「感動が安くなった」なんて表現がある。それは今の時代のひとがあまりにもすぐ、
感動しました!
一生心に残ります!
なんてことを言ったかと思うと、すぐにまた別の「感動話」を見つけてきて、しかもその前になにに感動してたかなんて、もう簡単に忘れてしまってる、なんてことになってしまってるからだ。簡単に言うと、
「一生」なんて言っても、結局半年くらいしか心に残してないじゃない?
っていうことなんだと思う。そして僕は自分自身を振り返ってみても、確かにその通りだと思う。
「障碍者の話」なんてのは、見せかたによっちゃすぐに「感動話」に仕立てあげることもできるけど……
僕は今の日本における「障碍者」だ。そしてそういう「社会的弱者」をメディアが取り上げることは数多い。そのひとつの理由が、
ってところにあるのは確かだと思う。だってそれが受け手(読者・視聴者……)に狙い通りの「感動」を引き起こすことができれば、製作者側の利益にもつながる。そんな話をほうっておくのはもったいなさすぎるんだから、この流れは自然だとも言えるだろう。
でも、僕はそんな「予定調和」とか「お涙ちょうだい」みたいな話に障碍者が利用されるのを、いつも苦々しく思っていた。だって、いくらそれで製作者と受け手にそれぞれの利点があったとしても、そんな「一瞬の感動」じゃ、社会はなにも変わらない。そして明らかなことは、
ってことだ。でも、その「絶え間ない現実」と日々向かい合う本人たちの重みを少しずつ切り取って「感動話」っていう予定調和に持ち込むってことは、結局、
とも言える。それならもう、
だってことになる。だってそれはもはや、ただの「コンテンツ」なんだから。もちろんそれにも意味があるかもしれないし、誰かを満足させることもできるだろう。でも結局それは、「現実」と向き合い続ける本人たちにとって、なんの助けにもならない。
「感動」が危険なのは、「感動した」という事実だけでなにかに「決着がついた」(解決した)って思い込みそうになる力を持っているところなんだ
と思う。
でもだからって、「感動は要らない」なんていうのも少し違うと思う
でもだからって、僕はすべての感動を否定したいわけじゃない。それにそれは、今みたいに僕が曲がりなりにも「表現者」になったらよりはっきりとわかるようになったことだ。だって僕はあなたになにかを「伝えたい」と思っているからだ。そして、
ってことが、はっきりしてるからだ。この世界に「表現者」なんてひとは山ほどいる。でも、それを誰かに見てほしかったら、そこからなにかを感じ取って、共有して、心に刻んでほしかったら、まず相手を「感動」させることくらいできなきゃどうしようもない。相手の心を動かして初めて、なにかの行動を取ってもらえる可能性が出てくる。それを
感動なんか要らない!
なんて言っちゃったら、結局「このままでいい」ってことを言ってるのと同じだ。でもそれは、自分に対して不誠実な態度だと思う。
誰にも見せたくないなら、自分だけが見られるところに、ひっそりと置いておけばいい。でもそれをみんなに見てもらえる場所に置いている時点で、そこには、
相手に伝えたい!少しでもいいから、相手に感動してほしい!
っていう想いがあるはずだと思うんだ。少なくとも、僕のなかにその想いがあることは、隠ししようがない。だから僕は確かに、あなたの心を動かしたいと思いながら、ここにいるんだ。
じゃあ、結局僕はどうするか?
僕は「消費されるコンテンツ」として、安易に「感動」っていう予定調和に自分が落とし込まれることを苦々しく感じてきた。けど同時に、今僕は「表現者」として、「あなたになにかを伝えたい」と思っている。そしてそうである以上、
感動させることすらできない表現に力なんてないんじゃないか?
とも思っている。
じゃあこの気持ちに嘘をつかずに、かといって表現を諦めることもなく、僕が自分自身と向き合うための道を見出すにはどうしたらいいか、僕は考えた。そして今の僕に出せた答えは、
僕の存在があなたを「感動」させるほどの力があるかはわからない。でも、せめて僕は「僕自身の心の動き」(感動)を素直に書いていきたい
ってことだ。
これは、僕が最近見つけた中村キヨ(中村珍)ってライターさんのこんな言葉と向き合ったことで、はっきりと見つめられた想いでもある。
「ホステスや風俗嬢の闇」と同じくらい横暴な視座は「我々より輝いて見える」「我々よりエネルギッシュで偏見を持っていたのが恥ずかしい」「むしろ我々より懸命に生きている」とかで、尊厳を下に捉えるのも、存在を見上げて見せるのも、どれも。被写体が正面に居ないなら取材倫理を疑ったほうがいい。
キヨ(中村珍) on Twitter“「ホステスや風俗嬢の闇」と同じくらい横暴な視座は「我々より輝いて見える」「我々よりエネルギッシュで偏見を持っていたのが恥ずかしい」「むしろ我々より懸命に生きている」とかで、尊厳を下に捉えるのも、存在を見上げて見せるのも、どれも。被写体が正面に居ないなら取材倫理を疑ったほうがいい。”
さっきも言ったけど、僕は、
感動させることすらできない表現に力なんてないんじゃないか?
って感じてる。でもやっぱり、僕に誰かを感動させる力があるかはわからない。それに、
感動させられそうなことを書こう
とも思えない。そしてなにより、僕がなにかを表現することで、どこかの誰かが傷ついたり、「自分はただ消費されたんだ」って感じたりしてしまうようなこともあるかもしれない。
でもせめて、
って気持ちだけは、忘れずにいようと思う。それは、
ってことでもある。でも同時に、誰になんと言われたとしても、
ってことでもある。だって、それが僕なんだから。
けど、そう言いながらも僕はやっぱりそれがもし少しでもあなたの心のどこかと響き合えたなら、すごく嬉しい。そしてその「感動」が少しでも長く続くことを、それがいつかこの世界を変える力を持つものになることを、僕は本気で願っている。だからこの気持ちがある限り、僕はきっとどこかでなにかを伝えていけると思う。だって、そうせずにはいられないからだ。そして僕はそれを失くさないために、次々上書きされそうになる「感動」を記録して留めておくために、そしてそれを未来につなげるために、これからもここで、書いていこうと思う。

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