「性欲」というものを僕なりに、ちょっとまじめに考えてみる

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きっかけは、この文章を読んだことだった。

突然ですが・・・ あなたは、自らの〝性欲〟について 悩んだり、真剣に考えたことはありますか?性欲が薄いと言われて落ち込んだことがある人。 外では淡白ぶっているけど、実は違う人。 自ら、今...

そして僕はここで初めてこの『hなhとA子の呪い』という作品を知ったんだけど、これは確かに、僕にとっても衝撃的なものだった。だからこの衝撃をただ忘れてしまわないうちに、「性欲」というものについて、僕なりに考えてみることにした。

やっぱり「欲」っていうものは、扱いが難しい

よく言われるように、「性欲」っていうのは「食欲」と「睡眠欲」と並んで「三大欲求」と呼ばれるくらい基本的な欲求だ。そして、どれでもそうだけど「欲」っていうのはその扱いがとても難しい。どこまでも求めていって過剰になれば苦しみになるし、かと言って無理に抑えつけようとしても苦しくなる。食欲で言えば過食と拒食、睡眠欲で言えば寝過ぎ(から来るだるさ、あるいは病的な眠り)と不眠症、そして性欲で言えば、性依存症と性嫌悪症がその端的な例だと言えると思う。そしてそこまで極端じゃなくても、みんなそれぞれどこかで折り合いをつけて生きているんだけど、その強さはひとによっても違うし、簡単に対応できるようなものじゃないと思う。だからこれは場合によっては、けっこう深刻な悩みになるものだ。

性欲の根底には、「好奇心」があるんじゃないか?

僕は20代の男だけど、自分ではそんなに性欲が強いほうだとは思っていない。でもそれは、誰と比べるかによっても違うものだから、実際はなんとも言えない。ただ、「性」というものに対する関心は、けっこうあると思う。そして、「性欲」の根底には、「好奇心」があるんじゃないかとも思ってる。

だって、日本人なら特に馴染みの深い『古事記』には、

読み下し文

ここにその妹、伊耶那美命(いざなみのみこと)に問ひたまひしく、「汝(な)が身はいかに成れる」と問ひたまへば、答へたまはく、「吾(わ)が身は成り成りて、成り合はぬところ一處あり」とまをしたまひき。ここに伊耶那岐命(いざなぎのみこと)詔(の)りたまひしく、「我が身は成り成りて、成り餘れるところ一處あり。故(かれ)この吾が身の成り餘れる處を、汝が身の成り合はぬ處に刺し塞(ふた)ぎて、國土(くに)生み成さむと思ほすはいかに」とのりたまへば、伊耶那美命答へたまはく、「しか善けむ」とまをしたまひき。

現代語訳

ここで、(伊耶那岐命が)妹の伊耶那美命に

「あなたの身体は、どのようにできていますか」

と問うと、伊耶那美命は

「私の身体には、成長して、成長していないところ(女陰のことを示す)が1ヶ所あります」

と答えました。そこで、伊邪那岐命は

「私の体には、成長して、成長し過ぎたところ(男根のことを示す)が1ヶ所あります。そこで、この私の成長し過ぎたところで、あなたの成長していないところを刺して塞いで、国土を生みたいと思います。生むのはどうですか。」

と述べました。伊耶那美命は

「それはよいことでしょう」

と申しました。

なんて書いてある。『ギリシャ神話』とかも相当だけど、こんなおもしろい神話を残しちゃう日本ってすごいなぁって、僕は高校生くらいのときに初めて知って笑っちゃった。でも、こんなのなんてまさに、「好奇心」の表れだと思うんだよね。

性欲っていうのは、どこまで環境的・社会的なものなんだろう?

