「このからだと一緒に生きること」に関しては、僕がいちばんのプロだ

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PERFECTION IS STAGNATION

なにかの道を究めたかったら、どうしたらいいんだろう?いろんな答えはあるだろうけど、ざっくり言えば「経験を積む」ってことが必要だとは言えると思う。誰かの受け売りじゃない、そのひとの経験(体験)から生まれる「力」を身につけて、鍛えて、成長させることができれば、その「力」はきっと、他の誰かにも必要とされるはずだ。そしてそのとき、あなたはもう「プロ」の道を歩みだしているんだと思う。

10000時間の法則って知ってる?

じゃあ、どうすればそんなプロになれるんだろう?そのひとつの単純な方法が、

時間をかけること

だ。そしてそれはたくさんのひとの体験から「法則化」されてもいる。これを読んでみてほしい。

何かを習得したり、極めたり、一定の能力を獲得したりするためには、圧倒的な時間を訓練に費やす必要があります。
世の中では『1000時間の法則』『10000時間の法則』などと言われています。

『1000時間の法則』・・・周囲から認められるまでには、1000時間をその勉強に費やす必要があるというもの

『10000時間の法則』・・・一定の能力の獲得や成果にとどまらず、いわゆる超一流、天才と呼ばれるレベルに達するには、10,000時間を費やす必要があるというもの

何かを習得したり、極めたり、一定の能力を獲得したりするためには、圧倒的な時間を訓練に費やす必要があります。世の中では『1000時間の法則』『10000時間の法則』などと言われています。 『1000時間の法則』・・・周囲から認められるまでには、1000時間をその勉強に費やす必要があるというもの 『10000時間の法則』...

でも「10000時間」って言われてもちょっとピンとこなかったんだけど、この文章も併せて読むと、もっとイメージが掴みやすくなると思う。

1万時間の法則とは、何毎に置いてもプロレベルになるには大体1万時間かかるというもので、1万時間を3年で割ると一日約9時間という事になります。

仕事であれば就業8時間を集中的に過ごし、その上残業1時間をやりこんで何とか3年で一人前になれるといった所で、感覚としてあながち外れてはいないと思います。

(中略)

今日から3年間、毎日9時間続ければプロレベル。3時間ならセミプロレベルといった感じで、未来のどの点においてどのレベルの自分を準備出来るかが大体予測出来るんですね。

人生、何かを成し遂げたいと願うのなら、最低3年は捨てる覚悟で、その物事に取り組むべきだと語るのは、メルマガ『音多秀茂の【富と成功の5つのタネ

なるほど、これなら実感としてわかりやすい。そしてこの後も読むと、どうすればプロになれるか、逆に言うとどうしてプロになれないのかが、はっきりわかってきた。

3年続かないから格差が生まれる

簡単に3年、3年と書きましたが、これが分かっていて3年続けば大したもので、ほとんどの人が3年続かないから世の中の格差は生まれている、といって過言ではないでしょう。

自己啓発のタネでは何度もお伝えしていますが、あらゆる成果の根拠は「継続と行動」にかかっていますから、途中でやめたら成果は生まれません。

では何故、3年続かないのか?

これは私の感覚ですが、1年くらいは何でも続きます。でも1年半程経っても何も目が出ないと、それ以上続けても何も起こらないと思い、見切りをつけてしまうんですね。

そんな時はそこまでに費やした時間を計算し、1万時間の法則に対して何%達成しているのかを計算してみると良いと思います。

例えば毎日1日3時間続けてきたことなら、たった1,500時間。「達成率15%か、そりゃ目が出ないのも当然だな」と、冷静に判断できるはずです。

じゃあ、僕は実際どのくらい時間をかけてきたんだろう?

これは前に、

僕がなにかを伝えたいと思うのは、まず誰よりも自分のためだ
昔「24時間残念営業」ってサイトがあった。最初に読んだ文章がなんだったかは憶えてないんだけど、それからちょこちょこ読むようになった。でもその...

のなかでも触れたことだけど、特に個人の小規模な「ブログ」の場合、その7割は半年以内に、そして9割は1年以内に、更新をやめてしまうらしい。だったらこんなんじゃ1万時間になんか遠く及ばないだろう。じゃあ僕自身はどうなのかと考えたら、僕はだいたいひとつの文章を3時間くらいかけて書いていて、それが現時点で70個くらいあるんだから、単純に言ってしまえば今まで僕はこの『四つ這いおとな』に200時間くらいをかけてることになる。でもこんなのってまだ、

2万時間のうちのたった2%

でしかないってことだ。こんなんじゃ、まだたいして成果が上がらないのも当たり前だ。せめて「周囲からそれなりに認めてもらえるレベル」の1000時間に達するのにも、まだこの5倍の時間をかける必要があるってことだ。やっぱり、まだまだ先は長い。

じゃあ僕に、どんなことが伝えられるんだろう?

