも自分と同じひとはいないんだから、自分の物語は自分で紡ぐ

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明かりに照らされた本

こんな文章を読んだ。

「物語」はなぜ生まれたのか? 何のためにあるのか? 「物語」は、文章だけではありません。 絵画や歌や音楽にも、物語性はあります。 優れた物語とは、何なのか? 物語には人を癒す力があると同時に、強力な呪縛性を秘めている。 そんな「物語」についての話です。 「物語」は、何のためにあるのだろう? 大昔、科学がまだ未発達だった...

僕もたくさんの「黒い物語」を、実際に語られてきた

ここにはこんなことが書いてある。

人を騙す道具として、黒い物語を語る人間もいます。

「ご先祖さまの供養をしていないから、あなたは今こんな状態なのですよ。だから、供養のためにこれを買いましょう」

などといって物を売りつける、商法がその典型です。

そのとき聞き手の状態が、何かの回答を求めていない状態ならば何の問題もありません。

「ずいぶん、古典的な騙しの手口だな。こんなのに引っかかる人間がいるのか?」

で終わりでしょう。

しかし、自分の問いに対して切実に、どんな答えでもいいから回答を求めているとき、人はこんな見え透いた手口にすら引っかかります。

またこの黒い物語に支配されると、人は「正当な無差別殺人」や「自爆テロ」など普通の倫理観や価値観では考えられないこともやります。

人は「自分の物語がない」状態に耐えられないからです。

どんなに呪いに満ちた真っ黒な物語でも、物語が何もない状態よりはマシなのです。

黒い物語を語る人間はそのことを知っているので、巧妙に物語を語り、人を支配します。

僕もこどもの頃から、たくさんの「黒い物語」を聴かされてきた。その全員に悪意があったとは思わない。でもこれは僕が現在の社会で弱い立場に置かれているから、ほんとに数多く体験してきたものだ。それは、たとえばここにも書いた。

「あなたの魂は穢れている」と言うひとも、「高貴で美しい魂だ」と言うひとも、結論は同じだった
前にでも少し書いたことだけど、僕が物心ついて物心ついた4〜5歳の頃にはもう、どこからか僕の話を聞きつけたたくさんの「宗教関係者」が僕...

そして確かにこの「黒い物語」は強力で、瞬間的には「救い」に近いものをもたらすこともあるかもしれないと思う。それは自分の経験からも言える。でも結局、それが誰かに与えられた物語である限り、それはいずれ崩れ去るんだと思う。

だってそこには、風雨に耐えられるだけの根がないんだから。

だからそれがある時期、もしかしたらそれは数十年かもしれないし、代々受け継がれて数百年になるかもしれないけど、その一定の期間の間は力になってくれたとしても、それはいずれ必ず崩れ落ちる。そしてそのときには、とても強い衝撃が、そのひとの心を襲うはずだ。だからそういう意味では、真っ黒な物語は決して、物語が見つかってない状態よりましとは言えない。

そもそも、誰かから与えられただけの物語では、自分を救いきることはできない

それにそもそも、

この子がこんなからだで生まれたのは、魂が穢れているからです!

なんていう物語は、それ自体がこっちを深く傷つけるものだ。じゃあ逆に、

この子はこの世の穢れを浄めるために、あえて不幸な状態に生まれているのです!

なんて言われればいいかって言われたらそうじゃない。

だって僕の心はどうしても、そんな物語に納得していないからだ。

だから、その気持ちに蓋をしてごまかしたところで、それにはなんの意味もない。むしろ長期的に見れば、自分で自分の首を絞めているとしか言いようがない。もちろん

入口が誰かの意見や言葉だとしても、それを自分なりにとことん吟味して、自分の心と向き合った結果納得できているなら、それはそれでいいとも思う。

でもそうじゃない、「ただ与えられただけの物語」では、絶対に自分を救いきることはできないんだ。

だから結局、自分のための物語は、自分で紡ぐしかない

それにもう少しちゃんと考えてみただけで、誰かの物語では自分を救いきれない理由がはっきりとわかる。

だって、自分と同じひとはどこにもいないんだから。

どんなに似た境遇にあったとしても、そのひとと自分は違う。どんなに表面的に似ていても、同じ病気でも、そのひととは自分とは違う。だから、誰かに合った「処方箋」が、自分にも合うとは限らない。っていうか、合わないことのほうが多いし、合うとしても部分的なものなんだから、そのひとのやったとおりにやっても自分がしあわせになれるわけじゃない。それは、僕が『五体不満足』ではしあわせになれなかったのを考えても明らかなことだ。

だから結局、自分のための物語は自分で紡ぐしかない。それは最初に紹介した文章で言われているところの、「白い物語」だ。自分の状況がどんなにつらくても、理不尽に思えても、そこに意味を与えるための、自分だけの物語だ。僕たちが生きていくためには、それを見出していくしかないんだと思う。「完全な答え」は永遠に出ないんだとしても、考え続けていくしかないんだと思う。

もちろん、僕だって自分でよく考えずに「誰かの物語」を受け入れてる部分はある。でもそれは、自分にとって究極的にはどうでもいい部分だからだ。地球が太陽系の第3惑星なのかそうじゃないのか、地球が丸いのか平たいのかは、究極的にはどうでもいい。もっと言うと、僕の脳が死んでいるのか死んでいないのかも、ほんとはどうでもいいんだ。

