僕は前から出生前診断に強い関心を持っていて、ここでもそれに関する文章を書いてきた。


でも、こうやって日が経てば経つほど、僕が悪い意味で予想していたことが、確実に現実のものになってきている。それは、こんなニュースにもはっきり表れている。
妊婦の血液からダウン症など胎児の染色体異常を調べる新出生前診断について、診断した病院グループは27日、昨年4月の開始からの1年間に7740人が利用し、「陽性」と判定された142人の妊婦のうち、羊水検査などで異常が確定したのは113人だったと発表した。このうち97%にあたる110人が人工妊娠中絶をしていた。
確定診断前の中絶が2人、陽性判定を知る前に中絶した人が1人いたことも明らかになった。
新出生前診断 染色体異常、確定者の97%が中絶 開始後1年間、病院グループ集計妊婦の血液からダウン症など胎児の染色体異常を調べる新出生前診断について、診断した病院グループは27日、昨年4月の開始からの1年間に7740人が利用し、「陽性」と判定された142人の妊婦のうち、羊水検
でも世のなかの流れは、やっぱりこれを後押ししている
でも、このニュースを見てもみんなが同じように感じるわけじゃない。それどころか、同じ「障碍者」のなかからも、こんな意見が出るくらいだ。
ここで書かれているような、
育てるのは親です。こうやって騒いでいる人権団体は自分がダウン症児を育てていない場合が多い。仮に育てていたとしても、育てられない親がそういった子供を育てた場合には児童虐待、殺人、そこまでいかなくても施設へと預けたり(育児放棄)などをする可能性だってあります。 ようは、育てる育てない、産む産まないはその妊娠した親御さんが決めることであって周りの人間がとやかくいう資格はない。
っていう意見は確かにすごく「正論」のようにも感じられる。そして実際、そう思っているひとが出生前診断を受けるんだろう。これをいのちの選別だとか言うとまた「とやかく言う」っていうことになるんだけど、これは結局、
自分にとって都合のいいいのちなら産んで、そうでないなら殺す
っていうことなんだから、いのちの選別以外のなにものでもない。そしてこれはすごく微妙な話なんだけど、「この出生前診断の結果による中絶」って言うのは、
今こどもが欲しくない、産める状況じゃないから産まない
っていう、経済的・家庭的な理由から来る中絶とはまた意味が違うものだと思う。だってこれは、
もちろん、
障碍児だとお金がたくさんかかるから……
私には、精神的にも肉体的にも障碍児を育てる自信がない……
っていう意味ではこれも「経済的・家庭的な理由」って言えないこともないのはわかる。そして僕は、別にこういう検査を受ける親御さんや女性を責めたいっていうわけでもない。むしろ僕が心から危機感を感じてるのは、こうした流れに歯止めをかけられないままでいるこの「社会」のほうなんだ。
じゃあこういう価値観が当たり前に受け入れられるようになったら、次はどうなると思う?
最初はもっとていねいに説明していこうかと思ったけど、長々と言うよりも僕の「恐怖」の核心を言ってしまおうと思う。もしこういう出生前診断や、それにまつわる価値観が社会全体に拡がって、それが当たり前に受け入れられるようになったら、その社会はどうなるだろう?それにもう出生前診断は「ダウン症」とか特定の病気だけに留まるものじゃないくらいに進化しようとしてる。じゃあこの流れで行けば、いずれは社会から今言われているような「障碍児」は生まれなくなるだろう。
そしたらそこでその流れは終わるだろうか?僕にはそうは思えない。たとえば僕みたいな「脳性まひ」っていうのは、厳密な意味での「先天性」(遺伝子性)の病気ではない。でも早産で生まれて、自分で呼吸ができない状態だった。だから酸素が脳に回らなくてこうなった。それでも僕が生き延びられたのは、人工呼吸器をつけたり、その他いろんな救命措置を施してくれたひとたちがいたからだ。
でももし、今の出生前診断に代表されるような価値観が当たり前になった世界ではどうだろう?もしかしたらそこではこんなことが普通に言われるんじゃないだろうか?
ご家族のみなさん、今回は残念でした。ただこの子が仮に奇跡的に生き延びられたとしても、どのみちこの社会で生きていくのは難しいでしょう。ですから、この子を助けるために力を尽くすことは無価値だと思います。ただですね、ご家族のご心痛もあるでしょうから、次のお子さんを産む際には、医療費自己負担はかかりませんので、ぜひまたこどもを作ってください。あ、もし今回のことがショックでこどもを作る気にならないとか、年齢的に次はもう難しいというようなことでしたらですね、補償金も請求できますので……
そしたらきっと、僕みたいなひとは全員死ぬことになるだろう。
ここまで来たら、その社会ではもう「ダウン症の啓発運動」なんか要らない。「養護学校」だって要らない。だって、そんなひとはもういないんだから。じゃあスロープはどうだろう?車いすは、補聴器は、トーキングエイドは?
そりゃあいくら障碍児がいなくなったからって、お年寄りとか病気のひと、それに途中から事故でそれが必要になったひとがいるからだいじょうぶだろう
って?ほんとにそう思う?
いいですか、人間だって動物なんですよ。自分で動けなくなったらベッドにいるしかない。見えなくなったら見ないしかない。それで自分でご飯も食べられないなら、もう死ぬしかないんですよ
なんてお年寄りに言い始めたり、
バイク事故ですか、それは残念でしたねぇ……。もう動けないんですよね。「車いす」なんていうのはもう数十年前に生産されなくなりまして、部品も技術も残ってないんですよ。でもですね、そういうひとのために「ホスピス」という施設がありまして……
なんて言って、事故に遭ったひとを封じ込めたりしない?
