よく「よっこらしょ」ってなんて言葉が出たらおじさんおじいちゃんになってきてるって言われるけど、そう言うなら僕はもう完全におじいちゃんだ。でも、それは僕の肉体的な機能から言えば、むしろ自然だと思う。だって、僕はからだをうまく動かせないし、少し油断すると突然力が抜けてしまうようなこともある。だから、そこに気合いを入れて、自分のからだにはっきり「意志」を伝えるためにも、僕の生活にはいつも、ちょっとした「かけ声」が、欠かせないんだ。
無意識でできることっていうのが、僕にはほとんどない
僕たちは同じ動作に慣れてくると、だんだんそれを無意識でできるようになる。でも僕の場合そういう「無意識(惰性)でできること」っていうのがほとんどない。いくら僕のからだとは20年以上の付き合いがあるとはいえ、それすらその日その日で調子が違う。もっと言うと、そのときそのときで違うとすら言える。だから、それは決して「油断できる相手」じゃない。そう、僕にとって、
よね。まぁこれは、僕がいちから考えだしたことじゃなくて、『ボディ・サイレント』とか、そのへんの影響なんだけどね。
だから、僕は朝起きて起き上がるときも、足に絡みついたふとんを払ってふとんから這い出るときも、トイレの手すりに掴まって便座に座るときも、ひとつひとつ
よっこらしょっとぉ!
みたいな感じで気合いを入れて、自分でできる限り神経を集中させようとしてる。ただ、それでもすべったり、掴み損ねたり、力が抜けたり、逆に力が入りすぎたりして、うまくいかなかったり、転んでしまったりすることもある。けど、それでもかけ声をかけないよりは、かけたほうがいいんだよね。これは半分ゲン担ぎみたいなところもあるんだけど、やっぱり「気持ちを切り替える」っていう意味でも、かけ声はとても、有効だと思う。
でも、かけ声がいちばん存在感を発揮するのは、誰かに手伝ってもらうときだ
でも、自分独りで動くとき以上にかけ声が存在感を発揮するのは、やっぱり誰かになにかを手伝ってもらうときだ。たとえば誰かに手を引いてもらって少し歩くとき、手を引いてもらうのが早すぎても遅すぎても足が突っかかったりバランスが崩れたりして困ることになる。
でも、
1、2のリズムで左足から出しますね
みたいにあらかじめ合図を決めたからやるとけっこううまく行きやすい。あとは、いすから立ち上がるときみたいにもう少し「溜め」が必要な場合は、
1、2の3で行きます
みたいに3拍置くのがいい。こういうのは今までいろいろと試してきたんだけど、今のところ
っていう考えに落ち着いてる。
「せ〜の」は意外に息が合わないことも多い
だってこれを「せ〜の」でやろうとすると、その相手の感覚とか環境によって、
せ〜の〜で!
の「で!」で行こうとするひととか、
いっせ〜の!
って言うふうに最初に「いっ」が入って3拍になるひととか、
いっせ〜の〜で!
みたいな合わせ技の4拍のひとなんかも出てきてけっこうややこしくなるときがある。しかも、本人はそれが「普通」だと思ってるから、実際にやってみるまでそれぞれの「普通」のズレに気が付かないこともある。さらには、
いっせ〜の〜で〜わ!
みたいな5拍まであるから、これは関わるひとが多ければ多いほど息が合わない危険性が高くなる。だからこの「せ〜の」っていうかけ声は、少なくとも僕の体験から言うと、意外にけっこう危ないんだ。
その点、数字で表すかけ声だと、たいていの場合
1、2の3!
の3拍で感覚が合う。これを、
1、2、3の4!
とか、
1、2、3、4、5!
みたいな拍でやろうとするひとは、今のところ見たこともない。あとは、1と2の間とか、2と3の間にどれくらいの「溜め」を入れるかが多少違いがあるくらいだけど、それは事前に
1、2の3で行きますね
って僕が言うときに感覚を伝えて共有しておけば、できるかぎりズレを修正できる。それでも、たまに息が合わなくて少し怖い目に遭ったり、実際に転んでしまったりするようなこともある。でもそれは、かけ声がないときに比べれば、まだだいぶ少ない。そして、手伝ってくれる相手と自分が馴染めば馴染むほど、その危険はさらに減っていく。でも、油断はしちゃいけない。だから、かけ声はやっぱり、欠かせないんだ。
自分とも、みんなとも、声をかけ合い続けたい
僕は、独りでできることがとても少ない。だから、誰かと力を合わせないといけない場面がとても多い。でもそれは、多かれ少なかれみんなそうなんじゃないかとも思う。じゃあそんなときこそ、
と思うし、そのためにこそこの「社会」があるんじゃないかと思う。でも今の社会はけっこう窮屈なところもあるから、道行くひとにいきなり声をかけたり、こどもにあいさつしたり微笑みかけたりなんかしたら、それだけで「不審者」と見なされかねない。だからそんなことはしないけど、僕はこれからも僕なりのやりかたで、自分にも、みんなにも、声をかけ続けていきたいと思う。たとえその「声」を「言葉」にできないとしても、
だったら僕はそのできることを、ちゃんとやっていこうと思う。