別に間違ってたってなんだっていいなら、とりあえず誰かの物語を受け入れていてもいい。だって、人生には限りがあるんだから。

でも、自分にとってどうしても蔑ろにできない問いだけは、自分で答えを探し続けなきゃいけない。自分の人生の物語だけは、自分で紡ぐしかない。

だって自分の想いをわかっているのは、自分しかいないんだから。みんな、それぞれの物語を書くことしかできないんだから。

僕は、自分が生まれてここにいることを呪いだとは思っていない。でももしほんとにそれが呪いなんだとしても、そんな呪いは、自分で解こうと思う。だって僕はそのために、生きているんだから。

コメント

  1. 小夜子 より:

    こんにちは。

    また、私の話をさせてくださいね。

    私も、ずいぶんとネガティヴな物語をいろいろな人から語られてきました。

    それを無防備に受け入れてしまっただけでなく、自分でよりネガティヴな物語を作りだし、そして自分自身に語ってしまっていました。

    そうして、私は「物語」に支配されてしまいました。その物語の枠にぴったりはまるものしか認められなくなりましたし、どんなものでも「黒い物語」の一部として(本来の形をゆがめてしまっても)取り込むようになってしまいました。自分の言動までも「黒い物語」に合わせるようになってしまいました。

    過去形で書きたいところですが、今もまだ、そういうところがあります。抜け出したいと願っているし、今は抜け出そうとしているところだと思っているので、そう書きますね。いつか抜け出せると信じているし、過去に比べたら今は抜け出した方です。

    どうせ受け入れるなら、よりよく生きるための物語でありたい。ポジティヴな物語の材料だって、私の周りにはたくさんある(あった)のです。そして私はポジティヴな物語を紡ぐことができるのです。

    「黒い物語」はそれを否定します。ワタシにはよいものを受け入れる価値なんてない、ワタシにはよい物語なんて作り出せない、ワタシには惨めな人生がふさわしい…と、常に囁いてきます。無意識のうちに耳を傾けうなずいて、そのとおり…と再び黒い物語を語り出してしまうこと、今でも多々あります。あ、いま「黒い物語」に取り憑かれてる、と気づいても、止まらなくなってしまうことも残念ながらあります。

    でも、私が紡ぎたい人生はそれじゃない、ということは分かっているから。

    何度失敗しても、そこからまた新しく始めることができるから。

    私はよりよい物語を紡ぐことができるし、よりよく生きることができる。

    私は、よりよく生きたいと願う自分だけは、決して否定しません。

    私が自分を・自分の人生を否定し傷つけることは、私とかかわってきた人を多かれ少なかれ否定し傷つけることになると思っています。

    中には悪意をもって積極的に私を否定し傷つけようとした人も、善意からそうしてしまった人も、深い意図もなく結果的にそうなってしまった人もいるけれど、私はずっと傷つけられた被害者として生きる必要はまるでないし、彼らをこれ以上「加害者」にしてしまう必要もない。まして、私をひとりの人間として尊重し向き合ってくれた(しようとしてくれた)人たち、私を愛してくれている人たちの存在・人生を、私は(自分の人生という物語においても)否定するわけにはいきません。彼らを「意味がない存在」にしてしまいたくありません。

    私が「黒い物語」を受け入れてしまったのは、そしてそれを語ってしまったのは、きっと自分自身の中にその土壌があり、「根」があったのだと思います。それも私の一面です。でも私のすべてじゃない。

    私には別な面もあります。別な土壌があり、別な「根」がある。

    自分の中には様々なものがあって、時には自分自身予想がつかないけれど、私は自分の中のよりよいものを大事にしたい。自分の中のよい土を耕し、よい種を蒔いて、よい実りを喜びたい。悪いものも無視はできないけれど、それに乗っ取られたくない。少しずつでも、よいものを増やしていきたいし、よいものを取り入れていきたい。

    人生の最後の一瞬まで、人は生きることができるなら、成長することができるし、幸せになることができると思います。それは人生の最後の一瞬まで堕落したり不幸になったりできるということでもあるけれど、最後の最後まで人には無限の可能性があるということです。希望と恐怖は紙一重かもしれません。だからこそどんな状態でも、どんな人でも、希望だけは最後の最後までそこにありつづけるのだと思います。

    ここ数年、こんなことを考えつつ、希望と「黒い物語」との間を行きつ戻りつしてきました。

    四つ這いおとなさん、貴方の文章を読んでいると、やはり私は希望を選びたいという思いを強くするのです。よいものを大切にしたいと思うのです。他人を信じたいと思うのです。自分を愛したいと思うのです。「幸せになれる」という幸せを、信じられるのです。これは貴方が私に強制しているのではありませんし、貴方が私という人間に対し「アナタ(小夜子)の物語」を語っているのでもありません。貴方は自分の物語を紡ごうとしている、自分の人生を生きている、その姿に私が触れて、私の中に生まれてくる私の物語です。私の人生において、貴方は、私が出会った人、否定したくない存在です。

    貴方と出会えた今の自分に感謝します。貴方の文章に心動かされる私として生きていることを嬉しく思っています。だからここに至るまでの自分の人生は、いろいろあったけれど、決して悪くなかったんだと言えますよ。

    • 小夜子さん、こんにちは。

      またしても身に余るほどの言葉を送ってくださって、ありがとうございます。
      
      たくさんの言葉を重ねても伝えきれないので、あえて端的にまとめますが、僕は

      言葉(物語)というのは語り手と読み手の相互作用によって完結する

      という考えかたを支持しています。

      だから僕の物語に、小夜子さんがそんなに暖かい意味を加えてくださったことを、とてもありがたく、嬉しく思います。

      ほんとに、ありがとうございます。

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