『アリとキリギリス』にはいろんなバージョンがあるけど、僕が望むのはこういう世界だ

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Die lustige Grille
http://blogs.yahoo.co.jp/aiai2006_8_8/43344927.html

『アリとキリギリス』のお話なんて、もう言うまでもないくらい有名だ。でも今日はこのお話について、少し考えてみたいと思う。

このお話のいちばんよく知られたあらすじは、

夏の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために働き続け、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って過ごす。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、最後にアリたちに乞い、食べ物を分けてもらおうとするが、アリは「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまう。

っていうようなバージョンだと思う。

でもこの結末には、違うバージョンもあるって知ってた?

でも、このお話にはこの結末じゃないバージョンもいっぱいある。たとえば、これなんかがそのひとつだ。

すると、アリは笑って言いました。
『夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい』
すると、セミはこう答えました。
『歌うべき歌は、歌いつくした。私の亡骸を食べて、生きのびればいい。』

みなさんもご存知であろう「アリとキリギリス」。 この話、もともとは「アリとセミ」だったとか。イギリスには蝉がいないのでキリギリスに置き換えられたらしいです(東欧ではコオロギになっている例が多いらしい)。 だけどもとが「セミ」だというのは納得です。なんせ「夏の間は歌ってばかりいる」と言えば、日本でもやっぱりセミですから。...

こうなると、だいぶ印象が変わってくる。

じゃあ、これはどうだろう?

ある秋の空、キリギリスが街頭でライブを行っていた。その横を、今日の勤めを果たしたアリなどいくらかの昆虫が通り過ぎていった。通りすぎる虫々はキリギリスの才能には目をくれず、ただ上の者の言ったことに従って同じような活動を繰り返していたのである。

しかしその後、天候不順が昆虫らを襲った。アリなど群で暮らす昆虫らのトップは、全部の死滅を避けるという名目で、あっさりとリストラを名目に足切りを行い、アリの1/5が路頭に迷うことになった。

冬、アリなど昆虫の餓死体が道にたまる中で、メジャーデビューしたキリギリスの曲がラジオから流れていた。

これはもう完全に、違う教訓を引き出す話になっている。でもこうしてみると、

このうちのどの結末にだって、たどり着く可能性はある

ってことがいちばん大切なことなんじゃないかって気がしてくる。

「困ったときはひとに頼れ」っていうのはダメなことなの?

でも、なかにはこんな意見もある。

さらに違った教訓が・・・

遊び呆けていたキリギリスが死んでしまう結末について、昔から言われている別の教訓があります。

それは、「色々な生き方がある」という人生のあり方についてです。

これも、眉唾物ですが・・・まあ、分からなくはないといいますか。

つまり、「真面目に働き、細く長い人生を歩こう」という地道な生き方と

「楽しい毎日を過ごして、太く短い人生を歩こう」という道楽な生き方がある、ってことらしいです。

うーん、真面目に長くか・・・楽しく短くか・・・悩みどころですね。

それにしても甘すぎる!

それもこれも、キリギリスが死ぬ前提の見方ですから、言い方は変ですけどキリギリスには死んでもらわなきゃいけないのです。

そうでなければ、「困った時は人を頼れ」とか「人生なんとかなる」って感じの教訓になってしまいますよ!

それはそれで、子供に言い聞かせるのはちょっとね・・・

やっぱり、多少残酷でも原作を言い聞かせた方がいいような気がします。

ショッキングの方が大人になっても忘れませんし、本当の意味で教訓になりますよね!

実は、残酷な結末が多い事で知られている「イソップ童話」 そのほとんどは、童話と銘打っておきながら、とてもじゃないが子供に聞かせられない話ばかりです。 しかし、その童話に隠されている真に作者が伝えたい事を知れば、納得の内容になるのです。 そん

ただ、この意見には個人的にいくつかの疑問がある。

まず、

「真面目に働き、細く長い人生を歩こう」という地道な生き方と

「楽しい毎日を過ごして、太く短い人生を歩こう」という道楽な生き方

が両立しないという前提から始まってるのは、少しおかしいと思う。だって、

ほんとは誰だって、「長く楽しい毎日」を過ごしたいはずでしょ?

