昨日、もしあなたが誰かを助けようとしてくれるなら、
なにかお手伝いしましょうか?
と声をかけるのがいいと思うということを書いた。
これは、
っていうことができる表現だからだ。そして、なにより大切なことは、
っていうことを表明してくれてるからだ。そうじゃないと、それは単なる「押し付け」になってしまう。たとえそれが「善意」から来るものであってもだ。
僕はただ、親を待っていただけだった
子供の頃の話だ。その日僕は母親と一緒にスーパーマーケットに行っていた。そんなふうに日常の買い出しに付いていくのは珍しかったからとても楽しかったんだけど、母も僕とずっと一緒にいるのは時間がかかってしまう。だからある程度一緒に回った段階で、母は僕に、
お母さんちょっと調味料いろいろ探してくるから、あんたはここで待っててね。この通路のなかなら自分で見てていいから
と言い残してその場を離れた。だから僕も言われたとおりその場に残って、ぼんやりと品揃えを眺めていたんだ。
そこからまさかの「事件」が起きた
でもそこから僕もまったく予想していない「事件」が起きたんだ。突然
まぁ、そんなところでなにしてるの?
って声がして、僕がそれに答えることもできないうちに、
お母さんはどうしたんだろうねぇ、こんなこどもを独りで置き去りにして!急に離れられても怖いよねぇ!お菓子見に行く?ちょっと待ってねぇ、こんな狭いところよりもうちょっと広いところに連れていってあげるからね!
なんて言ったかと思うと、突然僕の後ろに回って車いすを押し始めて、勝手に店のなかを連れ回したんだ。しかも、その中年女性はしばらくして、
お母さんいなかったねぇ?まぁ、ここなら広いしひと目にもつきやすいからいいでしょ。じゃあ、私はお肉を見てくるからこれでね
なんて言われて、さっさとその場を立ち去ってしまったんだ。
その女性の「善意の行動」は、ただ混乱を生み出しただけだった
その女性は、おそらく「純粋な善意」で行動したんだろう。でも僕は結果として母親との待ち合わせ場所から遠く離れた場所にいきなり置いてきぼりにされてしまったわけだ。さらに問題なのは、
ってことだった。これも医学的には僕の「脳性麻痺」の後遺症なんだけど、僕が「歩けない」とか言うのとは別の、いわゆる「見えない障碍」のひとつだ。今は訓練と経験のおかげで多少はましになったけど、これは別名「空間認識能力」っていうもので、単純に言うと、
っていうのもその一種だ。だから、僕がそこから最初の「待ち合わせ場所」に戻るのは、かなり難しかった。
んだ。
結局、無事母親には会えたけど……
でもそのスーパーがたいして広く複雑な店じゃなかったこともあって、結局僕は無事に母親に見つけてもらうことができた。けど当時10歳にもなってなかった僕としては、これはなかなか怖いことだった。それに、母には
なんで言われた場所にいなかったの!
なんて言われてしまって、僕がいくらその女性のことを話しても信じてもらえなかった。だけどこの体験は、あれから15年以上経った今でも、忘れられないものになっている。
まず手を差し伸べてくれるのは嬉しい。でもちゃんと、本人の意志を確かめてほしい
何度も言うようにその女性が「善意」だったんだとしても、結果としてそれがもたらしたのは「混乱」と「恐怖」だった。だから僕はせっかくの気持ちを活かすためにも、
んだ。
なにかお手伝いしましょうか?
っていう表現だけにこだわる必要はないけど、たとえばあの場面なら、
迷子になったの?だいじょうぶ?
ってぐらい訊いてくれたら、母親を待ってるだけだってことを伝えることはできたんだ。もちろん、明らかにケガして血が出てるとか、一刻を争うくらい切迫した状況が明らかな場合には、確認するより早く行動したほうがいいこともあるだろう。でも基本的には、そのひとのことは、「その道のプロ」である本人に訊いたほうがいちばんいい。
んだよ。意外と外れやすいパーツとかもあるからね。だから、なにかをする前には「本人の意志を確認する」ってことを忘れないでほしい。
でもだからって勘違いしてほしくないんだけど、「言われなくても手を差し伸べてくれる優しさ」を拒絶してるわけじゃないんだ。こっちが助けを求めてもなかなか答えてもらえないことが多いなかで、向こうから手が差し伸べられたときの嬉しさは言い表せないくらいだ。だからこそ、その気持ちをちゃんと活かしたいってことなんだ。だってさ、きっとあの女性はあのあといい気分で家に帰ったんじゃないかって思うんだよ。なのにそれが「怖かった思い出」になってるなんて、そんな哀しいことはないでしょ?