もう気付いてるひともいると思うけど、このサイトではずっと「障碍者」とか「障碍」っていう表記をし続けている。でも今の日本では「障害」っていう表記が一般的で、その他にも「障がい」っていう表記もけっこう遣われていると思う。
「障礙者」はなんで「障害者」になったの?
この「しょうがい」の表記をいちばん古くまで辿ってみると、「障礙」っていう表記に行き着く。でもこれだと「礙」の字があまりにも複雑だから、それを「碍」っていう字に略した。でもこの「碍」っていう字は、戦後の「当用漢字」(それとその後に改定された「常用漢字」には選ばれなかったから、公式な表記として遣うことができなくなったんだ。それで代わりに選ばれたのが、この「害」だった。こういう事情は、たとえばここにも書かれてる。
体及び精神等に、何らかの障害を持つ者。現在一般に使用される「障害者」という表記は、「障礙者」を常用漢字で表記するために書き換えたものである。
意味の異なる「害」の字を使用することを好まない人々の一部は、「礙」の俗字である「碍」を用いたこの表記を使用している。元来この字には「石に進路をさえぎられている」という意味があり、今まで使っていたとされる。
「障碍者」とは - 体及び精神等に、何らかの障害を持つ者。現在一般に使用される「障害者」という表記は、「障礙者」を常用漢字で表記するために書き換えたものである。 意味の異なる「害」の字を使用することを好ま...
あと、もう少し強いニュアンスで、「害」の字に反対を表明しているひともいる。
さて、「障害」という単語もこの「書き換え」による産物であります。 この単語は本来は「障碍(障礙)」(「礙」は「碍」の正字)と表記されるべきものです。 「障」「碍(礙)」ともに「さしつかえる」という意味の単語で、何かことを行うときにさしつかえてしまうことを指します。 (なお、このように同じ様な意味の漢字を二つ並べて熟語を作る例は漢語には多く見られます。 例えば「咽喉」という単語の「咽」「喉」はともに「のど」を意味します。) ところがこれら二つ重なった自動詞「さしつかえる」のうちの一つ即ち「碍(礙)」の方が当用漢字表からもれてしまったため、「書き換え」が行われました。 つまり、「碍(礙)」と同じ音の「害」が当てられたのです。 (なぜこの漢字が書き換えに用いられたかはまだ私は確認しておりませんが、恐らくは「傷害」という単語からのアナロジーであったと推測しています。) 「害」とはものごとを「傷つける」という他動詞的な漢字であり、他に対して危害を与えることであります。 従って、この漢字を含む単語は、「害虫」「災害」「有害」等、あまり好ましい意味にはなりません。 この書き換えを定着させた人々は、「障碍」が他者に害を及ぼすものであるとでもいいたかったのでしょうか。 このような乱暴な書き換えが何者かによって行われそれが現在も何の疑念もなく使われていることに私は非常な憤りを感じるものであります。
「障害」は「障碍」(「障礙」)と表記すべきである
言葉狩りをしたいんじゃない。「しょうがい」の本質を考えてほしいんだ
こういう意見に対しては今までも、
そんなのただの無意味な「言葉狩り」じゃないか?
っていう反論がされてきた。でも
僕は「しょうがい」の本質を考えたいと思うし、考えてほしい
って思ってるんだ。そして、僕が「障害者」から受けるイメージは、
って感じだ。そしてそれに基づくと「障害」は
がんばって少しでもよくしていこう!治していこう!
っていう「個人の問題」のように捉えられる。ちなみにこういう考えかたをひと言で「医療モデル」って呼ぶこともある。
でももともとの「障礙」(障碍)の漢字に込められた意味はそうじゃない。これは「石の前でひとが思い悩んでる状態」を表してるんだ。じゃあ、この考えに基づけば、
じゃあその「石」をなくしてしまえば、障碍はなくなるよね!
