いつか「その日」が来るのがわかっているからこそ、僕は行けるところまで行く

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寂しげな道

またこの日本で「震度7」の地震が起きた。これは日本国内の地震としては観測史上4回めで、前回のはもちろんあの東日本大震災だ。今回は、マグニチュードは6.5だから東日本大震災(マグニチュード9)よりはだいぶ小さかったんだけど、震源の深さが10kmくらいしかなかったから、影響が大きくなってしまったってことらしい。でもそもそも、本来マグニチュード6.5を「だいぶ小さい」って言ってしまっていいのかどうかもよくはわからない。でも、ついそういってしまうような感覚になるくらいの「地震大国」に、僕たちは住んでいる。

「起きないと思われていた場所」でも、地震は起きるという事実

さっき言った観測史上4回の「震度7」の地震っていうのは、1995年の阪神淡路大震災、2004年の新潟中越地震、それに2011年の東日本大震災と、今回の熊本地震の4つらしいんだけど、これはすべて僕が生まれてからの20年くらいの間に起きている。そしてこれからも、「南海トラフ地震」やら「首都直下型地震」みたいな巨大地震が、いずれは必ず起きるだろうと言われている。

でも、僕の知る限り「熊本」でこんな地震が起きる可能性に強く警鐘を鳴らしていたひとなんて、そうそういなかったんじゃないかと思う。でも、それは起きた。しかも、まったく予測できなかったタイミングで。だから結局、自然に対して人間が持っている知識は技術なんて、その程度のものだったってことだ。そして今回改めて明らかになったことは、人間が勝手に「だいじょうぶだ」と思い込んでいた場所でも、地震は起きるってことだ。でもこれは、別に地震だけに限った話じゃない。事故だって、病気だって、人生を変えるような出来事は、ほとんどいつだって不意にやってくる。そしてそれは、いつかは自分の人生を終わらせることになる。

そして僕は、そのときには真っ先に、死ぬことになる

とはいえ、不測の事態が起きたって、みんなが死んでしまうとは限らない。自然現象でも、事故でも、病気でも、そこから「立ち直る」ことができる力を持っているからだ。今回だって、「震度7」って言葉が持つ衝撃から比べれば信じられないくらい、被害は小さくて済んでいるとも思う。これは、「地震大国」として生きてきて、さらに東に問題震災でも培われた日本の経験知と、助け合いのネットワークが、それなりには有効に機能しているという証でもある。そしてそれは、素晴らしいことだと思う。

でもだからと言って、全員を助けられるわけでもない。そしてそのときには、高齢者とか病気のひとみたいな「社会的弱者」が、いちばんにその打撃を受ける。そしてそのひとりには、間違いなく僕自身も含まれている。

それは、地震だけじゃなくてたとえば火事とかでも同じことだ。「逃げ遅れる」という場合の多くに「足が不自由だった」とか「寝たきりで自力では動けなかった」みたいな理由があることから見ても、それはほとんど僕自身のことを言われているようなものだ。だからやっぱり、前にも言ったとおり、

もし「その日」がここにやってきたら、僕はたぶん死ぬことになる
「忘れられない日」というのはたくさんある。ただそのいくつかは、「僕にとって」忘れられない日だったり、「あの場所にいたひとにとって」忘れられな...

ってことなんだ。その認識はこの先もずっと、変わらないと思う。

だからこそ、僕は1日1日を大切に生きていく

だけど、僕は前にも言ったとおり、別に人生を諦めて悲観しきってるわけじゃない。ただ、現実を現実として受け止めようとしているだけだ。そして、今回の地震を経て、さらに

自分に、なにができるだろう?自分は、なにがしたいんだろう?

と考えた。でも僕は、現実にボランティアとしてなにかができるわけじゃない。それどころか、僕自身がいつも誰かの助けを必要としている。じゃあ、募金ができるかって言えば、そんなこともできない。だって、まず自分自身にたいしたお金がないんだから。

じゃあ逆に、なにもしなければいいんだろうか?こんな『四つ這いおとな』なんて、やめてしまえばいいんだろうか?でも、それをやめるっていうことは、結局は「傍観者」になるってことだ。なにを言うのも怖がって、なにをするのにもビクビクして、思ったことも言わずに、やりたいこともやらずに、ただどうしようもない切なさと無力感を抱えて、いつか死ぬそのときまで、生き続けるってことだ。そんなことをして、誰が喜んでくれるって言うんだろう?それに、そんなことがいったい、誰のためになるって言うんだろう?

それに今回は、「まだ」自分が巻き込まれなかったっていうことに過ぎない。もし震源が僕のいた場所の真下だったら、僕はもう死んでいた。そしてそれはもしかしたら今日かも知れないし、明日かもしれない。そしてなんら「特別なこと」がなくても、僕はあと数十年かしたら、確実に死ぬことになる。それこそが、最もまぎれのない、明らかな「現実」だ。

だったら、僕はやっぱり、1日1日を大切に生きていく。それは別に、「死んでしまったひとのぶんも」なんていう大それたことを言う以前の問題だ。だってそもそも、そんなことを言えるほど、僕はたいした人間じゃない。ただ僕がわかっていることは、

あの死者のなかに僕が含まれていたとしても、なんら不思議じゃなかった

ってことだけだ。そしていつか「その日」がやってくることは、もうわかりきってる。じゃあそのときに、誰よりも自分自身が、後悔しないように生きるしかない。そしてこの『四つ這いおとな』を始めたのも、そう思ったことをかたちにしようとしたからだ。それがわかっているなら、僕はなおさら、これを続けていこうと思う。どこまで行けるかはわからない。でも「行けるところまで行く」ことはできる。それが、僕にとっての人生だ。この想いを忘れずに、僕はずっと、生き抜いていこうと思う。最期のその日が、来るときまで。

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