「感動」について考えるのはほんとに難しいけど、僕ももう少し自分の気持ちと向き合ってみる

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雲から浮かび上がったハート

ここ数日、「感動」についていろいろと考えている。

「感動が安くなった」なんて表現がある。それは今の時代のひとがあまりにもすぐ、感動しました!とか、一生心に残ります!な...
昨日、自分がこのサイトで自分の「心の動き」について書くということを書いた。そしてそこで、「感動」っていうことについてもいろいろと考え...

でも、やっぱりこの問題について考えるのはほんとに難しい。ただ、このモヤモヤをせめてもう少し解きほぐさないうちは、先に進んでも中途半端になる気がする。だから他のひとたちの助けも借りながら、僕ももう少し、自分の気持ちと向き合ってみようと思う。

「感動ポルノ」という彼女の言葉に込められている想い

彼女は昨日紹介したTedでのプレゼンテーションのなかで、

「感動ポルノ」

っていうかなり衝撃的な言葉を遣っている。でもこの言葉遣いには理由がある。それは彼女自身が言っていることだ。

あえて「ポルノ」と言っているのは ある特定の人たちを モノ扱いして 他の人が得するようになっているからです

コメディアンでジャーナリストのステラ・ヤングは、たまたま車椅子で生活をしています。ヤングが強調したいのは、この事実だけでヤングが全人類を感化するような気高い存在になるわけではないと言うことです。この面白い講演で、ヤングは私たちの社会が障害者を「感動ポルノ」にしてしまう風潮を批判します。

これについてはこの文章も併せて読むともっと腑に落ちた。

ポルノが女性を(あるいは男性を)人格と尊厳を持った人間ではなく、劣情を催すための記号として描くように、感動ポルノは人を「健常者の誰もが持っているものを持っていない人間」「不利で劣った立場からハンディを克服した人間」と見るための道具として使うわけ。

感動ポルノを作る人は、自分が選んだ感動ポルノ俳優がいかに自分たちまともな人間と違うかを強調する。そして感動ポルノ俳優のやることなすことすべての動機をそこに帰結させる。そして勝手に感動する。その感動を周囲に押し付ける。「こんな可哀想な劣った人間が、まるで我々まともな健常者のように、立派な市民のようにふるまっているなんて賞賛すべきことだ。彼を、彼女を名誉健常者、また名誉市民として温かく迎えてあげようではありませんか」ってね。

感動ポルノを作ろうと思ったら、人間としてのユニークなありようなんかばっさばっさ切り落とさないといけない。ポルノを作るときに女を個性ある人間じゃなくおっぱいと性器の付属物みたいに、男優は局部だけ大写しにできたら顔なんか邪魔だと思うようにね。そうするとあの人もこの人もかわらないわけ。人じゃなくて物語りを盛り上げるための道具だから。

オリヴァー・サックスの「心の視力」に片目だけで物を見ること、いわゆる単眼視がいかに生活を困難にするかが書いてある。単眼では物が立体に見えないため、自分と自分をとりまく物との距離がわからない。目の前にあるものがつまめなかったり、遠くにあるものに触ることができると錯覚したりすることもある。 少し眼帯をつけて暮らすとわかるけ...

なるほど、確かに、

あるひとつの「特徴」を「局部」として大写しにして、その他の部分をばっさばっさ切り落として記号化してく

っていうのは、まさに「ポルノ」という言葉にぴったりだと思う。

障碍者が生み出されるのは、その「社会」からだ

そしてステラさんは、そうした現状に異を唱えたうえで、

私が住みたいのは 障害が特別視されるのではなく 普通だと思われる世界です

そして僕が(そしてたぶんステラさんも)苦々しく思ってるのは、

その「困難」を決めつけたり、誇張したり、すり替えたりされること

なんだと思う。たとえばステラさんにとって、

自分の部屋に座って 『バフィー 恋する十字架』を 観ること

とか、

朝ベッドから起きて自分の名前を覚えていること

とかは「困難」じゃない。だからそれで勝手に「感動」されるのは苦々しいことだ。そして周囲がどう思おうが、ステラさんはご自分のからだを気に入ってる。ただ、それでもステラさんが、