「出生前診断」が行き着くところまで行ったら、次は「出生後診断」が起きるんじゃないの?
これが僕の考えすぎならいいんだ。ただ社会はどんどん変化してるし、その根底には必ずそのひとたちの「価値観」が反映されている。だから、こういうことが起こる可能性だって、充分にあると思うんだ。それが僕はいつも、すごく怖い。今はまだ「悪質なネタ」で済むような話が、将来ほんとに起こるんじゃないかって、まったく考えないのは難しいんだよ。
スマホのフリマアプリ「メルカリ」で、赤ちゃんが1,000円で出品されており、インターネット上で大変な話題となっています。
ネタなのは間違いないとみられますが、ネタだとしても酷いとして話題になっています。
(中略)
メルカリに出品された赤ちゃんについて、説明欄などには以下のように記載されていました。
赤ちゃん
赤ちゃん欲しかったんだけど~
病気になっちゃったからいらなーい|;・`ω・)ノ⌒゛
誰か買ってあげて♡
病気だから死んじゃうかも?笑笑
まあそこは頑張って~
安く売るよ!!
コメしてね~
死ぬ前に買ってね♡
赤ちゃん待ってるよ♡
カテゴリー:その他 > その他
商品の状態:全体的に状態が悪い
メルカリに赤ちゃん出品?栃木の母親が1000円で売る「病気だから」 | ニュース速報Japanスマホのフリマアプリ「メルカリ」で、赤ちゃんが1,000円で出品されており、インターネット上で大変な話題となっています。 出品したのは母親を装った人物とみられ、「赤ちゃん欲しかったけど病気になっちゃったからいらない」と投稿。 こ
それにこれは切実な気持ちなんだよ。
んだから。
そんなに悲観的になるなよ!
って?
「障碍児は生まれてもみんな不幸になる」なんて決めつけるほうがよっぽど悲観的じゃないか!
それにだいちゃんも、
障害を抱えて生きるのってとても辛いし、その子供を育てる親御さんもとても大変です。
障害者は親が死ねば自分は施設に入るか、それが嫌なら死ななければいけない運命にあります。(私は施設に入るのが無理な性格なので死ぬでしょうね。)
そういった現実を、もっと世の中の人には知っていただきたいです。
ダウン症の人8割「幸せです!」 は? 何言っちゃってんの!? - だいちゃん.com体調を崩していてブログが書けない状態でした。今はなんとか身体を引きずってブログを書いています。 どうも、だいちゃん(∀)です。 皆さんは「ダウン症」というものをご存知でしょうか? ・知的障害 ・先天性心疾患 ・低身長 ・肥満 ・筋力の弱さ ・頸椎の不安定性 ・閉塞性睡眠時無呼吸 ・耳の感染症 ・眼科的問題(先天性白内障...
なんて哀しいことを言わないでよ。それにはっきり言うけど、
それだって「現実」なんだよ。それにだいちゃんは僕よりも収入も友達も多いんだから、そんなひとがそんなふうに「死ななければいけない運命」なんて言わないでよ。別にだいちゃんは、親が死んだってそれなりに生きられるよ!
そしてこれからの社会は、今生きているひとたちの想いが創っていくものだ。だから僕だって、諦めてるわけじゃない。だから、こうやって書いてるんだ。素直な想いを伝えてるんだ。そしてこれからも、見つめ続けて、考え続けて、たとえ少数派だろうがなんだろうが、あがき続けていきたい。

コメントをどうぞ
いつもすみません。
でもどうしても書きたいと思ったので、今日のブログで言及させていただきました。
ひしひしと危惧を抱くものです。
はるうさぎさん、こんにちは。
そんなふうに謝ったり恐縮したりしないでください。
むしろ僕はとても嬉しいです。
ありがとうございます。
今後とも、気軽に関わってくださいね。
よろしくお願いします。
思ったことを・・・
現状として、一般に社会が何かの価値を計る時、一度お金に換算してから考える傾向が強い。その中では、人生の満足感や家庭や文化や自然などは軽視される。経済的に優位にある人間以外は、生活の実感として、その強い傾向に不快感を感じることが多いのではないかと思う。そしてそれは、障碍者に限ったことではない。
しかし、障碍者が、社会の仕組みの中で半分殺されている、とは思う。
そして、それも障碍者に限ったことではない。
それで、結局何が言いたいかというと、お金で計った命ではなく、当たり前に命そのものを生きられる在り方を求めて、模索、実行していきましょう、ということです。
と、まあ二人でいつも話してるようなことを、書いてみました。
おっと、螢ではないですか!こんにちは。
今の社会におけるお金の強さ(影響力)を鑑みたうえで言うと、ここで言う「お金」っていうのをすべて「能力」に置き換えてもいいと思う。
つまりは、能力であればすべてお金に置き換えられ、逆にお金にならないようなものは能力とは見なされない。
とは、
お金を稼げないようなヤツは生きる価値がない
のと同じくらい、
能力のないヤツは生きるな
というのに近い。
だから、能力を腐らせることがもったいないというのに異論はないけれど、いのちを能力で計ればいいということでもないんだと思う。
そのうえで、
っていう結論には、完全に賛成だよ。
これからも、よろしくね。
「受験」や「商売」など色々な出生後診断があります。
だれかさん、こんにちは。
ええ、確かに今の時点でもそのような捉えかたは充分にできますよね。
ですがだからこそ、そのマイナス面がこれ以上拡がってほしくはないと思っている僕としては、これからも僕なりの立場で自分と社会を見続けていきたいと、そう思っています。