そんなことをぼんやりと考えていたら、たまたま見つけたウェブマガジン、『コミックヴァルキリー』のなかに、こんな連載作品があったんだ。それは、『貞操逆転世界』っていうマンガだった。

この作品はまだ1話しかないけど、今のところ誰でも無料で読めるように公開されてるみたいだから、僕もちょっと読んでみた。

そしてまず感じたのは、

確かに今の社会での一般的な認識としては「男性のほうが性欲は強い」ってことになってるけど、それはもしかしたら、文化的・環境的なものなのかもしれないなぁ……

ってことだ。マンガとか小説のいいところは、

今の「当たり前」をぶち壊してくれる

ってところだと思うんだけど、そういう意味で言うと、確かにある環境や社会によっては、女性のほうが性欲を強く発揮するような社会があってもおかしくないような気もした。これは、本来の男性と女性の性欲にたいした違いがないのだとしたら、より現実味のある話に思えてくる。

でも、やっぱり男性と女性の間には、明白なひとつの「違い」がある

でも、僕はこの『貞操逆転世界』に、やっぱりどこか違和感を覚え始めた。その原因を探っていくと、それは

もしこんなふうに女性のほうが性欲を持て余すような世界があったら、そこでの妊娠の問題はどうなるんだ?

ってところにあることに気付いたんだ。そう、いくら環境や社会の影響を差し引いて考えても、それでもやっぱり、男性と女性の間には明確な差がある。だって、

からだに赤ちゃんを宿して、産み出すのは、絶対に女性のほう

なんだから。もちろん、男性なしではこどもは宿らない。でも、それを長い時間をかけて自分のからだのなかで育て、いのちを懸けて産み出すのは、女性のほうだ。そしてそれは、かなりの「危険性」を持つことでもある。それなのに、その女性が誰彼かまわず性欲を向けてしまうような状態は、やっぱりかなり不自然に映る。

じゃあ、これを逆に言うと、

女性は自分自身のためにも、こどもを宿すような行為に対して慎重になるのが自然の成り行きだ

ってことだ。そうじゃないと、女性は自分の身を危険に晒すことになる。だからこそ、もう一方の男性は、その「護り」を越えて、自分を認めて選んでもらうために、自分をどうにかして「プレゼン」しないといけない。逆にもしその「プレゼン」をするひとがいなくなって、男女ともに「護り」に入ってしまったら、いずれ人類という種族は滅びてしまう。

だから、そう考えると、

「性欲」っていうのはつまり、「プレゼン本能」なんだ

と言ってもいいような気がしてくる。女性は、自分のいのちを懸けてこどもを産みたいほど愛せる相手なのかを、全力で見定める。そして男性は、その「情熱」や「想い」を、女性に伝える。そしてそこでお互いの意志が通じ合ったとき、そこに新しいいのちが生まれる。女性の「いのちを懸ける」というリスクに対して、男性が「全力で愛情と覚悟を伝える」というプレゼンをすることで成り立つというのは、少なくとも自分にとっては、なかなかしっくり来る気がする。だからこそ、イザナミからイザナギに声をかけるのはダメで、先にイザナギからイザナミに声をかけなきゃ、いけないってことなんじゃないの?

「男女の性欲がある年代で逆転する」っていう話ももしかしたら……

ところで、自分は男だからあんまり深入りはしないけど、一説には「男女の性欲はある年代で逆転する」って話もある。これももしかしたら、性欲を「プレゼン本能」って捉えれば、

私はいつまでもこどもを産めるわけじゃないんですよ!だからもし私を選ぶなら、今がいい時期ですよ!

っていうことなのかもしれないって気もする。あと、実際男性のほうだって性行為には「体力」が必要になる。だから、年を重ねるに従って男性の性欲が衰えていくのは自然だと思う。だけどそうやって男性があまりにも「プレゼン」を億劫がってしまうと、やっぱり種の存続が危なくなる。だからそこに「発破をかける」ために、ある時期には女性がその主導権を握る……なんて考えれば、こういう説にもそれなりに、納得がいく気はするんだよね。

もし、「男女に同じ程度のリスクがある」っていう世界があるとしたら、そこでの性欲のかたちは、今とはだいぶ、違うと思う

ただ、ここまでの話は男女の性欲がかなり理想的に機能しているのを前提としている。だけど実際には、性欲はやっぱり厄介な側面を持っている。それは、

男性の性欲(プレゼン本能)は、ときどき暴走して、狂気(攻撃性)に変質する

ってことだ。

本来、女性が自分の身を護るために慎重になっているのを打ち破るための「プレゼン能力」であるはずの男性の性欲が暴走すると、それはただの「狂気」(攻撃性・性欲の押し付け)になってしまう。そしてそれは、女性を傷つける。これがひどいことなのは間違いない。でもこれはある意味、男性のほうに「リスク」が少ないことから来ている気がする。もしただただ欲望のままに性行為を持っても、その結果としていのちを懸けてこどもを産むようなことにはならない。その意味で、「行動に対する責任」がとても軽いと言える。