それに、

「困った時は人を頼れ」とか「人生なんとかなる」って感じの教訓になってしまいますよ!

なんて言ってるけど、

困ったときに誰にも頼れないような社会なんて、明らかにおかしいでしょ?

アリもキリギリスもそれぞれの役割を果たしてるんだから、あとはただ助け合えばいいんじゃないの?

単純に言って僕から見れば、アリもキリギリスもそれぞれの「役割」を果たしているとしか思えない。これは「得意分野」って言い換えてもいいけど、ここで一気に現代の僕たちの生活に引きつけて言えば、

アリとキリギリスは、農家と芸術家のたとえだ

って見ることだってできると思うんだ。これはもう少し広い意味で、「第1次産業」と「第3次産業」って言ってもいいけど、ここで

キリギリスはラクして遊んでたんだから、甘やかしちゃダメ!

なんて言うのは、「芸術家」とか「詩人」なんかを全否定して、

穀潰し!

って暴言を吐いてることに等しいって思わない?でも、こういうひとたちも含めて、みんなで得意なことをし合いながら生きられるために社会があるのに、これを否定するのは「人類としての退化」だと思う。あとこの「穀潰し」って言葉ってさ、僕も実際言われたことあるんだけど、なかなかキツいよ。

今こそ、すべての「キリギリス」が本領を発揮するときだ

だからさ、結局アリはアリとして、キリギリスはキリギリスとして、自分のいいところを伸ばし合いながら生きればいいと思うんだよ。それにさ、「芸術」ってのは絶対に、「テキトーに遊ぶ」なんてことじゃないし、そうやって生み出された音楽とか詩とか、そういう「無駄がなくなった世界」なんかがいい世界だとは、どうしても思えない。だって実際、僕は音楽がなかったら、今まで生きてこられたかどうか自信がない。

それにぶっちゃけて言うと、

僕自身がまさに「キリギリス」そのもの

なんだよ。そりゃあ、僕は米も作れないし、インフラに貢献してるわけでもない。でも、僕だって自分なりに「いいところ」を探して、それを伸ばそうとしてるんだから、せめて餓死しない程度には、これからも生かしておいてもらえないかなぁ?それに、あなたはほんとに、みんながアリになった世界に住みたいと思う?少なくとも、僕はそう思わない。
だって、そんなのつまらないから。僕が住みたいのは、もっと多様性のある世界だ。

アリがアリとして、キリギリスがキリギリスとして、イモムシがイモムシとして、生きられる世界

だ。そしてそのときにこそ、「物語」の力が必要なんだと思う。だって、今必要なのは、「現状の確認と維持」なんかじゃない。もちろんまったく無意味だとは言わないけど、「分析」だけじゃなにも変わらない。そしてこのままだと、ただ「絶望と無力感」が襲ってくるのを待つだけになっちゃう。それを防ぐいちばんの方法は、「新しい世界を想い描くこと」だ。もちろんそれは、今ある世界の先に生まれていく。だから、世界中の「キリギリス」の出番は、もう今ここに来てるんだ。

コメント

  1. ミネルヴァのトリビア より:

    まさにおっしゃる通りですね!

    人を頼れない世の中は寂しいです。

    ただ、僕の考えるキリギリスは芸術家とか第3次産業とか、そんなことすら考えてない本当にただの遊び人という認識でした。

    それに、四つ這いおとなさんは『キリギリスでは無い』と思いますよ。

    だって、毎日コツコツ記事を書いて頑張っているではないですか!

    仕事の内容は問題ではなく

    「やってるか」「やってないか」

    が、アリとキリギリスの分かれ目だと思います。長文失礼!

