受け身も取れず、高みへも昇れないひとはどうやって生きればいい?

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かわいい亀

一説によると、2階から落ちても半数以上のひとは助かるけど、3階からだと半数以上のひとは助からないらしい。でもこれも打ちどころによるし、身の処しかたや受身の取りかたが上手なひとなら、もっとダメージを減らせるかもしれない。

四つ這いの体勢から顔面を強打したときには、さすがに驚いた

けど僕の場合、そもそもからだがほとんど思うように動かないから、ちょっとしたことでも自分の思ってる以上のダメージを受けてしまうことがある。たとえば小学生の頃には歩行器から落ちて頭から血を流したこともある。あともう1〜2年くらい前のことだけど、四つ這いで座っていたら突然からだのバランスが崩れて、気付いたら顔を床に思い切り叩きつけていたことがある。あれは痛かったけど、それ以上に心理的な衝撃がすごかった。

ひとは、四つ這いの体勢からでもケガをする

ってことを、初めて見せつけられたからだ。

でもこれは、からだのことだけに限らない

でもこれは、別に肉体的なことだけに限らない。「社会的な地位」っていう言葉が文字通りに表してるように、ひとは社会のなかにもそれぞれの「高さ」を持っている。そして僕がからだで立ったり、走ったりできないように、僕の社会的な高さも、みんなと同じところまで行くのはどうやったって難しい。

それによく

弱いひとほど失うものが少ないから強いよね

なんて言うひともいるけど、僕がみんなより低いところにいるからといって、転んでダメージを受けないなんてことはない。たとえば僕が経済的にいちばん頼りにしている10万円くらいの「障碍者手当」がなくなったら、僕はすぐにでも大変な状態になるだろう。

すぐわかってもらえると思うけど、「10万円が0円になる」っていうのは、「30万円が20万円になる」のより、「20万円が10万円になる」のより、圧倒的に大きなダメージになる。それは、受け身を習得した柔道家が背負い投げを食らうよりも、僕が四つ這いの姿勢から不意打ちで顔面を強打するほうが、圧倒的に痛いっていうのと同じだ。

だから結局、

失うものが少ないひとほど、その「わずかに残ったもの」を失ったときのダメージは強烈なものだ

っていうことなんだと思う。

じゃあ、そんなひとはどう生きればいいんだろう?

じゃあ、そんなふうに「受け身も取れず、高みにも昇れない」ひとはどうやって生きていけばいいんだろう?僕もそれはいつも考え続けてることなんだけど、まずは

自分をよく知って、環境の変化をよく見て、大切なものを全力で掴み続ける

ってことは必要だと思う。これは、

自分の手に負えないものや、ほんとは要らないものを、無理して抱え込みすぎない

ってことでもある。

でも、どんなに努力しても独りでは限界があるし、不意にバランスが崩れてしまうこともあるだろう。だからそんなときのために、自分が頼れる「緩衝材」(クッション)を持っておくことも大切だと思う。それは家族だったり、友達だったり、とにかく誰でもいいから、自分が困ったときに助けを求められる相手だ。そういうつながりがあれば、だいぶラクに生きられると思う。

社会っていう大きなセーフティーネットをちゃんと活かす

でもそんなこと言ったって、

そんなふうに頼れるひとなんて、そうそう見つからないよ!

って言うかもしれないし、それはそうだとも思う。でも、だからこそ僕たちは「社会」っていうものを作ったんだ。社会の役割はいろんなものが挙げられるかもしれないけど、僕にとっていちばん単純な答えは、

社会っていうのは、大きなセーフティーネットだ

っていうものだ。もちろん、自分ができることをやらずに怠けるってことではないし、特に今の日本の福祉が構造的にけっこうまずい状態なのもわかる。けどそうは言ってもまだ日本の社会福祉は生活保護もあるし、

それなりに最低限「あなたを死なせない仕組み」はあるんだ

と思う。ただその「仕組みがある」ってことと、それが「好意的に受け止められてる」っていうのとは違う。だから実際に生活保護を受けたり、福祉サービスを活用したりするのは気が引ける部分や負い目を感じる部分もあるだろう。僕だってそうだ。

でも、あなたが自分にできることをちゃんとやって、そのうえでつらくて苦しくてどうしようもないときには、社会のお世話になることは、決して間違ってない。っていうか、

そこまで追い込まれる前に、ちゃんと自分を護ってあげてほしい。

社会っていうのは、そのためにあるんだから。

上に伸びられないなら、下を掘るっていう道もある

あと、自分がどうしても高みに昇っていけない心情・状態にあるときには、その気持ちをとことん掘り下げて、「下に伸びる」って道もある。それは別の視点で見ると、

みんなここまで掘るのは危ないって言ってたけど、意外とだいじょうぶみたいですよ!