障害者としての人生とは 事実 厳しいものです

っていうのはその「からだ」のせいじゃなくてその「社会」に受け入れられてないからなんだ。そしてそれはどんな「感動的な努力」でもどうにもならない。

階段の昇降に苦労している時に どんなに微笑んでも 階段がスロープに変身したりしません 絶対に(笑)(拍手) テレビ画面に微笑んでも 耳が不自由な方のために 字幕が現れたりしません 本屋の中で どんなに感じ良く 立っていたところで すべての本が 点字に変わったりしません そんなの ありえませんよね

って言う通りだ。

だから、感動ポルノに反発したくなるのは、

社会の問題を個人の資質(態度)の問題にすり替えている

からなんだ。だから、そう考えると障碍者は特別なんかじゃない。だって、障碍を作ってるのは社会のほうなんだから。
じゃあむしろこれは、

「障碍者」じゃなくて「障碍社会」の問題だ

って言ってもいいはずだ。この点で、

なぜなら私は 障害の社会モデルを支持しているからです 私たちが住む社会からもたらされる 障害は 身体や病状よりもひどいという 考え方です

っていう意見は、僕とも完全に一致してると思う。

でもだからって、すべての感動がおかしいとも、僕は思わない

でもこの考えを突き詰めてみると、こんな疑問も湧いてくるかもしれない。

おそらく感動ポルノとして扱われる対象者が考える望ましい未来は、こういった「社会的弱者として扱われている人」が「人として例外的な存在ではない、普通の人」とされるような世界が訪れることなんだと思う。けどこれだって突き詰めて考えると本当に良い社会なのかどうか、難しい。だってこういった社会って、感動がない社会になるのだもの。そんな社会は、本当に良い社会だろうか。人は感動してはいけないのだろうか。

あなたは感動ポルノという言葉をご存じだろうか。 これを提唱したのはオーストラリアのコメディ兼ジャーナリストのステラ・ヤング氏で、端的にいえばこれは「ある特定のグループに属する人々を、他のグループの人々の利益のためのモノ扱いすること」である。 どういうことだろう?感動ポルノとしてよく使われるものの具体例を下記にあげてみよ...

けど僕は、やっぱり障碍者に感動するのが全部いけないことだとは思わない。だって、

障碍者は実際、「普通」じゃない

んだから。

この「普通じゃない」っていうのは「少数者だ」って言い換えてもいい。そして「社会」とか「価値観」っていうのは基本的に多数派を「普通」として築かれていくんだから、障碍者はやっぱり「普通」じゃない。そしてそう言われたひとたちが社会のなかで生きていくのは、実際に困難を伴う。でもそれと向き合って生きていくひとがいたら、その姿に感動するのが全部おかしいとは思わないんだ。

それに確かにステラさんにとっては、「朝起きて自分の名前を言えること」は「感動されるようなこと」じゃないかもしれない。でももしそれが認知症のおじいちゃんだったら?やっぱり僕は感動する。

だってそれは、

僕たちの「可能性」を見せてくれてるから

だ。人間の可能性は社会とか、からだの状態とかでかなり制限される。でもそれはときどき周りの、そして自分自身の想像も超えることがある。その「可能性」を見たときに、僕は感動する。そしてそれは、相手が「障碍者」(少数者)かどうかとは関係ない。だって、

どんなに「普通」の、ありふれた環境のなかからも「特別」なひとは出てくる

っていうこと、それが僕にとっての「希望」だからだ。そして、僕たちにはそんな可能性が秘められている。だから、どんなに社会が成熟しても、「感動」がそこから失くなるとは思わない。ただそれは、今の「感動ポルノ」みたいな、「初めに感動ありき」の予定調和的なものじゃなくて、もっと質の高いものになるだろう。それは、ステラさんの言う、

真の成果で評価される世界

ってことなんだと思う。そしてそれは、

どこかの「局部」や「属性」によってだけ判断されるものじゃなくて、もっと全体的な「生き様」から醸しだされるもの

なんだろうと思う。そしてそこにはやっぱり、なにか新しい世界観や可能性が示唆されているんだと思う。だとしたら僕はそれをどんどん見つけて、感動したい。そしてそれをただ「消費」するだけじゃなくて、自分の人生に少しでも反映させていきたい。だって結局は、

自分に与えられているものをどう活かすか?

ってことでしょ?それはみんな違うけど、それはそれでいい。だってだからこそみんなそれぞれが、「特別な存在」なんだから。「感動」はそれに気付く大切なきっかけなんだ。だから僕はこれからも自分の「心の動き」を大切にして、自分なりの人生を、生き抜いていこうと思う。

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