でもこう考えてみると、今70くらいの記事しか書いてない自分があと5倍の努力をしようと思うなら、単純に言えば

350記事、1万時間で言えば3500記事を書くくらいの気持ちを持たなきゃ1人前になれない

ってことだ。これは改めてみるとけっこうな量だと思う。でもだからってどうでもいいことをただ数だけのために書いたって、なんの力にもならないだろう。それにそれは、

自分の心を動かさなくても書けるようなことは書かない

って言った自分の決意を裏切ることにもなる。

僕は僕の「心の動き」を書いていく。それがもしあなたの心とも響き合えたら、とても嬉しい
「感動が安くなった」なんて表現がある。それは今の時代のひとがあまりにもすぐ、感動しました!とか、一生心に残ります!な...
じゃあ僕が心をちゃんと動かして、もっともっと書き続けていられることっていうのは、いったいなんなんだろう?

そうだ、僕には「ずっとやり続けてきたこと」があるじゃないか!

それを「ブログ」と呼ぼうが「サイト」と呼ぼうが、このインターネット時代に個人が書いて公開している文章やコンテンツなんて、それこそ星の数ほどあるだろう。そしてそのなかで一般的には、

専門性があって、読むひとに新しい「発見」をもたらすもの

とか、

そのひとの体験や感性を活かした、「そのひとにしか書けないもの」

なんかが読み継がれていくと言われてる。そしてこれは、自分が読みたいものを考えてみても確かにその通りだと思う。じゃあ、僕がそんな「独自性」を発揮できるものはどこにあるんだろう?

そう考えたらやっと、

そうだ、僕にも「ずっとやり続けてきたこと」があるじゃないか!

ということに気付いたんだ。しかもそれは、1000時間とか1万時間なんてとっくに通り越してるくらい、僕がやり続けてきたことだ。それは、

「このからだと一緒に生きること」

だ。

そんなのお前だけじゃなくて、みんな同じだろ!

って言われるかもしれない。でもさ、このからだは実際、「よくある普通のからだ」じゃない。そしてそれと一緒に生きるには、「誰かの受け売りの生きかた」じゃ対応できない。だって僕のからだは、

ひと癖もふた癖もあるけど、絶対に離れられないヤツ

みたいなものなんだから。そして僕は今まで、どうにか「コイツ」を理解して、「相棒」にしていくために、さんざんいろいろな悪戦苦闘をしてきた。その時間は、寝ている時間を省いて1日のうち16時間だと考えても、

ざっと400万時間以上

だと言える。じゃあこれってもう、「筋金入りのプロ」って言ったっていいよね?

もちろん、僕とあなたは違うけれど……

もちろん、これは「僕のからだ」との付き合いのことだから、これをそのままあなたにあてはめることができるなんて思ってない。たとえあなたが僕と同じ「脳性麻痺患者」だとしてもだ。だって、ひとのからだはみんな違うんだから。でもさ、あの番組じゃないけど、「僕がこのからだと一緒に生きるプロ」として成長する過程で学んだことは、

プロフェッショナルとは、思い通りに行かないときがあるってことを知ってるひとだ

ってことなんだ。実際、昨日も今日も、このからだと一緒に生きるのは、思い通りに行かないことだらけだ。でも僕は、今も生きている。そしてそれなりに生きてることを楽しめてもいる。そりゃあ、大変なことも多いよ。でも結局は、飽きないんだよね。だってまだまだ僕は、コイツのことを知らないんだから。

でもさ、僕は実際こうも思ってるんだ。

「自分と向き合う」っていう課題は、みんな共通してるでしょ?

ってね。それに、

「思い通りに行かないことがある」っていうのも、みんな同じ

なはずだ。だから、「僕は思い通りに行かないからだと一緒に生きてきたプロ」として、今もまだ悪戦苦闘してる「現場」から、自分の心の動きを書いていく。それは自分自身のためにでもあるけど、もしそれをあなたが自分と向き合うために少しでも役立ててもらえれば、とても嬉しい。そしてお互い励まし合いながら、今日も明日も生き抜いていけたらと思ってる。だって僕が究めていきたいのは、そういう道だから。

コメント

  1. 小夜子 より:

    もうひとつ、お話しさせてくださいね。

    私は、生きてきた(自分とつきあってきた)年数は、四つ這いおとなさんより長いです。

    でも、その半分以上は、ある程度「思い通りに行く」のが当たり前の生活でした。もちろん、何でもというわけではないけれど。自分はこの世界の中で上手くやっていけると思っていたし、努力すれば報われるし、自分の状態は昨日も今日も明日も基本的にそんなに変わらないし、自分の人生は自分の思い通りになると思ってました。それ以外の人生なんて考えられなかった。生きていくためには弱いと駄目だと思っていたし、強くなりたかった。