でも、もしも、

自分のからだで赤ちゃんを育んで、いのちを懸けて産み出すのが、女性じゃなくて男性だったとしたら?または、男女両方に妊娠能力があって、性行為の結果どちらにこどもが宿るかはまったくの5分(=50%対50%の確率)だったとしたら?

きっとそんな世界の性欲のかたちは、今とはだいぶ違うものになっているだろう。たとえ、男女の体力や腕力の差が、今と同じだとしてもだ。そしてそこでは、「性犯罪」もきっと、かなり減っているんじゃないかと思う。だから結局は、男性の「責任感と自覚」があるかどうかが、性欲の暴走を防げるかどうかのカギなんだと思う。

もし、生殖機能になんらかの「制限」があったとしたら?

さっき空想した2つの仮定は、実際にはかなり突拍子もないような話だ。でもそれよりはもう少し現実的な仮定として、こんなのを考えてみるのはどうだろう?

もし、男性の生殖機能になんらかの「制限」があったとしたら?

女性の生殖能力には、実際にもう「制限」がある。それは言ってしまえば「年齢制限」だ。でも男性は、基本的にはほとんど制限がない。双子とかの例外を除けば、女性が1年くらいかけて1人のこどもを育んで産むのに対して、男性は理論的には、1年で何人のこどもを(違う女性のからだのなかに)産み出すことだってできる。この差が、男女の性欲の差と、その結果としての男性の性欲の暴走を生み出しているとも言える。でももし、そこに「制限」があったら?もし、たとえば男性の生殖機能に年齢制限が(たとえば40歳くらいまで)、男性が生涯でできる性行為の数に回数制限が(たとえば20回くらい)あったら、そこでの性欲の在りかたは、今とはだいぶ、違うものになるんじゃないかって気がする。ちなみにその「可能性」のいくつかは、北崎拓ってひとの描くマンガ、『クピドの悪戯シリーズ』なんかで提示されてる。僕もこのシリーズはほとんど読んでるけど、個人的には、かなりの名作だと思ってるよ。

「私たちは石ではない」なんて、ほんとは言うまでもないと思うんだけど……。

ここまで「性欲」について僕なりにいろいろと考えてみたけど、これは程度の差こそあれ誰にとっても大切な問題だ。でもそれはあまり大っぴらに語られる話題じゃないし、特に日本での「障碍者の性」の話となると、それは社会的にはほとんど、黙殺されてる状態だ。でももちろん、障碍者だって生きている人間だ。そして、性といかに向き合うかっていうのは、とても大切な要素で、それは社会とそこに生きるひとたちに委ねられている。たとえばオランダの状況は、日本でももう紹介されてるけど、こうやって「進んでいる」って言われてる社会ですら、まだまだ完全じゃない。だって、「私たちは石ではない」なんて当たり前のことを、わざわざ言わなきゃいけないんだからね。

1982年10月に、レーネ・フェルクートによって設立された「選択的な人間関係財団(SAR)」は、

アムステルダム南のザイスト市郊外にあり、男女合わせて15人のサービス提供者が、

施設や自宅での有償セックス・サービスを提供している(2009年時点)。

主な活動範囲は、オランダ、ベルギー、ドイツの国境近郊。

⇒SARホームページ(http://www.stichtingsar.nl/

活動理念は、「私たちは石ではない。どんな重い障害でも、性的欲求はある」。

だからこのことはまだまだいろんな葛藤を乗り越えて解決されていく問題だとも思うし、個人的にはこれからの動きにも期待しているんだけど、

昨日たまたま「乙武洋匡」についての文章を書いていたとき、僕はまだ世間の「騒ぎ」を知らなかった。だけどそれを公開したあと、まさにその本...

誰かに頼る前にまずは僕も自分自身にとことん向き合うところから、やっていこうと思う。

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