「車いす体験」とか「アイマスク体験」みたいなことが、学校の授業とか企業の研修なんかで行われることがある。いわゆる「障碍者体験」だ。そして僕も何度かその現場にいたこともある。これは、
障碍者の方々の気持ちを理解するために、ぜひ真剣に取り組みましょう!
なんて言われて開催されるんだし、その気持ちはありがたい。でもせっかくならその機会を活かすために、ひとつ大切な前提を、憶えておいてほしい。っていうか、そんなことは言わなくてもわかっているとは思う。だけど僕としてはそれを絶対に忘れてほしくないから、ここでもういちど、伝えておきたい。
段差の大変さ、上り坂の大変さ、それを知ることにも、確かに体験の意義はある
たとえば車いす体験をしたひとたちは、
路面のわずかな凹凸がこんなにからだに響くとは思いませんでした。それにけっこういろんなところに段差があるんですね……
なんて言うふうに「段差」の問題に気付いてくれたり、
いやいや、坂道を上るのは想像以上にキツいものですね〜
なんて言ってくれたりする。
あと、
上から見下ろされる(視点が合わない)っていうのはけっこう怖いものですね……
なんてことに気付いてくれるひともいる。そしてそれは、とてもありがたいことだし、嬉しいことだ。
でも、「それがずっと続く」ってことがどういうことなのかを、しっかり考えてみてほしい
そうやって、段差を乗り越えてみたり、坂道を上り下りしてみたり、室内だけじゃなく外に出てみたりして、「車いす体験」は終わる。そしてたいていの場合は、それは2〜3時間の間に終わることだ。そして、体験したひとはそれぞれの感想を持って、いつもの「日常」に帰っていく。それはそれで、しかたのないことだ。でも実はここにこそ、僕と「体験者」の最大の違いがある。
ってことだ。これは言い換えると、
ってことでもある。
そして僕がほんとに忘れてほしくない前提、一緒に考えてほしいことっていうのは、まさにこのことなんだ。
あなたは僕の生活を、どのくらい長く体験できますか?
たとえば僕を「30分体験」してみるんだったら、それはそんなに難しくないと思う。
なんだ、楽勝じゃん!これで障碍者手当とかもらえるんだったら、こんないい話はないよな!
なんて思うひともいるかもしれない。

でもそりゃあそうだ。だってたった30分なんて、たいしたことじゃないんだから。2〜3時間だって、そんなに難しくはないと思うんだ。
でももしそれが、1日だったら?あなたはトイレに行かなきゃいけない。小のほうだけじゃなく、大のほうだってある。じゃあそれが1週間だったら?さすがにお風呂にだって入りたくなるだろう。1か月もすれば、外にだって出たくなると思う。でもそれは、僕にとって決して簡単なことじゃない。じゃあそれをあなたは、3か月、半年、1年……どれくらい長く、「体験」していられるだろう?そして、こう考えてみてほしい。
もしこれが、ずっと続くんだとしたら?
もし「終わり」が見えてるんだったら、僕たちは息だって止められる。でもそれがずっと続くんだったら、僕には「酸素ボンベ」が必要になる。そしてそれを用意してもらうには、周りのひとたちの「理解と協力」が必要だ。そしてそれにはまず、「想像する」ってことから始めてもらうしかない。
想像してみてほしい。外出中にトイレに行きたくなって、自分が入れるトイレを探しに駆けまわること、バスや電車にいつもどこでも乗れるとは限らないこと、そもそも部屋を借りることが難しいこと……。こんなことは、2〜3時間じゃなかなか見えてこないかもしれない。でもそれは、その条件で「ずっと生活する」僕にとっては、避けては通れないことなんだ。そしてそういう、「住む場所」とか「トイレ」みたいな問題のほうが、「段差」とか「上り坂」なんて問題よりも、はるかに切実で、重大なことだ。そしてそれは僕にとって、確かな「現実」なんだ。