ってことになる。つまりこれは、
「障碍」は社会(と個人の関係)が生み出すもの
っていう考えかたなんだ。だからこれを、さっきの「医学モデル」と対比して、「社会モデル」って呼ぶこともある。
ところでこれって、前に紹介した
のなかの、ステラ・ヤングさんの言葉、
なぜなら私は 障害の社会モデルを支持しているからです 私たちが住む社会からもたらされる 障害は 身体や病状よりもひどいという 考え方です
コメディアンでジャーナリストのステラ・ヤングは、たまたま車椅子で生活をしています。ヤングが強調したいのは、この事実だけでヤングが全人類を感化するような気高い存在になるわけではないと言うことです。この面白い講演で、ヤングは私たちの社会が障害者を「感動ポルノ」にしてしまう風潮を批判します。
ともつながってくる話なんだよね。
「この問題をどう捉えるか?」っていう議論は、外国でも起きてるものだ
だからこういう議論は、別に日本だけで起きてることじゃないんだ。
たとえば英語にも”disabled(people)”なんて言葉があるけど、これはそのまま訳すと「不能(者)」ってことで、どっちかって言うと「障害者」の意味合いに近い。それが今では他にも、”handicapped”(ハンデを負った)っていう表現が選ばれてることもある。あとは、宗教的な意味合いを含んだ”challenged”(挑戦を受けた・試練を与えられた)っていう表現を選ぶひともいる。だからこれはやっぱり、単純な「言葉狩り」じゃなくて、
っていう問いかけでもあると思うんだ。
だから、別にその「捉えかた」が一緒なら、たとえ表記が違っても、僕とあなたが争う必要はない。このひとみたいにね。
「『障害者』とは『社会の障害』でも『身体に障害を持つ者』でも無く、『社会との関わりの中で障害に直面している者』という意味であり、私たちはその障害を一つひとつ解消していくことが求められている、と理解しています」
「その考えから、私は『障害』を『障がい』と置き換えることには反対です。『障害』という言葉が引っかかるからこそ、それを社会的に解消しなければならないわけで、表現をソフトにすることは決してバリアフリー社会の実現に資するものではありません」「障害者」という言葉を「障がい者」と置き換えることには反対――。熊谷俊人・千葉市長のツイートが反響を呼んでいます。熊谷市長はどんな思いを込めたのでしょうか。
それに僕は、これをもっと広い意味で捉えたいと思ってる
そしてそれに対しての僕の考えかたを僕は「障碍者」(障碍)っていう表記に込めているんだ。これは、
っていう意志表示なんだ。それに実際、
害虫!害児(ガイジ)!
なんて言われたこともある僕としては、やっぱり「害」の字は選びたくないし。
でも僕はこれをもっと広い意味で捉えたいと思ってる。だって僕は、
って見ているからだ。だからもちろんそれは、医学的な「健常者」とか「障害者」なんていう区切りとは無関係だし、「障碍者手帳」を持ってるとか持ってないっていうこととも関係ない。そうじゃなくて僕が言いたいのは、
あなたが今「困ってる」っていうなら、その「障碍」を共有して、考えて、一緒に解きほぐしていきたいんだ
ってことなんだ。そしてそんな「障碍者」は、今の社会にはたくさんいるんだと思う。だから僕は、そのためになにかをしたいと思ってる。もちろん、自分自身のためにも。
周りがなんと呼ぼうが、あなたの「名前」はあなたが決めればいい
よく、
文章力を鍛えたいなら辞書から学ぶといいよ!
なんていうひとがいる。確かにそれも一理あると思う。でもあくまでも他人の辞書に書かれてるのは、他人の定義でしかないのも事実だ。だから、
と思ってるんだ。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
って言われたでしょ?
じゃあ自分にとってのいちばん大切な言葉はなにかって言ったら、それは「名前」だ。そしてその名前を他人が付けたなら、それは「レッテル」でしかない。そしてそれはひとによっても違うし、そんなものにいちいち惑わされたくない。だから僕は、自分の名前を自分で決めた。もちろん、僕には家族が付けてくれた大切な名前もある。でもそれ以外に社会が付けてくる「脳性麻痺患者」とか「障碍者」とか「ガイジ」みたいなレッテルに流されないために僕が付けた名前、それが
なんだ。
そして僕があなたに言いたいのは、
ってことだ。そしてもし僕があなたに出会えたなら、ぜひこう訊かせてほしいと思う。