ってことを身を以て証明する役割にもなる。もちろん、みんなはそれぞれ違う存在だから、自分の体験がそのままみんなにあてはまるってわけではないにしても、そのあなたの情報は、きっと誰かの参考になるはずだ。そして間違いなく言えることは、

上に伸びていくのと同じくらい、下に伸びていくのも冒険だ

ってことだ。だけどそこから得られた情報は、とても貴重なものなんだ。だけど上空に行けば行くほど酸素が薄くなるように、地下(深海)に下りれば下りるほど危険も大きくなる。だから絶対に、無理はしないでほしい。いちばん大切なことは、あなたが生き続けることだ。そしてできれば、笑っていてほしい。それ以上に優先されることなんて、どこにもないんだから。

お願いだから、自分のことを惨めだなんて思わないでほしい

実は今日この文章を書いたのは、こんなニュースを見たからでもある。

埼玉県深谷市の利根川で昨年11月、親子3人が車で入水し、認知症の母と体が不自由な父が死亡した無理心中事件で、母への殺人罪と父の自殺を幇助(ほうじょ)した罪に問われた三女の無職波方(なみかた)敦子被告(47)=同市稲荷町北=の裁判員裁判の初公判が20日、さいたま地裁(松原里美裁判長)であった。被告は起訴内容を認め、生活保護の受給に向けて市の調査を受けた際に「惨めになって死にたい気持ちが高まった」と述べた。

冒頭陳述によると、波方被告は病気で動けなくなった父の藤田慶秀(よしひで)さん(当時74)から事件の3日前に「あっちゃん、一緒に死んでくれるか」と母ヨキさん(同81)との心中を持ちかけられたとされる。

波方被告は被告人質問で、その翌日、かねて相談していた生活保護の受給に向け、市職員と自宅で面接した際、家族状況や職を転々としてきた自らの生い立ちを話したことで死のうとする気持ちが強まったと説明。生活保護で「お金の面は何とかなる」と考えていたが、父の病状悪化で悲観的になったと供述し、「母だけ残しても可哀想だし、家族一緒じゃないと意味がないと父に言われた。一人生き残って申し訳ない」と述べた。

検察側は「嫌がる母をおぼれさせるなど、犯行に主体的に関与した」と指摘。弁護側は「(新聞配達をして生計を支えるなど)頼りにしていた父の病気が悪化し、3人のバランスが崩れてしまった」などとして執行猶予付きの判決が相当と訴えた。

金子智彦 2016年6月21日07時05分

そしてこの公判の前には、この事件を扱ったこんな文章も書かれていた。

作家でプレカリアート活動家の雨宮処凛さんによるコラム。第360回‐利根川介護心中未遂事件〜「本当は生活保護なんて受けたくなかった」。逮捕後、三女が漏らしたという言葉の意味〜...

さっきも書いたとおり、誰かのお世話になるとか、福祉サービスを受けるとかには勇気が要る。それはできることなら受けたくないだろう。それはそうだと思う。だから僕だって、受けようと思えばきっと受けられるんだと思うけど、生活保護はまだ受けずにやってみようと思っている。

昨日、僕としては障碍者は経済的に得だよね〜っていうのは自分の感覚から言って的外れだと思うということを書いた。で、そこで「...

だからこのひとの気持ちは自分なりに想像することくらいはできる。でもやっぱり、僕はこんな哀しいできごとを終わらせたいと思う。それに、僕はあなたに、自分が惨めだなんて思ってほしくない。そしてそれはきっと、僕が高いところにいないから、少しバランスを崩しただけで顔面を打ち付けてしまうような立場だからなおさら、そう思うんだと思う。でも僕はこの立場から生きるしかない。そしてこの想いを無視することはできない。それに僕は、もう自分を惨めだと思っていた頃に戻りたくはない。

だから僕はこれからも生きていく。あなたと、一緒にね。
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