そしてそれは僕にとって、確かな「現実」なんだ。
僕が少し目を閉じてみたって、目の見えないひとの気持ちが完全にわかるはずはない
もちろんこれは「車いす体験」の話だから、僕がここまでわかる(ようになった)ことだ。でも状況が違えば、僕だって「まだまだわかってないほうのひと」になるだろう。
たとえば僕は高校生のとき、自分がいた寮のなかを目をつぶって移動してみたことがある。でもたとえ何度そういうことをしてみたとしても、僕が目の見えないひとの気持ちを完全にわかるようになるなんてことはあり得ない。だって僕は、
からだ。それがたとえ僕の意志を超えた「反射」であろうがなにしようが、僕には「選択肢」がある。だからボールが顔に向かって飛んできたらなんとかして避けようとするだろうし、よくわからない音が聞こえてきたら目で安全を確かめようとするだろう。でも、目が見えない日常を生きるひとに、そんな選択肢はない。
もしあなたが「車いす体験」をしているときに、なにかの拍子に前のめりに倒れそうになったら、あなたは反射的に立ち上がるか受け身を取ることができると思う。でも僕には、そんなことはできない。たとえ顔面を打ちつけることになるとしてもだ。それが、「選択肢」がないっていうことなんだ。でもそれが「お互い様」なのも、僕は知っている。だって、
んだから。
だから僕にもあなたのことを、もっと教えてほしい
だから僕はまだまだ、あなたのことをなにも知らない。そしてそれはちょっと「表面」をなぞったくらいでは、絶対にわからないだろう。だけど僕はそれでも、あなたとわかり合いたいと思う。もちろん、あなたのことを完全に理解できるとは思わない。でもせめて、
だから僕にもあなたのことを、もっと教えてほしい。そしてその時間を、もっと積み重ねていきたい。それでも僕とあなたは違う存在だ。けどだからこそ、助け合うことができる。
そこに「意志」があれば、「違い」という絶望は、希望に変わる
んだ。僕はそのことを絶対に、忘れずにいようと思う。

コメントをどうぞ
突然のコメントを失礼致します。
ふと、何十年も前に小学生の頃に車椅子体験をしたことを思い出し検索していたところ、こちらへたどり着き、記事を拝読いたしました。
おっしゃる通り、数時間や長くとも1日、日中だけ、外でのみ、「車椅子体験」などをしても、車椅子を使うことが普通である車椅子ユーザーさんの日々の生活を知り得る訳がありません。
私の場合、体験後の暮らしの中で、「この道は車椅子で渡れるのだろうか?」など、そういう視点から街を見つめられる機会が増えたりしたので、その体験も無駄ではなかったとは思いますが、やはり、当たり前ですが、「体験」で知ることができるのは本当にほんの少しだと思います。
まるで遠足か何かのように、車椅子に乗って走ったり遊んだりしていた同級生がいたことも覚えています・・・
私自身も、いつどのタイミングで視力や聴力を失ったり、車椅子ユーザーとなるかわからないと思いながら過ごしています。
また、大人になり歳を重ね、昔より人生経験も増え、様々な方とも出会い、国の福祉へ関与しやすい選挙権を持っている今、再度、車椅子や視力に頼れない生活をする体験や、当事者の方々と交流する機会を持つべきだと感じています。
話がまとまらず申し訳ございませんが、四つ這いおとな様のブログを拝読し、このようなことを今一度深く考えるきっかけになりました。
ありがとうございます。
MNさん、こんにちは。
そのようにおっしゃっていただけると、僕もとても嬉しいです。
こちらこそ、本当にありがとうございます。
それにこの文章を書いてからもう4年以上も経った今、こうやってあなたの目に留まり、交流のきっかけになったという事実もとても励みになりました。
もしよかったら、他の文章も併せてお読みいただければと思いますし、僕でよければ直接メールをいただいてもだいじょうぶなので、これからも気軽に遊びに来ていただければと思います。
これから秋も深まりだんだんと肌寒くなってもくるかと思いますが、あなたもどうか、お元気でいてくださいね。