    • ミネルヴァのトリビアさん、こんにちは。

      そうですね、その内容が他者からどう評価されるかはいろいろあるとは思いますが、自分にできることをコツコツ続けていけたら、なにかは積み重なっていきますもんね。
      励ましてくださって、ありがとうございます。

      僕も自分のペースで続けていきますが、よかったらまた遊びに来てください。
      いつでも心から、お待ちしています。

  2. 山田太郎 より:

    色んな人がいた方が面白い、というのは常に一方的に助けてもらう側が言う言葉じゃないと思いますけど
    そして芸術と「遊んで暮らす」は全然違いますよ
    いいこと言ってる記事もあるのに、結局は普通高校にねじこもうとしたり、やっぱりそういう人なのかなあと残念です
    普通高校で「お世話」をする同級生の負担を考えてないで希望したことに違和感を覚えました。 「お互い様」ではないですよ?あなたは一方的に助けられて生きていく人生です。

    • 山田太郎さん、こんにちは。

      もしかするといくつか誤解があるのではないかと思うのですが、僕は

      普通高校にねじこもう

      となんてしてないんです。結局は、養護学校に入学したわけですし、こちらの希望が一方的に通らないのはわかっています。

      ですが逆に、こちらとしては

      なんで、自分の「希望」を持つことさえ、あんまり許されないんだろう?

      と思ってしまうわけです。なので結果はどうあれできるだけ「話し合い」を持ちたいとは、いつも思っています。

      あとは、あなたのなかでの

      助けてもらう

      っていうのは、どういうことなのでしょうか?

      僕はこのからだで生まれて生きているから、誰のことも助けられないのでしょうか?

      だとしたらそんな僕は、あなたから見れば、どう生きればいいのでしょうか?

      もしあなたが僕と同じ(とあなたが想像する状況)にあったら、あなたは、どう生きていくと思いますか?

  3. 山田太郎 より:

    極めて修辞的なご質問ですね。
    そうやって言葉を弄して生きてきたのか…なるほど。
    じゃあ逆に聞きますけど、あなたはいま「具体的に」誰をどのように助けているんですか?
    健常者に後ろめたさを感じさせてつけこむやり方って好きじゃないなあ。
    結果的に養護学校行ったことでごまかさないでほしいですね、だって自分で学校の先生に「周りが助けてくれると思うので」って言ってるじゃないですか(笑)

    それと、あなたが望むのは勝手ですよ?
    そこまで私は言ってません。
    でも、望むのは勝手だけど「ごめんだね」という自由も健常側にはあるでしょ。
    それを封殺しようとするなら結局いいこと言っててもあなたも川崎バス闘争のみなさんと変わりないですよ。

    • え〜と、端的な事実をお伝えすると、僕は今たとえば英語を勉強したいひとに英語を教えたり、ウェブサイト制作で苦心してるひとに自分なりのやりかたを共有したり、そういうことはしてます。

      でも僕が本当に言いたいのはそういうことではなくて、

      もし僕がたとえばそういうことも一切していない(あなたの言うような意味で「助けになる」ことがまったくできていない)としたら、あなたにそんな僕は、どう映るんですか?

      ということなんです。

      そしてあなたが言う

      やっぱりそういう人なのかなあと残念です

      っていうのはどういうことで、そして僕があなたから見て「残念」に見えるのであれば、そんな僕はどうなれば「残念」でなくなるのかということを、僕は訊いてるんです。

      これはまったく、修辞的な質問ではありません。

      僕も山田さんとわかり合いたいから、教えてほしいんです。

      それに僕は、なんだかんだ言って僕が困っていたら助けてくれるひともたくさんいると思ってます。もちろん、全員ではないし、

      誰でも僕を助けるべきだ!

      なんて言ってません。

      でも「助けてくれるひともいる」という前提でいますし、そうでなければ少し、生きづらいです。

      ですがあなたは、たとえば僕が急な坂の前で困っていて、

      すみませんが、上まで押していただけませんか?

      と言ったら、

      ごめんだね

      と言うのでしょうか?

      もちろん、急いでいるときもあるでしょう。

      だから僕だって、「断る自由を封殺」しているわけではないんです。

      ですがあなたはどんなときも、僕の依頼を断るのでしょうか?

      そしてそうだとしたら、そのうえであなたは、

      この社会は、そういうひとたちの集まりだ

      と思っているのでしょうか?

  4. 山田太郎 より:

    まったく釣り合わない例を出して「僕も人を助けてる」と言われましても(笑)
    社会や周囲の人があなたを助けているレベルは生存できるかできないかのレベルでしょう?それと英語を教えるのを同列にするのか…いやはや、詐欺師の才能あるんじゃないですかね? 例えば地震が起きた時に、倒れてる子をあなた助けられますか?

