「障碍者だけの国」なんてのができたとしても、僕はそんなところには住みたくない

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疲れた戦士

僕は中学生まではなんとか地元の高校に通っていたんだけれど、高校に進学するときにはどうしても養護学校じゃないとダメだと言われて、しぶしぶ実家から遠く離れた養護学校で寮生活を始めた。このときの担任や周りのひとたちとのやり取りは前にここに書いた。

こないだののなかで、僕は、僕自身、中学校までみんなと同じ地元の学校に通えていたのに、高校進学が近付き、「普通高校」への進学を希望...

でも結果的にこの養護学校での経験は、僕の視野をさらに拡げてくれるいい機会だったとも思っている。それは

「養護学校」は別に和気あいあいとしている場所でも、理解あるおとなたちのなかで穏やかに暮らせる場所でもない

という事実を、これ以上なくはっきりと見せてくれたからだ。

周りのおとなたちとの対立は、僕たちの心に大きな影響を与えていた

笑っちゃうような話だけど、当時僕たちの養護学校の「寄宿舎指導員」は、

ゴールデンウイークまでは、優しく面倒見てやるよ。本番はそのあとだからな

なんてことを薄ら笑いを浮かべながら言っているようなひとたちに牛耳られていた。今思い出してもこんなバカげた「予告」になんの意味があるのか、僕にはわからない。そんなこと言われたら、ゴールデンウイークまで穏やかに過ごすことなんてできるはずないじゃないか?それに実際、そのいわゆる「ハネムーン期間」の指導員たちがそんなに優しかったかと言えば、そうでもなかった。けど確かに予告通り、そのあとはさらにひどくなっていた。そう、

彼らがいちばん優しいのは、入学前の見学者に接するときだけ

だったんだ。

そしてそのあとは、学校の日課と寄宿舎の日課の間の貴重な自由時間を削って行われる聴きたくもない「指導」が繰り返されるようになった。その特に強烈なものはここにも書いたけど、これはほんの一部だ。

つい先日、大阪市立茨田北中学校長の朝礼での発言が、賛否両論を呼び起こした。発言が切り取られているのが問題だ。全文を読めばそんな問題発言じ...

そしてそんななかで、僕たちの心は確実に、荒んでしまっていた。

だからけっこう、養護学校は殺伐としていた

だから、僕が入学前に思っていたよりも、そしてたぶん今の社会が平均的に想像している姿よりも、僕が実際に体験した「養護学校」の姿は、かなり殺伐としていた。生徒同士の言い争いやケンカもあったし、

僕は今だから自分のことを「障碍者」だと認識してるけど、それは大きくなるにつれて、「自分と『社会』との間には、たくさんの不都合(『障碍』)...
昨日書いたような「先天性障碍者」と「後天性障碍者」との論争や感情のぶつかり合いっていうのは、僕も今まで何度も経験してきたものだ。さす...

ストレスの根源であるおとなを殴って、実際に退学になったひともいた。

こないだののときもそうだけど、僕は今「特別支援学校」っていう呼びかたに変わってきてることを知ったうえで、それでも「養護学校」っていう...

「障碍者だけの国を作りたい!」

でもそんなことをしても結局は変わらない環境と無理解のなかで、生徒のなかにはこんなことを思うようになるひともいたんだ。

どうせさぁ、俺たちより健康でカネも権力もある健常者には、俺たちの気持ちなんかわかんねぇんだよ!だったらこの際、障碍者だけの国があったらいいのに!もし俺に力があったら、俺がそんな国を作りたいよ!

それにそんな話のときは、こんなことも話題になっていた。

だって結局、今までのどんな国だって、自分の理想に向かって集まって、国を作ったわけじゃん?それにずっと世界各地で迫害されてたユダヤ人が団結して作ったイスラエルみたいな国だってあるわけだから、別に「障碍者だけの国」っていうのも、絶対に実現できないとは言い切れないと思うんだけどな!

確かに、これは一理あるといえばあるのかもしれない。それにあれだけの抑圧のなかでは、そう言いたくなる気持ちもわかる。でも今の僕には、この意見に賛成することはできない。だって、

もしそんな国ができたとして、そこはほんとにしあわせな場所なの?

っていう疑問が、どうしても消えないからだ。

障碍者だけの力で、生活を成り立たせられるの?