    そんな私の世界が、ある日、突然壊れました。

    私は自分の人生を思い通りにすることが、全くできなくなりました。

    自分の明日の状態の見通しがつかず、何もできなくなりました。

    人を助ける立場に居られた私は、人から助けてもらわなければならなくなりました。

    私のしてきた「努力」は「無駄」になりました。私はもう「努力する」ことができなくなりました。

    私は自分が弱い存在だということをこれでもかというくらい見せつけられました。

    私はこの世界で、それまでと同じように生きていくことができなくなりました。それは私にとって、「自分はこの世界で生きていけない」ということを(当時は)意味しました。

    弱さの経験値がなかった私は、弱い自分を生きることがとても難しかった。弱さを否定していた私には、自分が弱いということが受け入れ難かった。そして自分を否定し、人生を否定しました。「こんな状態なら死んだ方がまし」と何度口にしただろうな。

    思い通りになるのが当たり前だった人生は、かくも脆いものでした。

    じつは人生なんて、思い通りにならないのが当たり前なんですよね。自分の人生だから自分の思い通りにできるなんて、人間の傲慢なんだなと今は思います。人間は神さまじゃない。自分のことも、他人のことも、思い通りにはできない。

    だって人は自分ひとりの力では生きていけないもの。どんなに強い人であっても、その人ひとりでは生きていけない。人間は本来は弱いから、社会をつくってお互いに助け合って生きているんだもの。助ける・助けられる関係と優劣や上下関係は別物のはず。

    と書きつつ、やっぱりどこかで「強くなりたい」「優れていたい」という刷り込みはなかなか抜けきれない私です。「今の私の人生だってそんなに悪くないよ」とはまだ言い切れない私です。でも、昔のように思い通りになるのが当たり前で強く優れた人としてそうじゃない人を見下して生きたいかと言われれば、それはお断り。私の中にまだ根強く残っている以前の価値観だけど、今の私にはそれ以外の価値観の方が大切だし、別な生き方をしたい。

    この社会と相性が悪くなって、私はまずは自分を否定しました。次に社会を否定しました。私にとって、以前の生活は「私も社会も正しい」、そうじゃなくなったのは「社会が正しくて私が間違っている」か「私が正しくて社会が間違っている」かのどちらかだ、と思ったから。

    でも、私も完璧じゃなくて、社会も完全に正しいわけじゃない。間違いを犯すもの同士の「相性が悪い」だけなんだっていう視点を曲りなりにも持てるようになったのは、ここ数年のことです。いつもこの視点に立てるわけじゃなくて、ともすれば「私と社会のどちらかが正しくてどちらかが間違ってる!」という二者択一・黒か白かでどちらかを否定したくなることも多いですけどね。

    自分を受け容れることも、自分を肯定することも、まだまだ私には難しいです。でも心がけていることは、「受け容れられない・肯定できない自分」を責めたり否定したりはしないことかな。受容・肯定できたらもうちょっと楽になるんだろうけど、受容も肯定もできなくて辛くても、私は自分の人生を生きる。自分の生きたいように生き、死にたいように死ねる人生ではなくても、それもまた私という人間の物語です。そういう人間がいてもいい、そういう人生があってもいい。ただ、折角の人生だから、なるべく無駄にしたり傷つけたりしないで、大切によりよく生きたいし、「生きててよかったね。いろいろあったけど、なかなか充実してたよ。私の人生悪くなかったんじゃない?うん、結構よかったよ」と言えるように生きたいし、生きられるし、生きてみますよ。

    思い通りにいかなくても、人間生きられるものですね。問題が多い人生でも、実りはいっぱいある。私という人間は、自分として生きるにはなかなかに厄介だと思っちゃうことは多いですが、まだまだ私も自分をよく知りませんし、日々勉強・日々成長ですね。いつか四つ這いおとなさんのように、人の心に寄り添えるおとなになりたいです。

    お言葉に甘えていっぱい書いてしまいました。聴いてくださりありがとう。

    寒くなりましたね。四つ這いおとなさんの心身と生活、ご家族が守られますように。息災でいらしてくださいね。

    • 小夜子さん、こんにちは。

      強い実感と深い想いの籠もった言葉、体験を共有してくださって、ありがとうございます。

      「弱さの経験値」を溜めながら生きるというのはなかなか難しいですが、僕はいずれにせよそれ以外の生きる道はないので、これからもずっとこうやって生きてみようと思います。

      そして、そんな僕の大好きな言葉のひとつに、北海道浦河町にある「べてるの家」

      の、

      今日も明日も、順調に問題だらけ

      というものがあります。僕もこの言葉を胸に、行けるところまで行ってみたいと、そう思っています。

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