    障害年金は高くないと仰ってますが、それって社会的なコストですよね。人間以外の生物なら自分で食物を取れなければ生きていけません。人間は、そういうわけにはいかないことになってるので、健常者がコストを負担しています。あなたはそれだけでは不満で精神的な承認欲求まで満たそうとしていますが、生かしてもらっているだけでもすごいことだとは思わないんですか?

    あなたが社会のためになることがあるとすれば、年々要求が増大しモンスター化する障害者、最近で言えば飛行機遅らせたプロ障害者や乙武さんみたいな人に障害者としてきちんとモノを申すことではないでしょうか。健常に「もっとくれ」というのではなく。
    健常者の金も精神も無限ではありませんよ。

    質問を逸らされていますが、高校に入ろうとした時、友達に多大な負担を一方的にかけることを本当になんとも思わなかったんですか? だとしたら、一生わかりあえないですね。
    障害者の人ってすぐ他人に理解を求めますけど、健常者のことは理解しようとしないですよね。健常者は、あなた方のようにハンデもらってないので、みんなそれぞれのステージで必死に生きてますよ。みんなの気持ち、本当に考えたことある?

    • あなたにとって、「障碍者」であるということは、とてつもなく大きなことで、そう呼ばれている僕のようなひとたちは、それだけでマイナス1万点くらいからのスタートなのかなぁと思います。

      だから、僕がいかに自分のできることを精いっぱいしているとしても、それは「釣り合わない」ということになってしまうし、あなたが僕を認めることは、ほぼ期待できないのかなぁと思います。

      ただ、もし「社会的なコスト」が問題なのだとしたら、たとえ障碍者でも、たとえば税金をたくさん納めていたり、ちゃんと目に見えるかたちで「社会に貢献」していれば、あなたはそのひとたちを認めるということでしょうか?

      それとも、障碍者であればそれは誰でも、「一方的にお世話になっている」という括りに入ってしまうのでしょうか?

      僕はどうやら、あなたの思う「みんな」とは違うひとたち(もいる)なかで生きてきたので、そのひとたちは僕に対して、

      多大な負担を一方的にかける

      とは言いません。

      というかそんなひととは、友達になれないんですけどね。

      ですがもし、僕が今あなたから

      あなたとは一生、友達になれる気がしない

      と言われてるんだとしたら、それはしかたないのかもしれませんが、少し哀しいです。

  5. 山田太郎 より:

    うん、だからその「優しい人たち」と一緒に生きていけばいいんじゃない?そうでない人に啓蒙活動(笑)してる暇があったらさ。
    私も人の善意を当たり前だと思う人とは友達にはなれる気がしませんね。
    私を「障害者をひとくくりにしている」と決めつけてますが、それも失礼な話だな。
    モンスター障害者はマイナス10000点だとは思いますけど、味噌も糞も一緒には考えてませんよ。
    現代って「配慮しなければ行けない事案」が多くなりすぎて、一種逆転現象が起きてますよね。乙武みたいに明らかに性格悪くても身障者だとそれを指摘できなかったりね。
    繰り返しますけど、あなたにできる世のためになることって、身障者の自浄作用を起こせるかどうかじゃないですかね。健常が言うと「差別だー!」になってしまいますから。

    • う〜ん、僕はあなたについてなにか「決めつけてる」というわけではなくて、いろいろと「質問してる」んですけどね。

      ただ今のところ、半分くらいしか答えてもらえてない(と感じてしまう)ので、今ひとつわかりにくいんですが、僕の理解力と言葉選びにも問題があると思います。それは今後、少しずつでも改善していこうと思います。

      それから、僕も「善意を当たり前だと思っている」わけではないんです。

      ただ

      「善意を信じている」

      というだけで。

      あと僕のやってることは特段「啓蒙活動」というようなものではなくて、基本的にはただの「日々の記録」です。

      「健常者」と呼ばれていようが「障碍者」と呼ばれていようが、それぞれの「日常」をわかち合いながら、助け合っていければいいなぁと思っています。

      そして僕があなたに

      「一方的に助けられている」

      と感じられているなら、僕ももっと自分のできることを、ひとつひとつやり続けていこうと思います。

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