まず、「国」と言うからには、どこかに土地(国土)が必要だ。でもこれえは周囲の理解さえあれば、別に不可能じゃないだろう。今だって「バチカン市国」みたいなすごく小さな国だってあるんだし、アメリカの「州」みたいなのをイメージしたっていい。

「国民」だけど、日本で「障碍者手帳」をもらって公的に「登録」されてるひとの数だって人口の5%くらいいるんだから、少なく見積もっても日本だけで500万人くらいはいることになる。これはフィンランドとかシンガポール、それにノルウェーなんかとだいたい同じくらいだから、充分国として成り立つと言える。

でもさ、国としていちばん大切なのは、

そこにいるひとたちの生活を支えられるか

ってことなんじゃないの?そりゃあもちろん、足りないものは輸入したっていいんだから、すべてを国内で賄う必要はないかもしれない。でも安全保障上の観点から言っても、ある程度は自給できていないといけないと思う。でも仮にも「障碍者」って言われてるひとたちは疲れやすかったり、できることとできないことの差が大きかったり、集団生活に不慣れだったりする。なのにそんなひとたちだけが集まったところで、ちゃんと生活を成り立たせることはできるの?

少なくとも、たとえ僕が1000万人いたって、米粒ひとつ作れないんだけど?

「障碍者だけの国」っていうのは、「健常者だけの国」っていうのと同じくらい排他的だと思わない?

そりゃあ実際には「障碍者」って呼ばれてるひとのなかにはいろんな状態のひとがいるんだから、みんながみんな僕みたいに動けないわけじゃない。だからたとえば、

からだが動くひとは農業をやって、対人関係が苦手だけど集中力がすごいひとはプログラミングをやって、文章が書けるひとは広報をやって……あ、うつなの?じゃあ、寝心地のいいふとんのアイディア考えといて!

みたいにうまく割り振れば、意外にうまく行くのかもしれない。でもさ、そもそもこの「障碍者だけの国」っていうコンセプトにとても排他的な感じがするのが気に入らないんだよね。だってさ、障碍者同士だってその気になればこどもが生まれるじゃない?そしたらその子はほとんどの確率で「健常者」になるでしょ?

そしたらその「健常者の子」は、その国から追放されちゃうの?

それはあんまりだよね。だからって、

障碍者の家族は、障碍者の苦しみがわかるのだから、健常者であってもこの国の国民として認める

なんて言ってみたとしても、やっぱり納得はできない。それってある種の「純血主義」みたいだもん。それにさ、いくら「障碍者同士」って言ったってあなたと僕は違うんだから、わかり合うのは当然じゃないよ?

だから僕たちは、あの学校であんなにケンカしたんでしょ?

結局、相手に寄り添えるかどうかは、障碍者かどうかとは関係ない

だから結局は、

相手をわかろうという気持ちを棄てずに、相手の痛みに寄り添おうと思えるか

だけの問題であって、それは「障碍者かどうか」とは関係ない。だって障碍者のなかにだって、

俺はお前らみたいな「重度障碍者」とは違うんだよ!ちゃんと一般企業に就職して、「立派な社会人」になれるんだからな!

なんていうヤツがいるじゃないか?僕はそんなひとに、「寄り添ってもらえてる」と感じたことはない。そしてそんな価値観でい続けるなら、相手とは友達にはなれないだろう。まぁそれでも僕は、言いたいことを言うけどね。

それにそういう

思いやりっていうのは、「違うひとと一緒にいる経験」から培われてくる

んだと思う。みんながみんな同じなんだったら、思いやる必要なんかないってことになって、みんながすごく自己中心的になりそうな気がする。前に

『アリとキリギリス』のお話なんて、もう言うまでもないくらい有名だ。でも今日はこのお話について、少し考えてみたいと思う。このお話のいちばん...

っていう文章も書いたけど、僕が生きていたいのは、「アリだけの世界」でも「キリギリス」だけの世界でもない、「アリとキリギリスが一緒に暮らせる世界」だ。そしてもし、自分の痛みがわかってもらえなくて、周りの無理解が苦しいって言うんなら、僕たちは

その痛みをわかち合える仲間を増やせばいい

んだと思う。それは、

国を飛び出すんじゃなくて、国を作り変える

ってことだ。そしてそれはやろうと思えば誰にでもできる。もちろん僕にも、あなたにもだ。

コメント

  1. だれか より:

    寄り掛かられる迷惑を受けるほうは相手が障害者だとかどうでもいいんですよね。

    邪魔の一言だけです。

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